10.missing forest


 傷が癒えて退院するまでの間、ミュラーは二度ほど ・フォン・ に指輪の件についての手紙を送った。直接ヴィジホンで連絡を取るほど親しくもないミュラーがとれる連絡手段は、ただ押しつけがましくならず相手の時間も取らない手紙という旧式の伝達方法しかなかった。
 だがミュラーは、彼女から芳しい旨の返事を受け取ることはできなかった。
 ただ、お気遣いなく、怪我の具合はどうか、という柔らかな拒絶と思いやりの言葉が記された便箋を見ながら、砂色の瞳を持つ青年は溜息をつき、三度目の手紙を書き始めた。
 その内容はそれまでのものとは違い、ジークフリード・キルヒアイスやラインハルト・フォン・ローエングラム、そして指輪のことにも一切触れず、ただ彼女の奏でる音楽のことと、彼自身の日々の些細な出来事を記した。病院は退屈過ぎて暇つぶしの種に困ること、 の演奏会のデータをエルネスト・メックリンガーからもらったこと、その演奏をとても良いと思ったこと。
 すると数日のうちに、新たな便りがミュラーの下に届いた。そこには感謝の言葉と、彼女の演奏を収めた音楽データが同封されていた。それに対しミュラーは、再び丁寧な礼と感想を添えた手紙を送った。そのようにミュラーが便りを出せば、間が空くこともあったが概ね一週間か二週間に一度の割合で、美しいピアニストからの手紙や絵葉書はやってきた。
 そうして何度かやり取りを重ねる内、ミュラーは ・フォン・ との他愛ない文字だけの会話を心待ちにするようになっていた。そして退院間際の からの手紙にも、親しくなったことを裏付けるよう、時間があれば是非来てくれと、次の演奏会のチケットが同封されていた。その演奏会は一年近くも人前で音楽を奏でることのなかった彼女が、久しぶりに腕前を披露する場であり、限られた人しか集めていないことも書かれていた。
 ミュラーは嬉しさに心が弾むようだった。近々退院することも決まり、良いことが続くと思いつつチケットに印字された日付をみつけ、浮かれた頭に冷や水を浴びせかけられた気分を抱いた。
 奇しくもその日付は、赤毛の青年の命日だった。


 演奏会が数日後に迫った日、ミュラーは晴れて病院を後にし、ローエングラム元帥府へと赴いていた。原隊復帰の挨拶を彼の上官たる金髪の若者に奏上するためである。元帥の副官であるテオドール・リュッケ大尉に案内された執務室で、ミュラーは上官たる青年に敬礼を捧げた。
「ナイトハルト・ミュラー大将、本日より軍務に復帰いたしました。叛乱軍に対して宣戦布告もなされたとのこと、微力ながら小官もお役に立てればと全力を尽くす所存です。ご用命あれば何事でもお申し付け下さいますよう、お願い申し上げます」
「ああ、ミュラー大将、卿の活躍を期待している。近日中に発表を行う予定の作戦では、卿にも大いに働いてもらうつもりでいる。よろしく頼む。もう肩の具合はよいのか?」
 ラインハルトの労わる言葉に、ミュラーは少々口元に笑みを浮かべて返す。
「ありがとうございます。医師にはこのまま二度と病院へ戻らずとも良いと言われております。今までベッドで休息を得た分、諸提督に遅れを取らぬよう任務に励みたいと思います」
 それらのやり取りはやや穏やかな雰囲気ではあったが形式的な挨拶の枠を出ないもので、その後に続く応答は退室を告げるものであるはずだった。だがミュラーが下がる旨の挨拶をしようとしたところ、それまでラインハルトの傍に控えていた主席副官のシュトライトが唐突に声を上げ、彼は喉元まで出かかった言葉を飲み下さねばならなかった。
「ミュラー大将、お待ち下さい。実は少々お願いしたき事がございます」
「長くなる。立ちながらも何だろう、掛けてから話そう」
 予想もしなかった申出にミュラーは盛大な疑問符を浮かべながら、ラインハルトに勧められるままソファへと落ち着かない腰を据えた。向かいの席に金髪の青年が腰掛け、シュトライトは幾つかの書類をミュラーの前に差し出した。
「こちらをご覧ください」
 既に見慣れたものとなりつつある名前を見つけ、ミュラーは砂色の瞳を見開く。
「… ・フォン・ 子爵…」
 それはシュトライトが纏めた に関する報告書で、 が演奏会で挨拶する姿を収めた写真とともに簡単な経歴が書かれており、次の頁を捲れば、その彼女が亡きジークフリード・キルヒアイスの恋人であったことを示す説明項目の数々が記されていた。
