04.mauve memory

 夏の香りが涼しい夜風に浚われていく夕暮れ時、メルケ大尉はとある高級住宅街の一角に止めた地上車の前で上官を迎える為に佇んでいた。
 まだまだ木々の緑は濃く枯れる気配は遠く、生地の厚い軍服姿で屋外に立っているのは些か辛い。だが陽が落ちて頭上が闇に染まり始める頃合には、生命を謳歌する木々の香りを運ぶ涼やかな風もあいまって、暑さも忘れてゆっくりと散歩したい気分になった。
 とはいえ彼は軍務中だったので、その誘惑を断ち切ってその場に立ち続けねばならなかった。
 上官はそのように待つ彼を見て、いつも車中での待機を勧めてくれるのだが、護衛官であるメルケはいかなる時も危機に対処できるようにせねばならないという信条の下、穏やかな青年提督の優しさを丁寧に辞退していた。
 予定の迎え時刻10分前に現場へ到着したメルケは、今日も地上車のドア前で、しかし普段とは違いもう30分近く、傾いたオレンジ色の陽射しに伸びる己の影を眺めていた。上官はこれまで迎え時刻には玄関先でメルケを待つこともあって恐縮させられたのに、どうしたことだろうか。
 だが彼は、微動だにせぬ扉が今にも開かれ待ち人が現れるだろうと、呼びに行くのを何度も躊躇った。
 任務には忠実でやや融通が聞かないと同僚に言われるメルケだが、この場所へ上官を迎えに来る時ばかりは時間厳守の紀律も頭を引っ込めてしまう。なぜなら、彼の護衛対象である赤毛の大将閣下が訪ねている先は、彼の恋人の家だったからだ。逢瀬に割りこむ無粋を、メルケは嫌ったのだった。
(しかし…次の予定が…)
 無論、彼の上官は勤務時間中にデートができるほど暇ではないので、今は予定と予定の合間にできた空白の自由時間だった。
 赤毛の青年が多忙な毎日の中、どうにか恋人との時間を捻出しているのをメルケは知っていた。しかもあと数日後には貴族連合と戦を交えるために旅立とうという日で、この機を逃せば上官の予定は一杯に詰まっていて外出の暇など取れはしないことも、行動を共にする彼は知っている。
 勝つにしてもオーディンへ戻れるのは早くとも1か月後であろうし、負けた場合には無事に再会を果たせぬかもしれない。メルケ自身の公算では、自陣営が貴族連合に後れをとることはないだろうという予想だったが、どこにヴァルハラへの道が敷かれているかわからないのが戦というものだ。
 そのため感情的には二人の時間を邪魔したくないのだが、次の予定である艦隊運用に関する大将級会談に遅刻することは拙かろうと、メルケの常識は計算していた。
 しばし逡巡し続け、けれども時の圧力に背を押されたメルケは、心を決めて呼び鈴の前に立った。
(よし)
 頭の中でやりとりはシミュレーション済みだ。無難な言葉をいくつか思い浮かべ、呼び鈴へ手を伸ばしたところで、目の前の扉が急に開いた。向かってくる扉を反射的に後ずさって避けられたのは、護衛官としての面目躍如といったところだろう。
 和やかに会話をしながら扉を開いた赤毛の上官は、慌てるメルケの姿をみとめてその名を呟き、迎えの時間を大幅に過ぎていることに対して眉尻を下げた。
「メルケ大尉…遅くなってすみません」
「いえ! こちらこそ、おくつろぎのところ申し訳ありません!」
 用意していた言葉が吹き飛んでしまったメルケは、なぜか敬礼しながら謝罪する。
「ジーク?」
 赤毛の長身の後ろから、真っ直ぐと伸びた亜麻色の髪を揺らして妙齢の女性が現れた。
 切れ長で輝きを宿した瞳は春先の優しい空色を思わせ、すっきりと整った顔立ちの美人だった。
 メルケはキルヒアイスの逢瀬の相手を、はじめて間近に見た。普段は玄関先で見送りに出てきて手を振る姿を遠目で眺めるのみだったのだ。
。彼は護衛官のメルケ大尉です」
 一歩横にずれて恋人に場所を譲ったメルケの上官は、敬礼姿で固まったままの護衛官を紹介する。メルケは更に胸をそらして自ら名乗った。
「キルヒアイス大将閣下の護衛を担当しております、アルノルト・メルケ大尉であります」
「メルケ大尉? はじめまして、 ・フォン・ と申します。いつも彼を守って下さってありがとう」
 そういって彼女は笑みを浮かべ、スカートの裾をつまんで小さく膝を沈ませ礼をする。その姿は優雅で、フォンの称号を持つ者らしい振舞だった。だが貴族にありがちな尊大さなどは全くなく、目下の人間に対して丁寧な口調なのはキルヒアイスと同じなのだとメルケは思った。
「お言葉痛み入ります。キルヒアイス閣下をこれからもお守りするために、全力を尽くす所存です」
  は先ほどよりも打ち解けたようににっこり笑い、傍らの恋人の腕にそっと左手を添えた。
 その薬指に光るものを目ざとく見つけ、思わずメルケは凝視してしまう。それは、一般的に結婚の約束代わりに贈られるものではなかっただろうか。
 視線に気付いたキルヒアイスが照れたように相好を崩し、 の背に手を回し寄り添った。
「もう知っているでしょうが、彼女は私の恋人で、婚約者です…つい先程からね」
 勤務中にはついぞ見かけたことのない慈しむような眼差しを恋人に送るキルヒアイスの姿に、メルケは場に相応しい言葉をすぐさま選択する。
「おめでとうございます、キルヒアイス閣下、フロイライン・
 生真面目な護衛官は、その上官の遅刻の理由を把握した。
 幸福な恋人たちの間に漂う何ともいえない甘い雰囲気に、彼はいま自分に求められていることを考え、素早く実行に移すことにした。
「小官は車の準備をして参ります。閣下はどうぞゆっくりいらして下さい。お会いできて光栄でした、フロイライン・ 。それでは失礼致します」
「こちらこそ、またお会いしましょう、メルケ大尉」
 忙しないとも思われる挨拶を残し、メルケは再び敬礼して足早にその場を離れた。邪魔者は退散するに限るのだった。
 再び地上車の前へ立ち位置を戻したメルケは、心を落ち着かせようと胸に手を当てながら振り返り、別れ前の抱擁を交わす恋人たちの姿をみやった。

