12.gloria 05



 会場の中のざわめきが届かぬ部屋の中は、穏やかとは言い難い空気に満たされていた。
 銀河を統べる皇帝とその首席副官に、上級大将の中でも筆頭の座を戴く砂色の瞳の青年将校。
 その場所が芸術劇場の控え間などではなかったら、見る者には彼らが今から何らかの会議を行おうとしている風に見えたろう。だが実際には皇帝はごくごく私的な用件のために、優美な脚を組んで壮麗な瞳の色を隠し、ただじっと亡き友の恋人であった女性を待っていた。
 ミュラーは同席を辞退しようとしたが、以前、名代を頼んだこともあり何かと縁があるからと、ラインハルトは彼の退出を命じたりはせず側に留まらせた。一度は固辞したミュラーだったが、落ち着いた様子で頷いた後は、じっとラインハルトの右後ろに控えている。シュトライトは先ほどからやや緊張した面持ちで、彼の心臓を守ろうとするかのように左やや前方に位置していた。
 シュトライトの配慮の意味を悟りながら、ラインハルトはけれども会うことを止めようとは思わなかった。
 恋人を失った女が鬼と化す様を、ラインハルトはベーネミュンデ伯爵夫人という先例に見ていた。
(だが)
 今宵、彼に届いた音には、何一つとして暗い色はなかったと、音楽に疎いながらもラインハルトは思った。
 仮にそれが彼の思い違いだとして、 ・フォン・ が怒りや恨みに彼に打ちかかって来ようとするならば、己は覇道のために彼女を切り捨てるだけだった。実際の行動はシュトライトがやってくれるだろう、頭の片隅の冷徹な部分がそう囁いていた。

 物憂げな思考を断ち切るよう、扉が打ち鳴らされる。
・フォン・ 子爵がお見えになりました」
 部屋の扉脇に歩哨として立っていたリュッケ大尉が開けた扉から、舞台衣裳の赤を纏ったままの女性が現れる。着替える間も惜しんでやってきたのだと知れた。
「お待たせして申し訳ございません、皇帝陛下。 ・フォン・ 子爵でございます。ご尊顔の拝謁を賜り光栄でございます」
「よい、面を上げて椅子にかけよ」
「お許しに感謝致します」
 深いお辞儀の最敬礼を施していた亜麻色の髪の女性は、ゆっくりと顔を上げる。
 写真には現すことができない微妙な光加減。
 真っ直ぐと向かってくる青い瞳が、いつかの指輪の輝石の色と全く同じであることを、ラインハルトは知った。
「失礼します」
 優美に広がる赤い裾を静かに捌き金髪の皇帝の対面に座した女子爵に、張り詰めるような緊張はなかった。
「今宵の演奏はとても良かったと思う」
「ご来臨の上、お褒めの言葉を預かり恐悦至極でございます」
 涼やかな笑顔で礼を述べる に、彼は違和感を覚える。
 型どおりの挨拶。
 違う、自分はこのようなことを話にきたのではないと、ラインハルトは思う。
 けれども穏やかに微笑む女性を前にすると、彼は途端に三年前の己に引き戻されるように感じられた。
 深い後悔と、背けたくなるような姉の微笑み、そして友の最後の姿。
 彼女の胸元に光る指輪はいつか自分が彼女に返したものだと、彼は気付く。
 沈黙が落ちた。
 作法の上では目上の者が声をかけるまで、目下は喋ってはならない。だから、 が言葉を発しないことは全く礼儀にかなったことだった。
 だが。
「皇帝陛下、不躾に言葉を差し上げる非礼をお許し下さいませ。陛下に申し上げたきことがございます」
 ラインハルトは内心に少しの揺れを感じたが、それを美麗な面に出すことはしなかった。
「よい、許す。話せ」
「ありがとうございます。陛下、わたくしの思い違いでなければ、陛下は今宵、私たちが共に失ってしまった彼についてのお話をなさろうといらしたのではありませんか?」
 それは確かに不躾な言葉のように、ラインハルトは感じられた。相手の心の奥深くを探り、抉り出すような言葉。だがそれは真実であったので、ラインハルトは頷くだけだった。
