01.black lady


 ジークフリード・キルヒアイスが愛したのはこの銀河にただ一人、ラインハルト・フォン・ローエングラム公の姉であるグリューネワルト伯爵夫人だけだと、誰もが思っていた。

 唯一無二の主君であり、そして友であった者を守って、赤髪の青年は世を去った。
 彼の死を悼む葬儀は盛大に執り行われた。その死に遡って宇宙艦隊総司令官など数々の地位が付与された。だが、銀河の栄華を極める地位や麗句で飾りつけられても彼は戻ることはなく、皆が一抹のやるせなさを持った。
 キルヒアイスと肩を並べて戦場を駆けたこともあるミュラーも、悲しみをもてあましたまま日々を過ごしていた。生前、接する機会が多くあったとは言えない間柄だったが、軍内で若いといわれるミュラー自身よりもさらに年若い僚友に、彼は身勝手ながら親しみを感じていた。幾度か酒杯を交わした際に触れた人柄は、その親しみをさらに強くし、この先も交友を続けていければとミュラーは思っていた。その矢先、赤毛の青年は世を去った。公的な葬儀の場で軍人である己が醜態をさらすわけにも行かず、それ以外に会場の警備や今後の任務のことに気をとられ、心から弔意を伝えられることがなかったことが、ミュラーにとって気がかりだった。


 あのガイエスブルグでの祝典の悲劇から数か月経ち、久し振りの休暇を得た日、ミュラーは見繕ってもらった花束を片手に、あまりにも早すぎる死をオーディン神から賜った青年の墓へ向かった。
 夏には溢れんばかりの緑を茂らせる木々も、冬将軍が訪れている今は寒々しい裸枝を晒している。地面の芝生や常緑の植木は季節を問わず青々と色づいているとはいえ、あいにくの曇り空もあいまって墓地の物悲しさは隠しようがなかった。沈みそうになる気持ちを振り払い、芽吹く日の遠い木立の間をすり抜けた先、真新しい死者の標の前に先客が佇んでいた。
 黒衣を身に纏う女性の姿は、薄く霞む冬の色合いの風景に、ぽつりと落ちたインクのように見える。一幅の絵画のように静的な雰囲気を侵し難く思ったミュラーは、歩みを躊躇し立ち止まった。
 黒帽子からこぼれた亜麻色の髪、彼女の纏った黒い衣服、たおやかな手に握られた白い弔い花、その全てから悲しみが溢れていた。帽子から垂れたケープにさえぎられ彼女の目元はよく見えなかったが、そこにもきっと死者を悼む色が浮かんでいるのだろう、そうミュラーは思い、その静謐な空気に足を止めたまま彼女を見つめていた。
 だが、静けさは彼女によってしたたかに打ち破られた。
「ジーク…ひどい人…」
 呟いた声が風に吹かれて聞こえたかと思うと、ミュラーは次の瞬間、目を瞠った。彼女は花を持った右手を振り上げると、力いっぱいキルヒアイスの墓標に叩きつけたからだ。
 白く可憐だった花は無残にちぎれ、花弁が飛び散る。
「フロイライン!」
(何ということを!)
 感傷は吹き飛び、一気に湧き上がった憤りと共にミュラーは声を上げて駆け寄った。
 かけられた声に肩を震わせた女性は、思わずといった風に振り返る。
 そして浮き上がったケープの隙間から濡れた空色の目元が見えた瞬間、ミュラーの憤りは急速にしぼむしかなかった。落ち着かない気持ちと納得とが心を占め、声を荒げたことを恥ずかしいとさえ思った。
 死者を冒涜する者が黒い喪服を纏うだろうか。その青空のような瞳に悲愴な色を湛えるだろうか。
 沈黙が流れる。ミュラーはこの状況に見合うような言葉を見つけられず、ただ目前の女性を見つめるしかなかった。
 その視線を避けるよう背を向け、先に言葉を紡いだのは黒衣の女性だった。
 場を取り繕うでもなく、先ほどの激昂が嘘のように凪いだ声。
「あなたも、彼を弔いにいらしたのですね。醜い様を見せてごめんなさい」
 言ってゆっくり屈んだ彼女は、散らばった丸い花弁を拾い集め始める。彼女の手は淀みなく動き、ミュラーが手伝う間もなく、無残な姿となった円い花の骸は再び彼女の元に集められた。
 その間、彼は困惑して彼女のそばに突っ立ったままだった。動く手を見ているうち、そのしなやかな左手の薬指に光る指輪を見つけて、ミュラーの困惑は更に大きくなった。
(まさか…いや、しかし…)
 立ち上がった女性はミュラーに一度視線をくれたあと、墓標に向きなおった。墓地を渡る冬の気配の濃い風に鳥の囀りもなりを潜める中、彼女の声はミュラーに語りかけているようでもあり、どこか遠くに向けているようでもあった。
「馬鹿よね。こんなことして、片づけるのは自分なのに。もう怒っても、どうしようもないのに……馬鹿よね」
 彼女は散った花片を片手に、「我が友」と銘の入った墓標を見つめて静かに涙を零した。
 震える彼女の肩を抱いて慰めるほど親しくもなく、けれども放って置ける訳もなく、ミュラーは戸惑いつつもただ女性の傍らで立ち尽くすしかなかった。

