11.hues of blends


 取るべき態度を決めかねたまま、砂色の瞳の提督は演奏会の日を迎えることになった。
 その日の朝、彼は早めに起きてジークフリード・キルヒアイスの墓へ赴いた。まだ人も疎らな朝霧に霞む時刻、墓地には求めた人影はあるはずもなかった。だが誰か先客がいたことを示すよう、墓に手向ける花としては珍しく思える白と赤の円く愛らしい花束だけが、死者の標にそっと添えられていた。
 その花の名を知らぬミュラーは、けれども幾重にも花弁を纏った花が会うことになる彼女に似合うだろうと、演奏会へ向かう途中、花屋で指さし買い求めた。店員に尋ねると、その花言葉は「高貴な人・あなたは美しい」という意味だという。ただ礼儀にのっとって花束を用意しただけだったが、自ら花を選ぶという行為に、ミュラーは己の心が浮足立つのを感じずにはいられなかった。

 演奏が披露される会場は、街の中央からやや離れた閑静な公園に位置する小さな音楽ホールだった。既に世に名の売れたピアニストが演奏するには、充分とは言えない広さだったろう。限られた数のチケットを手に入れた幸福を片手に入口をくぐる観客たちの顔には、楽しみにしている様子がありありと見て取れた。
 ミュラーもラインハルトの頼みがなかったのなら、いつもデータディスクで見ていた ・フォン・ の演奏を同じ空間で直接聴けることに胸躍らせるばかりだったはずだ。
 だが地上車を降り立ったミュラーの心は、異なる色の絵具をぐちゃぐちゃに混ぜたように複雑な模様を描いていた。単純に会いたかった相手に会えるという嬉しさと、演奏を心待ちにする楽しさ、そして任務を果たさねばならないという重圧と、その内容の気の重さ。

 しかしそのような心の内を払拭するよう、 の奏でる音はミュラーの中を心地よさと切なさをはじめとした数々の感情で充たした。
 ミュラーは音楽のことなど、殆ど知らない。技術的な上手下手は耳心地で素人にもわかるとしても、そこに込められた奏者の感情を読み取れるとは思っていなかった。
 赤をまとって舞台に現れたその日の主役は、演目の最初を、嵐のように聴く者を揺さぶる激しい曲で飾った。次の曲は沈痛に死者を悼むもの悲しさに心が痛んだ。次にはゆったりとたゆたう日々の流れを表現するよう、同じ旋律が何度も繰り返される曲だった。
 ミュラーは聴きながら、その曲たちがまさに彼女の過ごした日々を表しているようだと感じていた。おそらく彼の予想は当たっているだろう。いとしい者を亡くしたその心の動きを、彼女は語りかけるように弾いているのだ。
休みなく続いた演奏も、終演へと近づいていた。何曲目かでそれまでの苦しく切ない曲調から打って変って、勇ましく進むような、楽しく踊るような曲が黒く優美な楽器から飛び出した。

 それは彼女が前向きに生きていくことを宣言するかのようだった。
 一年という期間の弔いが、短いのか長いのかミュラーにはよくわからない。
 だが は曲目の数々で表現したように心の変遷を味わい、今日この日を迎えたのだと、彼でも感じ取ることができた。
 後に控えた仕事も忘れ、ミュラーはただその場に同席できてよかったと、心から思った。

 奏者が鍵盤から音を紡ぎ出した手を離し立ち上がると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。深々と礼をした が袖口へ退がっても止むことのない観客の求めに応じるよう、彼女は再び舞台へと上がる。拍手の音が再登場の喜びに高まり、漆黒のピアノの前に亜麻色の髪のピアニストが座れば、一切の音を聴き逃すまいと先ほどの喧騒が嘘のように会場は静まった。
 一呼吸おいて、彼女は誰もがよく知る愛の歌を奏でた。
 音楽に疎いミュラーさえもが、その旋律に歌の意味を思い浮かべるほど有名な曲。
 誰かをいとおしむような表情で音を奏でる姿に、彼女は一生涯、赤毛の青年を忘れることはないのだろうと、ミュラーは悟らずにはいられなかった。



