08.madonna blue




 門閥貴族が栄華を謳歌した世は終わりを告げ、怠惰に停滞した銀河帝国に新風を吹き込み退廃を一掃すると目されたラインハルト・フォン・ローエングラムの登場は、歓喜をもって迎えられた。政治に疎い民衆だって、誰もが新たな統治者として若き金髪の獅子を歓迎した。彼の容貌は美しく、見る者を魅了するだけの覇気も兼ね備えていたし、幾つもの戦闘でみせた実力も広く知られていたからだ。
 その彼を先の戦役で暗殺者から守ったとして、ジークフリード・キルヒアイスは帝国元帥称号を与えられ、その死に対して盛大な葬儀が執り行われた。先年崩御した皇帝の葬儀に劣らぬほどの規模であったと、伝え聞いている。
  は赤毛の英雄を悼む市民の列に加わることはなかった。彼女の中の葬送は、訃報を受けた日から一日たりとも途切れず続いている。
 信じたくもなかった婚約者の死から後、 は満足に食事をとることもできなくなっていた。食欲など欠片も湧かず、起きている間は心の平穏な時などなく、唐突に泣き出したくなる悲哀や訳の分からぬ憤りから逃れようとしているのか、身体は眠りを欲していた。眠りは彼女にとっての安息だった。眠るか、泣いているか、彼女の一週間はそのように過ぎた。
 安寧の眠りから目覚める度、傍にいない彼を思い出した。
 紅茶を飲んでは彼の淹れてくれた味を思い起こし、空になった花瓶が影を落とす。
 悲しみに暮れる間に、絶やさぬよう飾っていた約束の日と同じ花は朽ちてしまった。
 共に過ごした光景を、彼の仕草や表情を、何度も何度も繰り返し思い浮かべては涙した。家中に散らばる思い出から逃げるように玄関を出れば、街角のあちこちに幸福な日々の欠片を見つけた。一緒にお茶をしたカフェには行けるはずもなく、軍服を目にすることさえ苦しい毎日。
 何かをする度に彼を想ってただ悲しみに泣き伏し、泣くことだけでは満たされず、次にはピアノに触れて一日を過ごすようになった。息をするように簡単に奏でていた音楽が、苦痛に変わった。彼に聴かせた全ての音楽は、失ったものを突きつけるようで、楽しい気分にさせる旋律さえ、今の には悲しみに塗り込められた陰鬱な音楽としか生み出すことができなかった。
 ピアノに向かって奏でる曲は、弔いの音楽だけだった。受難曲、鎮魂歌、子守唄、その旋律が誰を慰めるというのか、それは 自身が最もよくわかっていた。
 何をしても戻らぬ相手に向かって捧げる歌を奏で続け、そうして過ごした一週間の最後に、彼の好きだった愛にまつわる歌を奏でた。
 身に宿した消えぬ面影を、胸に抱いてはぐくみ生きてゆこう。
 それが彼女からの彼への別れの挨拶であり、そして果せなかった約束への一人きりの誓いだった。



 扉を打ち鳴らす控え目な音に、 は思索から引きあげられた。
「そろそろお時間です」
「いま参ります」
  は応えを返し、立ち上がった。
 姿見に映る自分は、いとしい人の色を纏っている。その晴着の意味を、彼女だけが知っている。
 時が流れ、彼女の中で抉れて血を流した傷痕は次第にその痛みを確かに減らしていた。
 泣き伏し過ごす葬送の儀式は終わった。終わらせなければならなかった。
 秋から冬にかけては数多くの演奏会が開かれ、 ・フォン・ もまた奏者の列に名を連ねていたのだ。
 彼女はただ、彼女自身の誇りをかけて立ち上がった。
 貴女の奏でる音楽が好きだと、彼は言ったのだから。
 
 残酷な生者の世界の時は、止まることなく巡り続ける。

 拍手に迎えられ、彼女は舞台の上に姿を晒す。

 けれどこの先、いつまでも、赤毛の面影を忘れることはない。

 やつれた姿に観客が息を呑むのがわかる。
 あのような状態で本当に大丈夫なのかと言わんばかりのざわめきを打ち砕くよう、 は鍵盤に手を下ろす。

(ヴァルハラで聴いていて)

 そうして彼女は、尽きぬ心を音楽に乗せて奏で続ける。