 しばらくして真白いハンカチで涙を拭いた女性は、場を取り成すように口元に小さな微笑を浮かべ、困惑した表情を隠すことの出来ないミュラーへ声をかけた。
「失礼しました…ミュラー提督」
「小官のことを…ご存知なのですか、フロイライン」
「砂色の髪の歳若い大将閣下など、他にはおられませんから」
 言う女性の視線は、ミュラーの襟元の階級章に向けられている。ミュラーは先日昇進したばかりで、それまで世に知られた人間ということもなく、メディアに露出することも少なかった。それにしては女性は確信を持ってミュラーの名を呼んだし、軍服の階級章に通じていることも、ミュラーの心に疑問を投げかけた。
「失礼ですが、フロイラインはキルヒアイス提督と…」
「どのような関係かと、そう仰りたいのですね。ミュラー提督は、どう思われますか? 墓石に花束をぶつけるような女が、彼とどういった関係であったか?」
 自嘲交じりの問いかけに、彼には答られるはずもなかった。ただ彼は墓参りに来た先で、故人と縁のありそうな女性が花を振り上げる場面を目撃しただけで、その彼女がキルヒアイスとどのような関係であったか知りうるような能力は持ち合わせてなかった。ただ、女性が赤髪の若者の死に深い悲しみと激昂を覚えるほど心乱される程度には関係があったのだと、そう推測する他ない。
 困惑に視線を泳がせた先で、ハンカチを握り締める白皙の左手にぶつかる。砂色の視線の先に薬指に光る銀色の環があるのを悟った女性は、その手で物言わぬ墓石を優しく撫でた。
「少し昔話をしましょう、ミュラー提督」
「昔話…ですか」
 唐突な申し出に面食らって何もいえないでいるミュラーを尻目に、彼女は滔々と語りだす。
「終わった恋の話。そう、若い軍人と女が出会ったのは、あるカフェだった。女は貴族で、色んなことに嫌気がさして家を抜け出しては、街角のカフェに息抜きに来ていた。二人は互いに常連で、隣に座った時に話をして、そうして会う内に恋に落ちた。軍人の彼は色々な事情があって、軍務も忙しくて、けれども優しい人だった。今度の出征から帰ったら親や友人に紹介して結婚しようと指輪をくれて、けれども戻ってこなかった。このご時勢、よくある悲恋話のひとつにすぎない。そう思いませんか、ミュラー提督」
 問わずとも、ミュラーには今の話が誰を指しているかわからないほど愚鈍ではなかった。若い軍人はキルヒアイスで、その恋人となった貴族の女は目の前の彼女だったと、彼女はそう言うのだ。
「幸福で、けれども残酷な…2年間のお話」
「…このことは、ローエングラム伯は…」
「知るわけもないでしょう。ジークのラインハルト様は、いつでも未来を見据えておいでで周りのことなど気に留めもしない。恋人ができたことに気付きもしないと、彼は笑っていたわ」
 ジークと、そのように彼を呼ぶ者を、ミュラーはグリューネワルト伯爵夫人以外に知らなかった。そして彼女はキルヒアイスがラインハルトを呼ぶ時の癖を、再現してみせた。伯爵であり元帥であった金髪の上官を、ラインハルト様と呼ぶ者はキルヒアイス以外におらず、そして今は誰もいなくなった、特別な呼び名だったのだ。
目を瞑って俯く彼女の唇は噛み締められていて、キルヒアイスの死の原因となったラインハルトに決して平静を保っていられないのだと、その気持ちが伝わってくる。
「彼が命を捧げてローエングラム閣下を護ったことに、私は何も申し上げることはありません。ローエングラム閣下にはジークの願いを…彼がいつも言っていたように、宇宙を手に入れるという願いを果たして欲しいと思うだけです。ただ…一つだけ…彼は銘の入った指輪を持っていたはずなのです。それを、私が持ちたいと願うのは過分な願いなのかと、そうお伺いしたいと思うだけ」
「直接、お話にはなられないのですか」
「当家は先日の戦役で何の戦果も上げなかった一介の貴族。わたくしなどがお会いできる方でもございません。私はただ彼が私にくれた証を抱いて、穏やかに暮していきたい…」
 ミュラーは何も言えず、彼女もまた胸にこみ上げたものを飲み下すのに必死で、声を紡ぐことができなかった。風が一陣吹き抜け、驚いたように鳩たちが羽音を響かせ雲の垂れ込める灰色の空へと飛び上がった。騒がしい羽音が響き渡る。
 それは沈黙に支配された二人の間に、再び時が流れ出すことを知らせる合図のようだった。
「詮無いことを申し上げました。ただの女の戯言と思ってお忘れくださいませ」
 振り返って目礼をくれた女性は、話はお仕舞いとその場を離れようと黒い靴を踏み出す。
「お待ち下さい、フロイライン! 指輪の件は小官が閣下に申し上げてみましょう! ですから、お名前をお聞かせ下さい」
 ミュラーは短い邂逅で、青い瞳の女性に何かしてやりたいと思うようになった自らに少し驚いた。彼女は立ち止まり、けれども振り返ることなく告げる。
「そのお気遣いを心より嬉しく思います。けれども、良いのです。私はただの気が狂った女。ミュラー提督が気にかけるような者でもございません。どうぞ今日のことはお忘れ下さい。提督の御武運をお祈り申し上げます」
「フロイライン!」
 そのまま並木を抜けて歩いていく黒い後姿を追いかけることも出来ず、ミュラーはただその場で彼女が迎えの地上車に乗って去っていくのを見送った。 追いすがって掴まえ、名を名乗らせることを試みなかったのは、亜麻色の髪の女性にそれ以上、悲しみを溢れさせることが苦に思えたからだった。
 結局、ミュラーは女性の名を知ることができず、この場を訪れた本来の目的を思い出して赤髪の青年に花を手向けて冥福を祈った。だが心が晴れやかになる筈もなく、重い思案をミュラーの心に残した。