12.gloria 03




 何もかもが不完全で、不定形な世界。
 未完成な私たちはいつも苦しんでいる。
 やっと手に入れたものさえも、無慈悲な神は残酷に奪っていく。
 心充たされる通じ合えたという幸福の裏返しは、不本意な別離のもたらした苦しみ。
  はラインハルト・フォン・ローエングラムのことを考えると、心の奥深く、悲しみの裏で息づく醜い自分がさらけ出されてしまうようだった。泣き続けた毎日の中で闇を貪欲に取り込んだ怪物が、彼女の中で育っていた。
 ジークのラインハルト様。
  は、彼に負けた気分を味わった。比べる意味などないとわかっていても、最愛の人の命をもって庇われた「ラインハルト様」に抱く感情は、間違いなく羨望と嫉妬だった。
 なぜ、私と約束を交わした彼は、私を置いて死んでしまったのだろう?
 ラインハルト様を庇ったからだと、彼女は何度も繰り返しその理由を握りしめた。
 現実は残酷だ。
 その真実を語る人はもういない。
 ただ彼女はひとり同じ疑問を巡り続けた。
 己の下には、胸を掻き毟りたくなるほどの悲痛と、忘れることのできない幸福な過去と、最後に会ったあの日にもらった指輪しか残らなかった。そして、叶えられなかった約束と。
 そのように考えた、四年前。


 何のために生きるのだろうと、問わずに生きる人はいるだろうか。
 初めの一音は、いつも心が震えた。
 始まってしまうのだと、怖くて仕方がなかった。それでも、始まらなくては音を紡げない。
 この世に何も生み出すことができないし、何を伝えることもできない。
 毎日飽きずに繰り返す練習で磨き上げる指の動き。
 でもただ楽譜通りに弾くだけなら機械にだって可能。

 私は私の心を伝えていくために生きるのだろうと、彼女は思う。
 言葉では、伝わらないことがある。
 教科書には載らない、ちっぽけな人の営みがある。
 自分ともう一人しか知らないような共に過ごした時がある。そうして感じた幸福がある。
 同じように、絶望の苦しみもある。言葉にしてはいけないこともある。
 だからこそ、このような形でしか伝えられないことがある。
 白と黒の鍵が心と心を繋ぐ扉を開ければいいと、彼女は思う。
 彼女が黒く優美な楽器を支配する時には、誰もが私の語りかけに耳を傾けよと思う。
 宇宙を統べる皇帝であっても、今この時ばかりは私に命令することはできない。
 終りが近づけば、いつもその時が惜しいと思う。まだ伝えていないことがあるのではないかと。
 本当に伝わったのかと。聴く者の中に何かが残るだろうかと。
 そのように考えてばかりいるから、楽譜に連なる最後の音を紡ぎ終えたとき、いつだって は自分がその場に本当に存在しているのかわからなくなる。確かに音楽を奏でていて、湧き上がる拍手が称賛を与えてくれるというのに、ぼんやりとした感覚しか自分の中には残っていない。
 全ては奏で終えた音楽の中に置いてきてしまったように。

 それでも彼女は立ち上がる。
 そうだ、まだ明日があるではないか。その先にも弾かなければいけない機会があるのだと、赤いドレスを翻して は場を満たす観客に向かって礼を取る。
 上げた視線の先、暗闇の貴賓席でも煌めく金の色をみつける。
 私が言伝と手紙には乗せられなかった気持ちを彼は受け取っただろうかと思いながら、 はアンコールに応えてもう一度、席に着く。
 今この時、この曲だけは、ただ一人に捧げる歌だと、失った愛を彼女は奏でる。