05.rose contract


 その日、彼はいつもの場所から数ブロック手前で地上車を降りた。
 護衛官のメルケは不思議そうな顔をしていたが、問いを向けられることはなく、迎えの時刻を確認してそのまま車は遠ざかって行った。
 そうして向かったのは、そこだけ春を迎えたような色とりどりの花を並べる店先だ。
 あまりに花の前を行ったり来たりするものだから、店員がさりげなく声をかけてきて、花選びに四苦八苦する無粋な男を助けてくれた。用途と好みを告げて薦められた花が、十重二重と花びらの集まったラナンキュラスだった。花言葉もよく、白と赤とを小さく纏めてもらった。
「お幸せに」
 笑顔とともに送り出される。美しい花束を持てば、気分も揚揚としてくるようだった。
 決心のきっかけは、小さなことだった。
 己の帰る家の扉を開けて、彼女の笑顔に迎えられたらどんなに心安らぐだろうと、そう思ったのだった。
 それはとても幸せなことだろうと。
 まだ自分が幼い頃、そして数年前まで、心の扉を開けた先にいるのはいつだって幼馴染の姉だった。
 自分の名を呼ぶ優しく懐かしい声を記憶の箱から取り出し、穏やかな心の聖域に足を踏み入れれば、心地よい安息に包まれてこの上ない幸せを感じられた。それは失われてしまった過去の光景そのものだった。自らが愛を捧げるのはアンネローゼ以外にいないと、彼は思っていた。
 だがそれは、まだ青い子供が抱く憧憬に他ならなかったのだと、今の彼は思っている。


 瀟洒な住宅が立ち並ぶ街並みを抜け、一軒の屋敷の前でキルヒアイスは自分の服装を検分した。
 ズボンのポケットにある贈り物を確認して花束を胸元に掲げると、呼び鈴を鳴らす。
 心臓のダンスを抑えるために、ひとつ深呼吸をした。
 彼女に会えるのが、今はこんなにも嬉しい。
 幼馴染とその姉のことを心底から大切に思う気持ちに偽りはなかったが、会いたいと最も強く思うのは、彼女のほかにいなかった。
 駆けるような足音が近づいてきて、扉が開かれる。
「ジーク…いらっしゃい」
 手ずから扉を開けるような身分ではないのに、彼女は彼が訪れるときはいつも、そうしてとても可愛らしい微笑みとともに、自ら扉を開けて出迎えてくれるのだった。
「こんにちは、
「今日はお車じゃなかったのね。音がしなかったから気付かなかったわ」
 家の中へとキルヒアイスを迎え入れながら、 は首を傾げて彼を見上げた。普段は地上車の音がして、それで彼が着いたことを知って扉の前で待っているのだが、今日は音がせず、部屋から慌てて出てきたのだ。
「…これを、貴女にあげたくて」
 言ってキルヒアイスが差し出すのは、先ほど包んでもらった円く愛らしい花たちだ。 は目を輝かせて白と赤の花束を受け取り、抱きしめて香りを吸い込んだ。
「きれい…嬉しい、ありがとう、ジーク」
 顔をあげて本当に喜びに充ち溢れた風に笑うので、彼も嬉しくなって、彼女の頬に唇をひとつ落とした。
「先に部屋へ行って待っていて。活けてもらうから。紅茶でいいかしら?」
「ああ、ありがとう。先に行っているよ」
 キルヒアイスの眼差しを背に、 は軽やかに亜麻色の髪をひるがえしてキッチンへと向かっていった。
 子爵という称号を持つ には、もちろん数人の使用人が仕えている。自ら扉を開けたり紅茶を淹れたりしなくとも使用人に言いつければよいことだったが、彼女は自分がキルヒアイスにしてあげたいのだといって、紅茶も自ら運んできた。
 キルヒアイスは彼女の部屋で待ちながら、ノック音がすれば素早く扉をあけ彼女と役割を交代する。
「お客さまなんだから、座っていて」
「僕がしてあげたいんだ。貴女と同じようにね」
 ピアノを弾く の手に万一のことがないようにと、紅茶をカップへ注ぐ役目も彼が請け負っていた。これではどちらが客かわからないと笑われたのは、いつのことだっただろうか。
 赤と白の花を飾り、紅茶のふくよかな香りを楽しみながら、いつものように気負いなく談笑するための努力をキルヒアイスはしなければならなかった。
 普段と違って、彼の心は落ち着きなく波打っていたからだった。
 ポケットに隠し持った箱が気になって仕方がない。考えると、本当に今日この場で言っていいものか、良い雰囲気の洒落たレストランで言うものではないのかと、色々な不安が頭を駆け巡っていた。
 しかし多忙な日々の中で、次に会う時間がとれるのは数か月先になるかもしれないと思うと、キルヒアイスは愛らしい恋人へと伝えたい気持ちを抑えきれそうになかった。
 上の空で聞いていた話題がひと区切りついたところで、キルヒアイスは覚悟して切り出した。
「…今日は、大事な用件があるんだ」 
 空色の瞳を丸く見開いて、 は無言で何なのかと問いかけているようだった。
 美しい音色を生む手をそっと取り、ソファから立ち上がるように促す。
「どうしたの? ジーク」
 どうすれば自分の胸の内が伝わるだろうかと、彼は言葉を幾つも思い浮かべては、ああでもないこうでもないと思い悩んだ。昨夜のうちに考えた言葉は、こうして恋人を目の前にするとどれも相応しくないように思えるから不思議だ。
 けれどもどうにか、キルヒアイスはやや背を屈めて の瞳を覗き込みながら、言葉を紡ぎだすことができた。
「…君と出会えて本当に良かったと、僕は心から思っているよ。愛しいという想いを、知ることができた。だからこそ、僕は君のいる場所を、僕の帰る場所にしたいと望んでいるんだ」
 そうして膝を折り、左手を口元に引き寄せて唇を落とした。二人の間では普段使わない改まった口調で、赤毛の青年はいとしい恋人へと言葉を捧げる。
「ジークフリード・キルヒアイスは、 ・フォン・ 子爵夫人に求婚いたします」
「…!」
「私は身分も低く貴女と釣り合わない部分もありましょう。けれどもこの胸の気持ちに偽りはありません。お受け頂けますか?」
  は驚きのあまりに言葉がつかえて出てこなかった。
 今日はどことなく落ち着かない様子のキルヒアイスに、少し不安を覚えていたのだ。一緒にいるのが楽しくないのか、何か思うところがあるのかと。そうして大事な用件があると言われて、別れを切り出されるのではないかと気をもんでいたのが、その反対で結婚を申し込まれたのだ。 は赤毛の恋人を愛しく思わない日はなかったので、嬉しくない訳がなかった。
 握られたままの左手に力を込め、握り返す。
「もちろん…もちろん、お受けいたします。ジークフリード・キルヒアイス!」
 キルヒアイスはポケットから取り出した赤いベルベッドの箱を開ける。
「それでは、これを証に…」
 永遠を約束する輝石の指輪を、白くたおやかな貴婦人の手の薬指に嵌める。あらかじめ調べておいたので、丁度よい大きさで指輪はぴったりと収まった。
 立ち上がり、婚約者となった恋人をキルヒアイスは強く抱き締めた。
「これからも一緒に……」
「ええ…ずっと…」
 言葉の続きを言い終わらないうちに、どちらからともなく惹かれあって口づけを交わした。