「以前、3年前の彼の命日に、陛下はミュラー提督を名代として言葉と指輪をお送り下さいました」
 後ろ手に手を組み直立不動の姿勢を崩さぬミュラーを一瞥した は、胸元に下げられた指輪を押さえて言う。
「私にとっては、あれだけでも過分なご配慮というものでした。改めてお礼申し上げます。あの指輪は私の母の形見であり、私が彼に贈ったものでした。手元に戻ってきたことでどれほど救われたことか知れません」
「…内側に、銘が入っていた。本来ならばすぐに返すべきであったのに、遅くなったことに関しては予の至らぬところであった」
 認めたくないことを見ない振りをしていたのだと、彼は苦く己の過去を思い起こす。
「いいえ、こうして手にすることできたことに、陛下には感謝の思いしか抱いておりません」
 瞳を閉じて心を確認するように呟くルディアに、ラインハルトは今こそ告げねばならないと思った。
「……キルヒアイスは最後に…貴女の名を呼んでいた」
 それはラインハルトが、赤毛の友を失って姉と対話したときから後、初めて友の名を口にした瞬間だった。
 苦しげに血を吐きながら、最後の吐息に乗せた名。
 それが己と姉のものでなかったことに、ラインハルトは確かに僅かではあるが、嫉妬の念を感じずにはいられなかった。その嫉妬の対象となる人物が、目前の亜麻色の髪の女性だった。
 ラインハルトの苦しげな言葉に、 は儚げに微笑んだ。
「そうですか…お伝えくださって、ありがとうございます。そのことだけで、私は救われる思いが致します。あの日々が、決して間違いではなかったのだと。不幸などではなかったのだと。私が彼を想ったように、彼もまた私を心に想っていてくれたのだと」
 いつかと同じような気持ちを抱き、ラインハルトは恋人を失った女性へと告げる。
「謝罪を告げることはしない。だが、キルヒアイスを失ったことを、予は心から、今も、悔やんでいる」
「私は彼の行いに何も申し上げることはございません。彼が自ら決めて選んだことです。確かに私は彼を失って深く悲しみました。ですが、陛下に謝罪頂くことなど考えも致しませんでした」
 そう言って は、沈痛な空気を振り払おうとするかのように晴れやかに微笑むと、彼に切り出した。
「陛下、ひとつお願いしたき儀がございます。いつか、私に望むことがあれば如何様にもかなえると、そうお言葉を賜ったことを、私は忘れておりません」
 強請るような言葉であったが、彼女の浮かべる表情は後ろ暗いところなど全くない様子だった。
「申してみよ」
「ありがとうございます。それでは、ひとり、会って頂きたい者がいるのです。隣の部屋におりますので、お待たせは致しません」
 それは誰か、と問いかけたくなる誘惑をラインハルトは抑え、鷹揚に頷き、扉に近いミュラーへ振り返らず右手をあげて指示する。
「ミュラー、その者を連れてくるよう」
「Ja」
「ミュラー提督、お願い致しますね」
 親しげに語りかけた にミュラーは立ち止まって振り返り、口元に笑みを浮かべて目礼し、子爵が会わせたいという人物を呼びに行った。交わされた視線や親しげな口ぶりにミュラーと若きピアニストが一度や二度会っただけという関係には見えず、ラインハルトはその疑問を口にした。
子爵は、ミュラーと普段から親交がある様子に見えるが?」
「はい、陛下の名代としてお会いしてからは、何度かお会いすることもございました。ミュラー提督はお忙しい中でも私のコンサートに足を運んで下さいますし、便りも下さいますので」
「そうであったか…」
 意外な関係に驚いたラインハルトだったが、彼は聡明な頭脳に似合わず異性や人間関係にはとことん疎い部分があったので、 の言葉通り、二人は何度か会って話をする程度には交友関係があるのだろうと思っただけだった。