 興奮冷めやらぬ観客たちは、その日の感想を口々に語り合いながら会場を後にしていった。
 ミュラーはその人波に加わることなく、案内されて関係者用の応接室に通された。部屋の中にまだ約束の相手はおらず、彼はそわそわと落ち着かない気分で時を待たねばならなかった。
 軽やかなノックの音とともに現れた ・フォン・ は、既にドレスから普段着姿に着替えていた。
「お待たせして申し訳ありません、ミュラー提督」
 あの墓地で会った時が嘘のように明るい表情だった。
「いえ、今しがた来たばかりです。素晴らしい演奏でした。お招きを心から感謝いたします、 子爵」
 言ってミュラーは用意した花束を差し出す。
 その花を前にして、 は単純に嬉しいとは違った種類の笑みを浮かべたように、彼には見えた。
「きれいな花…ありがとうございます。私がこの花が好きなこと、提督はご存知だったかのようですね」
 抱きしめるよう円い花たちに鼻先を埋めた彼女は、一瞬、泣きそうな顔をして、けれどもすぐ顔を上げてミュラーへ席を勧めた。備え付けのティーセットで紅茶を準備しようとする に、先ほどの繊細な音楽を思い出したミュラーは立ち上がり、その役を代わることを申し出た。
「あまり美味しくないかもしれませんが、小官が淹れましょう。ピアニストの指に何かあっては大変でしょうから」
「…それでは、お言葉に甘えることにしましょう。ありがとうございます、ミュラー提督」
 何かを懐かしむように笑った に、ミュラーは慣れない作業に四苦八苦しながら茶を淹れた。口をつけると自ら言ったとおりに美味しいとは言えない出来栄えに、ミュラーは苦笑いするしかなかった。
「申し訳ない。不器用な性分で…」
「いえ、ミュラー提督のお心だけでこのお茶も十分に美味しく感じられます。…本当に、ありがとうございます」
 穏やかな空気が室内に満ちた。
 だがその平和を打ち破る言葉を、ミュラーは苦しく思いながらも口に乗せねばならなかった。
 殆ど分量の減っていないティーカップを降ろし、ミュラーは居住まいを正す。
「申し遅れましたが、改めて。小官はナイトハルト・ミュラー、ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥閣下の元で、過分ではありますが大将の位を頂いております。本日は、ラインハルト・フォン・ローエングラム閣下から ・フォン・ 子爵への言伝を申しつかって参りました。まずはこれを」
 そう言って取り出したのは、金髪の若き獅子から預かった手紙と小さな箱だった。
「小官はその内容を存じ上げませんが、それらと共に閣下はこのように申しておりました。貴女は故ジークフリード・キルヒアイス元帥の婚約者であったのだから、こちらが何度かお伝えしたとおり、何か必要なことがあれば遠慮なく要望を申すようにと。出来る範囲で尽力する、と」
 二人の間に横たわるテーブルに置かれた小箱と手紙を手に取ることはせず、 は小さく微笑んだ。
「私が彼と結婚の約束を交わしていたことを、ローエングラム閣下もご存知だったのですね」
 言われてミュラーは、ラインハルトが人を使ってその事実を調べたことを伝えるべきかどうか迷った。
「…小官に経緯はわかりかねますが、誰か事情を知る者がいたのかもしれません。もしくは、キルヒアイス元帥が生前に何かお伝えしたことがあったかもしれません」
「彼がヴァルハラへと去って半年以上経ってから連絡を取ってきたというのは、不思議なことですね。知っていたのならば、なぜすぐに会いに来なかったのかと思います。ですが、すぐに来られていたらたぶん私はローエングラム閣下に何を申し上げるか分からない状態でした。いま、こうしてミュラー提督を迎えることができるようになるまで、本当に…」
 その日々に思い馳せるよう、 は目を伏した。
「時間が良い薬だということを、私はこの一年で心から噛みしめました。もう彼の墓に花をぶつけたりせずに済むようになりましたしね」
 再び空色の瞳を開いて軽く冗談めいて言う の言葉を、ミュラーは決して心から笑って受け取ることができなかった。彼女はつまり、まだラインハルトにわだかまりを残していると言っているのだ。
 そのわだかまりを更に重くするような言葉を告げねばならないことが、ミュラーには憂鬱だった。
「ローエングラム閣下は、さらにこのようにも申しておりました。謝罪はしない、と」
 冷やりとしたものが、空気に走るようだった。 が膝の上に重ねた掌をぎゅっと握りしめる様子を、ミュラーは見逃さなかった。
「謝って頂くいわれなどございませんし、そのようなこと求めてもおりませんからお構いなくと、私からの言葉もお伝え頂けますか?」
「…承りました」
 一瞬、憤りを膨張させた だったが、落ち着かせるようにひとつ深呼吸をして、受け取っておいてそのままだったラインハルトからの小箱を手に取り、小さな蝶番を外して蓋を開いた。そして呟く。
「…これは…彼が身につけていた…?」
 ミュラーが素早く視線を向けると、そこには長身の体躯を持った青年には似合いそうにない大きさの銀色の指輪が、同色の鎖とともにおさまっていた。
 箱から指輪を取り上げた は、内側の銘を確認するとそのまま掌に握りしめた。
それがどんなに大切なものなのか、問わずともミュラーにはわかった。墓地で会ったあの日、返して欲しいと言っていた指輪なのだろうと。
「…本当に、今日この日…彼がヴァルハラへ旅立った日に、この指輪が還ってくるとは思ってもみませんでした。彼がラインハルト様をお怨み申し上げるなと、そう言っているようで…」
 小さく言って は空色の瞳から、いくつもの雫を溢れさせた。堪え切れない嗚咽を零す を前にして、ミュラーは慌ててハンカチを差し出した。あの墓地で出会った時とは違い、そうすることが失礼にならない程度には、彼女と親交を温めてきたと信じていた。
「どうぞ」
「…ありがとう、ございます。ミュラー提督。申し訳ありません、このように泣き出すなんて、失礼を…」
「何を失礼なことがありましょう」
 ミュラーは肩を震わす美しい女性を前に、それ以上どうすればよいのかわからず、ただ薄い紅茶の水面に視線を落としていた。