 逢瀬は深まっていく。
 陽も高い時刻だというのに、二人は更に気持ちを伝えあおうというように、互いの隅々まで触れ合った。
 こんなにも幸せなことがあるのだと、キルヒアイスは思った。
 いとしい相手に触れ、同じように彼女は自分に触れる。
 別個の人間であるのに、ひとつに溶けあえるような気持ち。互いの心が通じ合っているという確信。
 故に、離れるのがこんなにも辛い。
 窓の外から差し込む光が減って、部屋の中はずいぶんと薄暗くなっていた。温かな体を手放したくなくて、キルヒアイスはゆっくりと亜麻色の髪を梳く。艶めいているのにふわりと優しい色合いが、彼は好きだった。滑らかな肌に直接触れていると、このまま二人でシーツに埋まっていたい気持ちが尽きることなく湧き上がる。
 だがもうしばらくすれば迎えのメルケ大尉がやってきて、いつものように門の前で直立不動で待っているだろう。理性は、早く準備をしろと彼を急き立てた。
 ひとつ溜息をついて、彼はぐずる心を引きはがして幸福から身を起こした。素肌に触れる空気の冷たさに、途端に元の場所に戻ってしまいたくなるが、我慢して床に落ちた衣類を拾い上げて身に付けた。
 柔らかなまどろみに身を任せていた は、軋むベッドの音と温もりの離れた気配に目覚め、身繕いを始めた赤毛の恋人をみやった。
「そろそろ…時間ね」
「ああ、残念ながらね」
 見送りに出るために、 もベッドから降りて服や髪を整える。
 衣ずれの音だけが、別離の寂しさが満ちる沈黙に響いた。
 そうして軍服をまとってすっかり軍人姿となったキルヒアイスに、 は右手にしていた指輪を外して差し出した。
「ジーク…これをあなたに…亡くなった母がくれたものなの。今までいつも身につけていたわ。これを貰った指輪のお返しに、あなたにあげる」
「そんな大事なものを…」
「いいの。あなたに持っていてほしい。私からの婚約指輪よ」
 そうして手渡そうとして、 はふと気付く。女物の指輪を、長身に見合った大きさの手をもつキルヒアイスがどうしてはめられようか。
「鎖もつけて贈らせて。出発は3日後でしょう? 明後日までには貴方のところへ届くようにするから、これも連れて行ってあげて…傍にいられない私の代わりに」 
 恋人のいじらしい願いに、彼は指輪を拒むことはしなかった。
「次の出征から戻ったら、ラインハルト様や家族に紹介して、そうして式の日取りや住む場所も決めましょう」
気が早いと思われたかもしれないが、彼はそうして約束を沢山重ねることで、いとしい婚約者をもっと身近に感じられるような気になった。

 遠いあの日にアンネローゼを奪われ、少し前まで彼女と親友ばかりを追いかけていたように思う。
 けれどキルヒアイスは、今此処に確かな幸福を手に入れていた。
 それは昔誓ったかたちと随分違っていたが、彼自身は心の変遷を穏やかに迎え入れている。
 けして3人の日々から心が離れてしまったのではない。ただあの安寧の光景とは別に、新たな幸福の光景をキルヒアイスは見出したのだ。傍らにいる彼女とともに。
 ラインハルトへどのようにこのことを伝えようかと、この時のキルヒアイスの胸は膨らんでいくばかりだった。




 

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