02.green heart


 その後、ミュラーは彼女の名を意外な伝手から知ることになる。
 赤毛の青年の墓参後に出征したイゼルローン攻略戦において、ミュラーは同盟軍の奇術師に手痛い敗北を喫した。攻略軍の総司令であったケンプは宇宙に散り、彼自身も2ヶ月以上の入院を余儀なくされていた。ラインハルトの御前で負け戦の報告を述べる際には自分の首が飛ぶことも想像したミュラーだったが、金髪の若獅子から労いの言葉とともに責を問わない旨を告げられ、安堵に気を失った彼が次に目を覚ました時には、病院へと担ぎ込まれて手術を受けた後だった。不甲斐なさに落ち込みもしたが、ケンプの無念を晴らすためにも自由惑星同盟のヤン=ウェンリーへの再戦を誓い、絶対安静から逃れたミュラーは副官らに書類やデータを運び込ませ、近頃は仕事に精を出しつつリハビリに励む毎日である。
 そこに見舞いと称して僚友らが連日やって来ては、手土産を置いていった。
 ロイエンタールとミッターマイヤーは連れ立って歳若い同僚を慰撫し、退院した暁に乾杯しようと値の張るワインを置いていったし、ビッテンフェルトは報告の際のミュラーの気概に感動したと大声で褒めそやし、ミュラーを恐縮させた。ミュラーはローエングラム元帥府に招かれてまだ日が浅い新参者ではあったが、あの一件で他の幕僚たちがミュラーに好意をもつようになったのだと、ビッテンフェルトは豪快な口調で言い置き、他に何がよいかわからなくて、とこれまた銘酒と名高いブランデーを並んだ酒瓶の列に加えた。
 歳のいった男への定番土産として多くの僚友らが酒を選んだ中、異彩を放っていたのがエルネスト・メックリンガーの見舞い品だった。芸術家提督と言われる彼が持参したのは、何冊かの絵画集と、近頃名を売っているというピアニストのコンサートを収めたデータディスクだったのだ。
 軍人ゆえに文化的創造物とは縁遠い生活をしているミュラーだったが、メックリンガーからの手土産は物珍しく思いつつ感謝して受け取った。治療中のために酒が飲めず、仕事とリハビリのある昼はまだしも病人だからと残業もさせてもらえない夜には、暇をもてあましていたのだ。世話をやいてくれる恋人や妻がいる訳でもなく、忙しい毎日には手に取ることができない戦術論の最新論文を読みつつも、さすがにその暇が2ヶ月も続くとあっては暇つぶしのストックも尽きかけていた。
 良い気分転換になるだろうと、ミュラーは早速、普段は聴く機会のないピアノ曲に耳を傾けることにした。データディスクには映像も含まれていて、ゆっくり眺めようとソファに腰を落ち着けたところで、しかしものの数分で穏やかな気分は吹き飛んでいってしまった。
 柔らかなライトに照らされる舞台に響く拍手と共に、一人の女性が現れる。
 肩を出すルビーレッドのロングドレスを優雅に着こなして礼をした彼女は、軽やかな裾裁きで漆黒のグランドピアノの前に座り、ひとつ息をついて顔をあげ、鍵盤に掌を優しく下ろすと、その手つきとは打って変わって力強い旋律を奏で始めた。
「すごいな…」
 さすがは芸術家提督の推薦というべきだろうか、音楽を聴きながら本でも読もうという気が失せてしまうほど、聴く者を惹きつける力を持つ音だった。叩きつけるような激動の嵐のようにも聴こえる。高らかに始まりを告げた音階が次第に複雑さを増し、彼女の指先も白と黒の世界を自在に飛び回っていた。その手さばきを逃すまいとするように、カメラは彼女の手元や顔を大きく映し出すようフレームをピアニストに寄せた。そこで、ミュラーは思わず痛む肩も忘れて背凭れから体を勢いよく起こした。
 画面上で美しい音楽を弾きこなしていたのは、墓地で出会ったあの亜麻色の髪の女性だったのだ。見間違いかと食い入るようにみつめるが、緩やかに波打つ髪の色合いや、風に垣間見えた青い瞳を見るごとに、黒紗越しに見たあの女性に間違いないという確信は強まっていった。
 正直なところ、彼女のことはすっかり忘却の淵に追いやられていた。戦場で平時のことを思い起こす暇などあるはずもなく、オーディンへと戻ってからは他に考えることが多すぎた。
 一瞬ざわめいた胸を落ち着かせようと再びソファへ背を預け、ミュラーは考える。
 あの日、彼女はミュラーに名を告げることを拒んで去っていった。指輪の件は心残りだと言いながら、それを手にするチャンスを捨ててでも平穏を選んだ。その相手に再び連絡を取ったからといって、何になるだろうか。人の事情に足を踏み込むのであれば、多くの覚悟をしてから踏み込まねばならないと、彼は知っていた。相手を傷つけたり、自分も傷つくかもしれないという覚悟を。
 きらめく粒の優しい音が、泣いているようにも聴こえたのは、彼自身の感傷のせいだろうか。
 ミュラーはソファに沈み込んだまま、叙情的な旋律に身を任せて逡巡した。
 そうして演奏が静かでけれども激しくリズムを刻む第3楽章に入った頃、ミュラーは立ち上がりヴィジホンの前に立った。通信先は、土産をもたらした芸術家提督である。時刻は23時を回り、常識的には通信を入れる時間帯ではなかったが、何かがミュラーの背を押して早く早くと急かしていた。明日の朝まで待つことなど、今の彼にはできそうにもなかった。

