コルネリアス・ルッツ少佐の弁務官付き武官という軍務は、子爵夫人の参事官任命に伴い、フェザーン着任以前から開始しているらしかった。
当のお役目は、弁務官に危険が及ばぬよう配慮する立場であり、一方で何らかの監視が必要な場合にも配置されるものである。
今回は主に前者の理由で帝国軍から国務省へ出向となったルッツ少佐のこれまでの経歴は、艦隊所属が主であるが、何度か陸上勤務が挟まり、いずれにおいても優秀な評価を得ていた。平民出身であるにも関わらず貴族階級の上官を含め上下問わず人望篤く、また、射撃試験の成績も良好、どこに出しても恥ずかしくない士官ということで、ミュッケンベルガー上級大将およびディートハルトの推薦を受けるのも納得の人物評である。
色味の薄い金色の髪を短く刈り込み、姿勢よく佇むルッツ少佐はこのまま新任参事官の子爵夫人に同道するという。
心の準備も思惑の備えもないはヘルツ少佐に丸投げすることを決め、新たに加わった少佐を伴い、メルダース補佐官へ暇を告げて部屋を出る。
立哨として扉脇に控えていた栗色髪の護衛に対し、はお願いする。
「ヘルツ少佐、弁務官付き武官のルッツ少佐です。これから先も長いことですから、どうぞよしなになさって下さい」
「承知致しました。子爵領軍所属のヘルツ少佐です、どうぞよろしく、ルッツ少佐」
「コルネリアス・ルッツ少佐であります、ヘルツ少佐」
答礼するルッツ少佐の声は硬く、ヘルツ少佐もまた相手を観察する素振りである。
原作的にも知るとしてはルッツ少佐への疑念は乏しかったが、身辺が物騒な状況的にすぐにお味方扱いという訳にもいかないだろう。
(まあ、お互いに信頼は一日にして成らず、かな?)
ゆっくり歓談といきたいが、本日のは予定が立て込んでいるため、ルッツ少佐とのお話は後回しである。
は国務省を辞し、宮廷を取り仕切る典礼省へ足を向ける。
陛下から下賜された勲章と、褒賞の中身を受け取るためであった。
典礼省の役人は紺の天鵞絨の箱に詰められたゴールデンバウムの枝葉を模した勲章の貴重さ、素材や彫刻に込められた意味を若すぎる子爵夫人に長々と語り、さらに褒賞の金額を長い美辞麗句とともに告げ、受け渡し方法を記した証書を勿体ぶった動作で渡してきた。
は恭しく一礼し、決まり文句で応じる。
「陛下の御威光に報いるために、これからも政務に励みたいと存じます」
幾らかの社交辞令が往復し、典礼省としての面目を立てた後、は切り出すことにした。
「ところで、薔薇を賜る件について、本日、お話をお伺いすることはできますか?」
皇帝フリードリヒ四世の薔薇と温室、これを賜るにも前例がないため、は詳細を求めていた。具体的な実務は領地の官吏に任せるにしても、陛下の薔薇を迎えるための温室の立地や規模、構造的な要件など、最低限の情報は仕入れておかねばならない。万が一、枯らしでもしたらという未来は想像したくないである。
黒髪の子爵夫人の問いに、役人は仰々しく答える。
「陛下の庭園より、技師が派遣されるそうです。その方に尋ねてみるのがよろしいでしょう」
本来は典礼省が調整すべき事項だが、どうやら彼はその気がないらしかった。
笑顔の下で役人の無策を罵りながら、はその技師の身元を尋ねる。
「ああ、それは国務省から回ってきておりました。ヨゼフ・ガイスラーという若手の造園技師のようです」
鷲鼻のリヒテンラーデ侯爵は、優秀である。少なくとも眼前の典礼省よりは国務省の方が仕事をわかっている。
