07.rainy grey



 高級士官しか入室を許されない広間で悲劇が起こった時、メルケ大尉は控え間で彼同様に高級士官の護衛を担当する者と談笑していた。
 自陣の奥深くであのような事が起こることを、誰一人として予想できなかった。
 騒ぎを聞きつけて飛び込んだ先で赤髪の青年が血を流して倒れている様子を目の当たりにし、彼はチェック管理体制の甘さを詰り、なぜ自ら暗殺を目論んだアンスバッハの検分や身体検査を成さなかったのかと、己を責めずにはいられなかった。
 メルケには慢心があったのだ。
 彼の上官はいつでも銃を携行していて、白兵戦能力や射撃の腕は護衛するメルケを上回るほどだった。
 その彼がまさかたった一人の人間に殺されることになろうとは、メルケには信じられなかった。
 だが広間で一部始終を目撃した者から事件の顛末を聞き、彼は深く納得をしてしまった。
 ヴァルハラへと旅立った青年は、彼の唯一無二の主君であり友であったラインハルトを庇い、そして暗殺者を丸腰で取り押さえようとして死んだのだと。
 これまで彼だけには許されていた銃の所持を、この日はラインハルトが許さなかったのだと。
 それでも真っ先に暗殺者へと飛び掛り、致命傷を2箇所も負いながら掴んだ手を離さなかったのだと。

 護衛という任務の性質上、赤毛の青年提督の幕僚や副官連中の中でも、日常的に行動を共にする時間が最も長かったのがメルケだった。只の軍務の一環と思えぬほどにはメルケはキルヒアイスを敬愛していたし、彼自身の生活の大きな部分を占めていた。
 ゆえに、彼は上官が近頃思い悩むことがあることを知っていたし、その内容がヴェスターラントの虐殺に関るラインハルトの一連の行動に対する疑念であることも、推察できていた。何しろ彼はヴェスターラント出身の兵士の訴えを、唯一キルヒアイスと共に聞いた人間であったのだ。赤毛の青年が死ぬ直前ラインハルトとの間にどのような遣り取りがあったかは、メルケも直接見聞きすることはなかった。だが、敬愛する上官がガイエスブルクの広間に銃を持って入れなかった事実を前にして、その遣り取りが意味するところが判らぬほど馬鹿ではないつもりだ。
 不幸な出来事だったと、護衛官であるメルケを責める者は誰もいなかった。だが彼は優しく尊敬に値する被護衛者を失うことで、そしてその喪失にこれからも仰ぐべきラインハルトが関っていたことを知りえた立場であったために、何か大きなものを見失ってしまった。


 ローエングラム伯の腹心であり、親友でもあった赤毛の青年の死で混乱に陥りかけた陣営は、しかしその混乱の元を謀略の一助とすることで事態を収拾していった。ローエングラム伯と対立し銀河帝国の官僚制度を牛耳っていたリヒテンラーデ候を追い落とす、格好の言い訳として利用されたのだ。その策謀のため、彼の死はしばらく緘口令が布かれて機密扱いとされた。
 だがメルケはキルヒアイスの死を知ったその瞬間、ある一人の人間を思い浮かべていた。
 亜麻色の髪の、赤毛の青年と対になるはずだった女性。
 近いうちに公に披露されるはずだった幸福な約束が、今はメルケの心に深く突き刺していた。護衛官として主を失った自分が、おめおめと彼女の前に顔を晒すことを考えると、怖気づいてしまいそうになった。けれども詰られ、憎まれようとも、彼らの関係を知る人間は自分以外にいないのなら、メルケは亜麻色の髪の女性に事実を今すぐ伝えなければならないという義務感に駆られていた。本当は、この悲しみを分け合う相手を探していたのかもしれなかったし、大声で責められたいと思っていたのかもしれない。とにかく、何かせずにはいられない気分ではあった。

 メルケは心を決めると、主のいなくなった個室へと急いで向かい、備え付けのヴィジホンをキルヒアイスの恋人の元へと繋いだ。基本的に軍艦内の通信は通信先や通信内容ともに記録されるものだが、高級士官のプライベート通信は検閲を免除されていた。
 呼び出しコールの間、じりじりとした焦燥と、伝えなければならないという重圧に掌に汗が滲んでいた。
「ジーク!ちょうど私もあなたのことを考えてたとこ……メルケ中尉!」
 亜麻色の髪の女性は、とびっきりの笑顔を浮かべて画面に現れた。恐らくは、恋人だけに向けられる特別製の表情だったが、愛しの恋人ではなく仏頂面のメルケを見て、 は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、彼の個人回線と思って…」
 モニタ脇のデータ表示を確認して不思議そうにしているキルヒアイスの婚約者であった を直視するのが、今のメルケには辛かった。
「申し訳ございません。確かにこの回線はキルヒアイス上級大将の私室のものです。緘口令が下された内容をお伝えしたく思いまして、失礼とは存じましたが検閲されないこの回線から通信を差し上げました」
 一端、言葉を切る。メルケの切迫した様子に、 の表情が不安に曇る。
「フロイライン・ …小官はこのような時に選ぶべき言葉を持ちませんので、ただ言葉を飾ることなく申し上げます」
 聡い は、その時点で続く言葉の内容を理解し始めているようだった。胸の前で組んでいた両手が持ち上がり、口元を押さえた。その左手の薬指の輝きに、押さえ込んでいたものが腹からこみ上げるのをメルケは感じる。
「ジークフリード・キルヒアイス上級大将は、数時間前……ヴァルハラに召されました」
「……」
「帰順を誓ったとみせかけた暗殺者からローエングラム候を庇われて、丸腰で取り押さえようとして…胸と首を撃たれました。小官はその場におらず、お守りすることも叶わず…こうしてフロイラインにご報告差し上げることだけしか、今はできることもなく……」
 失われた赤毛の青年に紹介された時には優しい微笑みが浮かべられていた瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がり、肩はわなわなと震えていた。
「嘘よ…嘘…嘘…嘘っ!ジーク!ジーク!ああああ!」
 嘘、と叫びつつも、メルケがその類の冗談を言うことがないことを知っていた は、ただ現実を認めたくなくて愛しい名を呼んで泣き崩れた。ふらりと傾いだ体を片手をついてようやく支えている は、呆然と目を見開いたまま、止め処なく沸いてくる涙もそのままに呟く。
「ああ…いや…いや…なんで…。約束したの…どうして…どうして…」
 メルケは悲痛な声に耳を塞ぎたくなる気持ちで、頭を深く垂れる。
「申し訳ございません!小官がお傍を離れず、警戒を怠るべきではなかった! 検査を十二分に実施すべきだった!最初の物音ですぐさま駆けつけていればっ…!」
 胸に去来するのは後悔ばかりだった。自分がそうしていれば、今も赤毛の優しい上官は生きていたかもしれない。そう思うと、悔しく、自分が情けなかった。そして失われてしまった事実は胸に大穴を開けたように悲しく、メルケは十数年ぶりに堪えきれず涙を流した。
 それからどのようにして通信を終えたのか、メルケはよく覚えていない。 もメルケも悲しみという混乱の中でもがいていた。
 

 赤毛の青年を送り届けて幸福を運ぶ役だったメルケは、失われた命の知らせを運び、二人の幸せの終わりを告げる使者となった。
 その後、彼は幾度もの周囲の慰留を振り切って軍を出た。