 数回のコールの後に通話がつながった先で、執事と思しき人物に取次ぎを頼む。それから数分のちに、メックリンガーがやや着崩したシャツ姿でモニタに現れた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 ミュラーは突然の通信の非礼を詫び、頭を下げた。メックリンガーは軽い口調でその礼を受け流す。
「いや、構わない。私は宵っ張りなのでね、今も絵を描いていた所さ。ところで、卿が私に連絡してくることなどあまりないことだ。何かあったのかね?」
「こうして連絡を差し上げながら些事で大変恐縮なのですが、先日頂いたピアニストの演奏を先程聴きまして、彼女のことについてお伺いしたいことがございます」
「ああ、あれか。どうだったかね? なかなか聴かせる演奏だったろう? 繊細な一音一音を大胆な曲想で纏め上げている。叙情的でいて、けれどもくどすぎず、聴き疲れのしない優しい春風のようなタッチ。いまのピアノ奏者の中でも随一と呼ばれる女性だ」
 音をなぞるように目を瞑って語るメックリンガーの言葉は、確かに彼女の演奏を思い起こさせる表現だった。今も背後で奏でられている旋律は、柔らかにミュラーを包み込むようだった。
「ええ、芸術に疎い小官でも、彼女の演奏が素晴らしいもので胸に残るものだったことはよく分かりました。その美しい演奏をする彼女の名を、教えていただきたいのです」
「こうして夜に通信を入れてくるほど、彼女に焦がれてしまったのかい? 気持ちはわからなくもないが…」
 メックリンガーがやや考えるように口髭を撫でていた。
 歳若い僚友があまり芸術に親しんでいないことは、彼も知っていた。そのミュラーが、急にピアニストの名を知りたいと夜遅くに連絡をしてくる意図を、彼は測りかねていた。当然、その背景には何か理由があるだろうと戦略に長けた芸術家提督は考える。
 その様子を見てとったミュラーは、どこまで説明すべきかと思案し、口を開いた。
「実は、彼女とある場所でお会いしたことがあるのです。その際は名を聞きそびれてしまって、けれどもメックリンガー少将に頂いたデータで彼女を見て、喜び勇んで連絡を差し上げてしまいました」
 額面どおりに受け取れば、一目惚れした相手の名を知りたいという一途さゆえに連絡したのだという意味にも取れたが、そう思えるほどメックリンガーは単純ではない。
「ふむ…」
 告げるか告げないかという迷いはなかった。告げなくとも、砂色の瞳の僚友は別の手段を使って彼女の名を調べるだろう。そして遅かれ早かれ、その名を知ることになる。自分に連絡を寄越したのは、一刻も早く知りたいという気持ちの現れであったろうが、なぜ急いでいるのかという事情ばかりは、本人に訊ねなければわからないだろう。問いたい気持ちはあったが、メックリンガーは意地悪せずに将来有望なピアニストの名を教えてやることにした。
「まあ深い理由は聞くまい。彼女の名は、 ・フォン・ 子爵家の当主で、2年前にあるコンクールで優勝してからは名の売れた新進気鋭のピアニストだ」
・フォン・ …」
子爵という名は、ミュラーにも覚えがあった。先のリップシュタット戦役では、マリーンドルフ家と並んで真っ先にローエングラム伯軍についた貴族だった。その当主はラインハルトの秘書官となったヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ同様うら若い女性であったと、ラインハルトの副官であるリュッケ中尉が話していたのを、ミュラーも耳にしていたのだ。
「半年ほど前からは、赤いドレスしか着なくなったことも好奇の対象になっているといえるかな」
 メックリンガーは芸術に関心があるのであって醜聞の類は好まなかったが、サロンや演奏会に顔を出すと耳を塞いでいてもそのような話は耳に入ってきた。
「とはいえ、近頃はあまり人前に出てきていない。病でも得ているのではないかと噂されているが。卿に渡した演奏は、丁度彼女が姿を見せなくなる直前のものだ」
「そうなのですか…」
 その話を聞き、ミュラーは打ちのめされた気分になった。彼が忘れ去っていた一件は、やはり彼女の中に深い楔打ち込んで、悲しみから解き放つことはなかったのだ。赤髪の青年の墓前でのやりとりで、ミュラーは が赤のドレスを纏う意味を、過たずに思い至ることができた。

 それからメックリンガーに感謝の言葉を述べ、早々に通信を切ったミュラーは、情報端末を片手に猛然と情報収集を開始した。
 ミュラーの心の内は、この件に節介をすると決めた時にすべて定まっていた。 ・フォン・ と連絡が取れた日には、彼女の存在をラインハルト・フォン・ローエングラムへ伝えようと、ミュラーは決めてしまったのだ。
 明日から夜の暇つぶしには事欠かない生活となりそうだった。