「では、ヘル・ガイスラーに取り急ぎ、当方の担当者をお繋ぎいただけますか? こちらは心ばかりですが本日の記念に、ぜひお渡ししたく持参致しました。どうかお受け取り下さい」
宝飾品の贈り物は袖の下ではなく、何かの祝い事には関係者に恵みを分け与えるものだ、という帝国貴族仕草である。本来は意匠を凝らして贈った人の身元を明らかにした贈答品が良いと言われているが、いわゆる関係者の数に頭を悩ませたは、一般的に価値のある貴石の数を揃え、何にでも加工しやすい男女兼用ブローチとして配り歩いていた。
典礼省の役人は満足な気分を得たようで、一両日中の連絡を約束してくれた。
夕刻に近づいたころ、はようやくオーディンの官庁街から出ることができた。だが、これで仕事は終わりとならず、本日の・フォン・子爵夫人は夜の歌劇観賞予定である。
子爵邸へと戻り、は急ぎ夜会用の服に衣替えする。
季節は夏であるから、白い薄衣を重ねゆったりと膨らみを持たせた軽めのドレスに、きらきら輝く腕輪や首輪をのせ、ゼルマに急いで結ってもらった髪には夏の花を模した金の簪をあしらう。
顔もそれなりに化粧を施し、人工象牙を重ねた扇を片手にどこから見ても貴婦人らしく装ったは、夕昏を追いかけるよう帝国劇場へと足を運んでいた。
移動の地上車は自動運転であるが、子爵領軍の下士官に扮したレクス・シュトルツァー軍曹ことカイルが運転席におり、ボックスシートになった後部座席の空間には、子爵夫人と侍女役のゼルマが並んで座り、その向かいにヘルツ少佐とルッツ少佐が居るという配置であった。本来、ルッツ少佐は助手席に座るところ、会話を求めて近くに来てもらったである。
ふと気づき、は昼から同伴している二人の少佐に声をかける。
「私が着替えている間に、お二人はお食事できましたか? ルッツ少佐は初日だというのに、長時間労働になってしまって申し訳ないです」
長時間労働などという、およそ貴族らしくない発言に虚を突かれたらしきルッツ少佐の傍で、ヘルツ少佐が、普段通りゆるやかに応じる。
「お気遣いなく、閣下。ルッツ少佐の案内と挨拶がてら、ともに邸内で食事も簡単に済ませて参りました」
「そうでしたか、よかったです。ルッツ少佐も、問題ありませんか? 何か困ったことがあれば、すぐに私や家の者にお伝えくださいね」
「はっ。軍務ゆえ、小官のことはお気になさらず」
模範的な軍人らしく、膝上で拳を握った姿勢から目礼で答えたルッツ少佐に、は新鮮な気持ちになった。
ここ数年、身近に子爵領の関係者以外おらず、ミュッケンベルガー上級大将らの推薦とはいえ、馴染みの少ない軍人を傍に置くことは、多少の緊張が伴うものだった。
今後の展開次第では参事官付というのは危険が伴うので、取り急ぎは移動の車内で最低限必要なすり合わせを行うことした。
(ルッツ少佐、めちゃくちゃ警戒してる感じなんだよね)
急な人事で、縁もゆかりもない子爵夫人に付くべし、と言われた彼の身の上を想像すると、早めに誤解は解いておきたいである。
「ルッツ少佐、本日より私に付いてもらうことになりましたが、どの程度の事情までご理解なさっているのですか?」
「参事官殿が、フェザーンへ赴く初の女性弁務官であるため、身辺に万が一のことがなきよう、小官が配置されたと聞き及んでおります」
言葉を選び、政治的に間違いのない応答をするルッツ少佐は思慮深い人である。
(あれ、でもそういえば、ディートハルト様からは尉官待遇の武官を付けるって話だったような? なんでルッツ少佐が来たんだろう?)