 そうして数分後、こみ上げるものを収めた は、恥ずかしそうに赤くなったかんばせに笑みを浮かべた。
「もうこのように泣いてしまうことなどないと思っていたのですが、まだまだ私も駄目なようです。本当に、強くならねばならないのに…」
「同じような経験も知らぬ小官が申し上げるのもおこがましいことですが、良いではありませんか、気の済むまで涙することで、楽になることもありましょう」
「本当にそうですね。でも、近頃は泣いてばかりはいられないと、そう思うことが多いのですよ」
 気を取り直すように、先ほどの儚げな泣き笑いではない笑みの表情で、 は言う。
「この手紙は後ほどゆっくり拝見いたします。また泣き出してミュラー提督を困らせてはなりませんし、お返事は改めて差し上げます。今はこれだけを、ラインハルト閣下へお伝えください。このようにわたくしなどにお気遣いなさることは、何もないと。ただジークフリード・キルヒアイスの分も長く生き、宇宙を手に入れる様子をヴァルハラの彼へお見せ下さいと。私の望むことは、ただそれだけだと」
「確かに、承りました」
 ミュラーは静かに頷き、 の言葉を胸にしまった。


 話がひと段落ついたタイミングを見計らったよう、乱暴なノックの音が響く。 が声を上げるより早く、扉が忙しなく開かれた。
子爵!」
「まあ、ヘル・キルヒアイス、どうなさったのですか。それに とお呼びになってとあれ程申し上げましたのに」
 慌てるように扉から顔を出した壮年の男性は、非礼を詫びることも忘れるほど急いでいるようだった。 は立ち上がり、ミュラーに目礼で中座を詫び、扉の側へと歩み寄る。
 ミュラーは突然の闖入者と、その人物の名称に驚かずにはいられなかった。彼女の言葉が聞き間違いでなければ、 とやり取りをする男性はおそらくジークフリード・キルヒアイスの縁者なのだ。年頃から父親であろうと、ミュラーは推測した。
「いま妻も来るだろうが…私たちではどうにもこうにも…。貴女のところの使用人も匙を投げたよ」
 大きな騒がしい音が近づいてくる。
 ミュラーは今度は、座ったソファから転げ落ちそうになった。
 後日その時のことを思い出し、ミュラーは述懐した。
 あの一週間は本当に意外なことばかりで驚くことも多かったけれど、あれ以上の驚きはなかった、と。
 何とか転げ落ちずに済んだ代わりに、思わず立ち上がった際にまだたっぷり残っていたティーカップを倒し、その中身がラインハルトからの手紙に飛び散ったことで、騒動はさらに拡大の一途を辿った。
子爵! 早くいらして下さい! 私では対処しかねます!」
 扉から壮年の男性とは別の男が顔を出す。こちらはまだ若く鍛えた体つきの偉丈夫だったが、彼もまた困り果てたように情けない表情を浮かべていた。
「え、ええ、でも…」
「も、申し訳ありません!」
 いくつもの騒ぎの元に顔を右に左に向ける
 謝りながら拭くものを探すミュラー。
 右往左往する大人たちをさらに煽るような騒動の発端が姿を現したことで、室内は手に負えないほどの混乱に陥っていた。


 その日の帰り道、 からのラインハルトへの言伝を覚えていてよかったと、人心地つき、そして抱えてしまったものの大きさに、ミュラーは艦隊を指揮して一戦を交えた後のような精神的疲労を覚えた。
 この時ばかりは、なぜ誰よりも早くヴァルハラへ逝かれたのかと、ミュラーは亡き赤毛の青年を恨めしく思わずにはいられなかった。