03.azure ring


 ラインハルトはあの日を思い起こす度、自らを殴りたい衝動と、とてつもない喪失感と、尽きることのない後悔とを覚えた。それらが混ぜ合わさって、喚きたくなるような悲しみが幾度となく彼を襲った。それは半身をもがれたと言っても過言ではない辛苦であった。
 けれども最後には赤髪の優しかった友人の言葉が甦り、その言葉通りに未来を描くためにラインハルトは立ち上がらなければならなかった。
 彼の唯一無二の友は、最後の僅かな時に言葉を遺していった。
「ラインハルト様…宇宙を手にお入れ下さい…。それと、アンネローゼ様にお伝え下さい。ジークは昔の誓いを守ったと……」
 言い終えた彼が、疲れたように言葉を途切れさせ、そして生の最後に小さく呟いた名があったことを知るのは、もっとも間近でその死を看取ったラインハルト以外にいなかった。
…」
 今際に呟いたその名が、ラインハルトやアンネローゼと同じよう、親友にとって大切な者の名であったことをラインハルトは疑っていない。
 だが、認めたくはない気分であった。
 彼と友は安寧の象徴であった姉を取り戻すべく軍へと身を投じ、実力をもって権力の階を駆け上がってきた。全ては、あの3人の穏やかな日々のためだった。少なくともラインハルトはそう思っていた。
 けれども燃えるような赤を身に宿した友人には、姉のアンネローゼと友ラインハルト以外に、心の中に大切な者を住まわせていたのだ。
 その相手が誰なのか、ラインハルトは尋ねる機会を永遠に失い、ただ残された見知らぬ名前だけが解けぬ戒めのように彼に纏わりついている。
 我が身を呈してラインハルトを守ったキルヒアイス。
 彼が死ぬ遠因をもたらしたのは、他でもないラインハルト自身だった。
 姉は、私たちは失うものを持たなくなったと告げ、彼と会うことを拒むように宮殿を出た。彼は友と、姉との3人の優しい日々を確かに失った。姉も同じように愛しい者と、弟と穏やかに話す心を失ったのだろう。キルヒアイスは命という歩むべき未来を失った。
 そして「 」は。
 そのことへ辿りつく度、ラインハルトの明晰な頭脳は動きを止めてしまうようだった。

 ガイエスブルクでキルヒアイスの遺体を整えた侍従が、赤髪の友が身に着けていたとそっと手渡してきたのは、細い銀鎖に通された指輪だった。その飾り気ない銀色の指輪を目にしたことがなかったラインハルトは、手の中で指輪をくるりと回し、その内側に空色の小さな輝石が嵌っているのを見つけた。晴れた空のように明るい青の傍に、「 zu S」と洗練された書体で刻まれている。
 の名を持つ誰かが、Sの頭文字を持つジークフリードへと贈った指輪。

 ラインハルトは強かに頭を殴られた気分だった。

 最後の息と共に音にした名は。
『ラインハルト様、今度の出征から戻った折には、お会いして頂きたい相手がいるのです』
『誰だ?その相手というのは』
 悪戯を隠す子供のように笑っていた友人は、驚かせるのが楽しみだからと、ついぞその会わせる相手が誰なのかを教えてはくれなかった。
『今夜は予定があるので、食事はご一緒できません』
 告げたキルヒアイスがやけに嬉しそうにしていると思ったのは、いつだったろうか。

 様々な符号が一つに纏まり、答を導き出す。
 キルヒアイスには、死ぬ間際に名を呟き、ラインハルトに会わせようとする相手がいた。
 自身の過ちが、姉からだけでなく、その相手からもキルヒアイスという未来を奪ったのだと、ラインハルトは気付かざるを得なかった。
 姉に唯一無二の友の死を知られ、高速通信で画面越しに話した時に、その悲しい表情の中にみつけた己の暗い絶望感を、もう一度味あわなければならないことが彼は恐ろしかった。
 責めるでもなく、ただ無言で、哀れむように見つめられるのが怖かった。
 そして、彼は小さな輝きの指輪を、自室の机深くに封印した。
 だが、キルヒアイスの死を知った「 」は、どう思ったのだろうかと。キルヒアイスの大切な者だったはずの相手に、何もせずにいて良いのかと、見えぬ指輪の存在が問いかけてくる。
 知ってしまえば、知る前には戻れない。見えぬ場所に指輪を仕舞い込んだとて、なかったことにはできなかった。当然、友の遺品を捨てることなどできるはずもない。
 初めからそのような者などいなかったのだと、まだ見ぬ女を忘れた振りをして過ごしてきた。けれどもあの喪失の日から半年以上が経ちながら、隠すように抽斗に仕舞ったままの小さな銀色の棘は、夜毎ラインハルトを苛んだ。
 その気になってキルヒアイスの生前の行動を調べれば、「 」が誰であるかなど簡単に突き止めることができるだけの権力を、ラインハルトは今や手に入れていた。
 だが半年近くその命令を出さなかったのは、やはり自らの恐れゆえだと、半身を失った青年は項垂れて罪の証である指輪をみやる。
 いつもは再び抽斗の奥へ埋めてしまう指輪を、その日、彼は胸元のポケットに携えて部屋を出た。
 イゼルローン攻略のために、彼の血を吸ったガイエスブルグ要塞は前線へと送り込まれる。その前に訪れなければならないと、若き権力者は背を押されるように過日に惨劇の祝典が催された広間を訪れた。


 血に汚れた絨毯や床は新しいものに変えられ、広間は何事もなかったかのように静まり返っていた。
 あの日と同じよう、幾分高い位置に据えられた椅子に腰掛ける。
 いつも彼は、座る自身の左横に控えていた。警護官は他にもいるのだからと座るよう促しても、彼は人前でラインハルトと同席することをひどく拒んだ。けれども二人きりになると、途端に遠慮なく何でも言い合える昔と同じ関係でいられた。
 様々な情景が次から次へ浮かぶ。
 姉の作ったアップフェルトタルトを二人で競い合うように食べたこと。幼年学校で上級生と喧嘩して返り討ちにしたこと。任官して初めて赴いた戦場で、不味い糧食を笑いあって分け合ったこと。
 人は遠く離れてしまった物事を、実感できなくなる生き物だという。
 だが彼の中のキルヒアイスは、肉体が存在しなくなっても色濃く気配を残している。だからこそ、彼の最後の言葉がいつもラインハルトの中に繰り返し響き渡る。
『ラインハルト様…宇宙を手にお入れ下さい…』
「そうだな…キルヒアイス。俺は宇宙を手に入れてみせよう。お前が最後に望んだことなら…」
 そうして、ラインハルトは決めた。
 けして過去は振り返るまいと。
 走りつかれて命尽きるまで、後ろを振り向くまいと。
 その為には、残された懸念は拭い去らなければならない。そう起き上がった獅子は思った。

 携えた指輪を片手に、ラインハルトは広間を後にする。その扉を振り返ることはせず、付き従うように傍へ付いた主席副官のシュトライト少将へ前を向いたまま告げる。
「人を探したい。 という名の…キルヒアイスの恋人だった女性を」
 シュトライトは心の中の驚きをおくびにも出さず、ただ「Ja」とだけ答えた。