 ミュラーは驚きを隠すことができなかった。彼がラインハルトへ言上しようとしていたことが、正に彼によってミュラーの前に示されたのだ。
 報告書を見て押し黙ったミュラーに、金髪の若き元帥が普段と変わらぬ声音で問うた。
「卿は彼女を知っているか?」
 ラインハルトやシュトライトも、まさか自身が書類の女性と個人的な手紙の往来があることを知っているのではないかと、ミュラーはなぜか内心、悪戯を見つかった子供のように焦燥にかられた。だがごくプライベートな交友関係を追及される所以など思い当らなかったので、慎重に言葉を選んで告げる。
「…ええ、彼女は著名なピアニストですので。彼女の演奏は私も好んで聴いています」
「意外だな、卿にそのような芸術的趣味があったとは」
 取ってつけたようなラインハルトの言葉を半ば上の空で聞くミュラーの中では、様々な推測が目まぐるしく脳内を飛び交っていた。報告書があるということは、 が調査対象となっていたということだ。その理由は添えられた説明から簡単に推測できる。亡き赤毛の青年の恋人が誰かということを、ラインハルトはわざわざ調べたのだ。だがその理由は残念ながら報告書には記載されておらず、ミュラーはその答えを眼前の上官に問うべきか否か迷った。
「報告書をご覧頂いたとおり、彼女は亡きジークフリード・キルヒアイス元帥の恋人でした。しかも結婚の約束も交わす仲だったようです」
 シュトライトの淡々とした説明を聞きながら、ミュラーは困惑していた。
「ローエングラム元帥閣下は彼女にここ数か月、何度も面会を申し込んだのですが果されることはありませんでした。名代を送ることも、本来なら婚約者に対しても支払われるはずの遺族年金も拒否されました」
威風堂々とした華麗な青年の表情は、ひとつも変わることなかった。逆にそれが、何かの感情を抑えているようにもミュラーには見えた。
 確かめるよう、彼は問い掛ける。
「…それで、小官は何をすればよろしいのでしょうか」
「先週にも面会を再度申し込んだところ、数日前に返信が届き、そこに元帥閣下の名代としてミュラー提督ならば会っても良いという旨がありました」
 これには飛び上るほど驚いたミュラーである。
「小官を、ですか?」
「できれば直接会いたかったが、あちらが会いたくないというのでは無理強いもできない。卿は彼女と親交が深かったのか?」
 こちらをみつめる金色の瞳に、先日まで手紙と演奏会のチケットの誘いに浮かれていた自分を思い出し、ミュラーは居心地悪さを覚えた。
「いえ、それほど親しいという程でもなく、会ったことも一度しかございませんし…何度か手紙のやり取りをしたくらいで…」
「そうか。とはいえ、先方は卿を指名している。軍務には関係ない私個人の事情ではあるが、行ってはくれまいか」
 忠誠を誓った相手の願いに否と言えるはずもなく、ミュラーは頷いて応じることを告げた。
「はい、小官にどうぞお任せ下さい。必ずや閣下のお言葉を子爵へ仔細もらさず伝えて参ります」
 ラインハルトはシュトライトに指示し、小さな箱と一枚の封筒をミュラーへ渡させた。
「これを彼女へ。彼女が持つに相応しいものだ」
「承りました」
「私が彼女に提案したことは全ていらぬと告げてきた。何か求めることがあれば常識の範囲内で出来る限り尽力しよう」
 そこで言葉を途切れさせたラインハルトは、一瞬、考えるように俯き、そして面を上げると再び顎をそらしミュラーをみやった。そこにあったのは、間違いなく銀河帝国をその手に収めんとする権力者の表情だった。
「謝罪はしない、そう伝えよ。詳細はシュトライトに聞け」
「かしこまりました」
 話は終わりとばかりに立ちあがり部屋を出るラインハルトを、ミュラーは敬礼で見送った。
 そうして残されたシュトライトとともに打ち合わせを行えば、 ・フォン・ は面会の日時として演奏会の後を指定してきているということだった。
 ミュラーは複雑な気分を味わった。
 彼女が決して好意だけで彼を演奏会に招いた訳ではなかったことに、気落ちする自分を彼は自覚した。
 どのような顔をして に対面すればよいのだろうかと、ミュラーは答えの出そうにない難問を抱えることになった。