06.crimson word
心を満たされる想いとともにキルヒアイスは恋人の家を離れ、オーディンを旅立った。
昨日のうちに手元に届いた指輪は首にかけていつも持ち歩いている。眠る前に胸元から取り出して眺めると、あの日の幸せが何度も込み上げてきた。指輪の内側にある輝石の色はいとしい人と同じ空色で、彼女の微笑みが瞼の裏に浮かぶようだった。
だがそのように指輪を眺める余裕は、次第になくなっていった。
貴族連合に対する軍事作戦行動はおおむね上手くいき、自軍に危機が切迫している状態とはいえなかった。現にキルヒアイスはラインハルトの命令どおりに敵の分艦隊撃破を成功させ、自陣営の士気は上がっている。
彼の心の余裕を失わせたのは、ヴェスターラント出身兵士の言葉だった。
ブラウンシュヴァイク侯爵が彼の地に核を撃ち落とそうとしているという情報を携え、その兵士は貴族連合を離反して故郷の危機をキルヒアイスに報せた。同じような情報がラインハルトの下に届いていないはずがないのに、彼の唯一無二の主君である人は、いまだキルヒアイスに何の連絡も寄越していなかった。
状況を検討すれば、一つの予想に思い至った。
ラインハルトは、ヴェスターラントの民を見殺しにしようとしているのではないかと。
小さな力無き人々を苦しめることを、キルヒアイスはよしとしなかった。
遠いあの日、アンネローゼが皇帝の側室として売られた時のどうしようもない無力感を繰り返さぬよう、彼と友人は権力の階段を昇ることに決めたのだから。あのときの皇帝という権力者と同じことをラインハルトがしようとしていることに、キルヒアイスは大きな衝撃を受けた。
会えばわかる。そう思って考えないようにしていた。
そして会って、彼と唯一無二の主君であり友人だった彼の間には、修復不可能な亀裂が入った。
「お前にいつ意見を求めた! お前は俺のなんだ! 言ってみろ、キルヒアイス!」
投げつけられた言葉に、彼は優しい過去を取り戻せないことを知った。
キルヒアイスとラインハルトは、ただの上官と部下という関係になった。
『ジーク、ラインハルトと仲良くしてね』
アンネローゼと交わした些細な約束を思い出す。
彼自身はたとえ昔のように気安い関係には戻れなくとも、ラインハルトが自分にとって大切な者に変わりはないと思っていた。立場を思えば仕方がないことなのだ。
自分と彼は、同列ではいられない。それはここ数年、痛烈に感じることでもあった。
ラインハルトの求めるように振舞おうと、キルヒアイスは無言で敬礼してその場を離れた。
気付けば身体が飛び出していた。
止めなければ、守らなければと。
胸元を射抜いた光条にも、彼は怯まなかった。
息が苦しくなって、喉もとから鉄錆の匂いがこみ上げるのを飲み下し、目の前の男を取り押さえようともがく。
だが、敵も決死の覚悟で向かってきていて、その力は彼にも抑え切れなかった。
そうして再び、一条のエネルギーが彼の身体を捉えた。
首筋を貫く灼熱感。
けして放すまいと掴んだ手首を握りしめる。
だが右手以外の身体からは、急速に力が抜けていき、彼は自らを支え切れなくなって地に伏した。
声が聞こえた。騒がしい足音。
(ああ…)
視界が急速に狭まって行く。
感覚が遠くなる。背筋が凍るほどに寒い。
気付けばラインハルトの泣きそうな顔が目の前にあった。
彼は悟る。
自分は死ぬのだ。
「ラインハルト様…宇宙を手にお入れ下さい…。それと、アンネローゼ様にお伝え下さい。ジークは昔の誓いを守ったと……」
一息に言葉を紡いだ。喉から声を出すだけで、ひどく疲れた。
恐怖はなかった。ただ寂しいと思った。
(
…君に会えなくなるのが…)
幸せとは、いつもかくも儚い。
手に入れたと思えば、この手をすり抜けていく。
「…
」
彼の意識は、そこで途絶えた。