 キルヒアイスの恋慕の対象は、先ごろ崩御した皇帝の側室であるグリューネワルト伯爵夫人であると、誰が言い出したかは知らないが、メルケの周囲ではまことしやかに噂されていた。
 金髪の獅子とその姉君、そして赤毛の青年の三人が長い付き合いに個人的関係を育んだ事実は誰も疑っておらず、実際に先帝の後宮が解散した後、彼等は斉しくシュワルツェンの館に居を定めていた。口さがない者は、キルヒアイスはローエングラム伯の信頼では足らず、その姉から寵愛を受ける立場だと陰口したが、メルケだけはそれが単なる噂にすぎないことを知る立場にあった。
 なぜなら、2年ほど前に現在の護衛官としてキルヒアイスの側近となってからは、メルケは文字通り彼と生活の大部分を共に過ごしていて、一年以上前に赤毛の青年が亜麻色の髪の恋人と知り合い、徐々に親しくなる過程も、そして恋人の家へと通うようになったことも知っていたからだ。
 彼は任務上で知りえたことを他人に漏らすような性質ではなかったので、部下をよく把握している上官も恋人の元を訪れる際には故意にメルケを選んで伴っていた節がある。護衛官はメルケ以外にも数人いるのだが、それとなく探ってみたところ誰もキルヒアイスの恋人の存在を知らなかった。
 美しい子爵夫人と名残惜しそうに別れ、長身に相応しい確かな足取りで歩む上官のために車のドアを開閉し、そして自分も運転席へと回って乗り込む。
 扉の前で見送りに立つ に、キルヒアイスも小さく手を振り返した。恋人たちが互いの姿を一瞬でも長く焼き付けることが出来るようにという配慮のもと、メルケはゆっくりと地上車を発車させる。
 角を曲がり恋人の姿が見えなくなったところで、キルヒアイスが視線を正面へ戻し、メルケに話しかけた。その表情はこの二年間で最も幸福に満ち溢れているようだった。
「お待たせしてすみませんでした、大尉」
「いえ、人生の一大事でしょうから…改めてお祝い申し上げます」
 メルケは真面目一徹ではあるが、感情を知らない人間というわけではない。彼自身はいまだ妻も、そして現在は恋人もいない身で求婚の経験は遠い想像しかできなかった。だが、人生を共に歩む相手を求めるのだ。少し時間に遅れて自分が待つことくらいなら、責められるべきことではないようにメルケには思えた。
「ありがとう、メルケ大尉。ただ、このことは…」
「他言無用と承知しております」
 こうして秘密を共有する間柄として、キルヒアイスはメルケを信頼していた。任務に忠実な護衛官が一度たりとてキルヒアイスの逢瀬を漏らしたことがないことは、その噂がどこにも広がっていないことからも明らかだった。メルケもまた、目下の護衛官を一度として蔑んだことなく気の優しい上官を、配属当初からいたく気に入っていたので、彼の不利になるようなことはしたいとも思っていなかった。
「何か旨い酒を用意しておきますよ」
「幸せのお裾分け、有り難く頂戴致します」
 二人は上官と部下という関係であり、けして友人関係ではなかったが、確かな信頼と好意をお互いに寄せ合ってはいた。
 それから目的地へ着くまでの間、車内は穏やかな雰囲気に満たされていた。
 メルケはこの一年間、上官を恋人のもとへ送り迎えをした役として、誇らしく幸せな気持ちになった。
 幸せの運び役、などとらしくなくロマンチックな考えが浮かんだ。自分の下へ幸せはとんとやって来る気配はないが、他人の幸せに寄与できるのも悪くはない気分だ。
 いつかあるだろう結婚式へも護衛官として同席することになるだろうかと、メルケはその日を想像した。


 けれどもその日はついぞ来ないまま、メルケの親愛なる上官はヴァルハラへ旅立っていった。




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