コルネリアス・ルッツ少佐本人に尋ねてもよいものか、逡巡していたの顔を見てか、ヘルツ少佐が切り出した。
「閣下、少々補足してもよろしいでしょうか?」
同乗する護衛官のヘルツ少佐の声に、は勿論と頷いた。
「ルッツ少佐の配置に関して、僭越ではありますが、小官が私見を述べる機会がありました。小官も閣下の護衛として長くおりますので、過日、統帥本部から武官候補者の打診があり、先々代の卿とともに選定にあたったのです」
――・フォン・子爵夫人は子爵家のあらゆる事柄の最終決定権を持っているが、全ての実務を把握することはできず、報告のない現場のお話は多々存在している。帝国軍からの相談であれば、まずは退役中将である祖父コンラッド、そして現場を良く知るヘルツ少佐が任にあたることは、自然な成り行きであった。
「ありがとうございます、ヘルツ少佐。お祖父様とお話して下さった結果、ルッツ少佐が参事官付き武官となったということなのですね」
「左様です。ルッツ少佐と小官は、実は士官学校の同期にあたります。在校中に交友があったわけではありませんが、その為人と、射撃の腕を耳にしておりましたので、小官も彼を推薦致しました」
実際の処、ルッツ少佐以外の候補者のうち幾人かがヘルツの知己でもあったが、ひとりはその勇猛果敢すぎる直情さ故に、別のひとりは『あの』ロイエンタールであったので護衛としては目立ちすぎるとなり、また別の者は若さと階級がもの足らず、また別の者は実績が乏しく、と消去法で残った内で、もっとも推挙に足る人間がルッツ少佐だったという次第であった。
「本来、武官は尉官相当の役ではあったのですが、所属部隊での評価と実績あるルッツ少佐を抜擢するため、昇格に伴う佐官教育を兼ねての陸上勤務、という話になったと聞いております」
ヘルツ少佐の発言内容に、ルッツ少佐は口を引き結んだまま微動だにしなかったが、彼の脳内は目まぐるしく働いていた。
彼の目前で、統帥本部との取引ありえたこと、子爵家が人選に口出しをし得たこと、そして眼前の黒髪の子爵夫人の云う何らかの事情が背後に存在すると語られた故であったが、それ以上に、ルッツの事前予測を裏切り、思考を巡らせねばならなかったのである。
順調な艦隊勤務から時期外れの異動と昇格、与えられた任務が国務省への出向と噂の史上初女性弁務官付き武官、行き先はフェザーン。
ルッツは、下された辞令に絶望した。平民出身の大尉をその役に指名する、その意味を考えずにはいられなかったからだ。
政治が絡むという確信はルッツにもあったが、当の・フォン・子爵夫人が何者であるのか、ルッツは事前に調べなかった。調べたところで、辞令が出た以上、貴族縁故の力を持たない彼には諦念を抱くしかなかった。
だが、平民出身の少佐風情という扱いを受け、何らかの捨て駒にされるのかというルッツの予想を、黒髪の子爵夫人は大きく覆していた。
初対面の挨拶は丁寧なものであり、先任のフォンを帯びるヘルツ少佐も蔑む態度など見せない。
そして彼の内心の危惧を拭うためか、彼らはコルネリアス・ルッツ少佐という人間の価値を認め、来てもらった、という話をしたのである。
何故、と問うべきか否かの危険な誘惑に駆られたルッツが青紫の瞳を上げると、子爵夫人と視線が向き合う形になった。
貴族女性らしく華やかに着飾り、平素であれば近寄ることのない立場にいるはずの若き子爵夫人は、穏やかな表情で彼に語り掛けてくる。
「ルッツ少佐もご存知かもしれませんが、私は十歳の折に爵位を継ぎ、普段は領地を預かっているところ、このたび国務省補佐官として高等弁務官となり、フェザーンへの出向を命ぜられました。普通ではありえない人事なので、どこかの誰かの意図によって、私はフェザーンへ行くということを、先に申し上げておきます。また、私はまだ配偶者も子もおらず、祖父コンラッド・フォン・卿を後見人としており、もしも我が子爵領を欲しがる人々がいたなら、私の身柄はどのような見方であれ価値があるものです。簡単にまとめると、私の護衛任務は、これからさらに危険を伴うでしょう。ルッツ少佐にはご迷惑なことと存じますが、推薦の上で武官として傍に来ていただいたのは、貴方が優秀な軍人であると認められたからであり、この危険に耐え、ともに協力していただく為のことです。どうか、宜しくお願いいたします」
子爵夫人が軽くこうべを垂れると同時に、傍付きの侍女と、ヘルツ少佐までもが平民の自分に対して礼を取ったことに、ルッツは飛び上がらんばかりに驚くと同時に、自身の偏見を自覚しつつあった。
貴族、年若い女性の子爵夫人、そこに政治的な人事。
その相手の才覚を、そしてその彼女の周囲の人々を、自分はどのように予想していたのだろうか。
もしもこれが壮年の男性であったなら。平民階級の者であったなら。何者かの思惑はあれど、皇帝陛下の恩賞を戴く相手を、自分はどう扱っただろうか。
ルッツは、勢いよく頭を下げる。
「小官は軍人であり、軍務に危険が伴うのは当然のことと認識しております。我が身を優秀な軍人であるとお褒め頂き、大任を預けて下さったこと、遅まきながら理解致しました。任を拝命した以上、子爵夫人の安全に寄与するよう努めて参ります」
「ありがとうございます、ルッツ少佐。それにヘルツ少佐、シュトルツァー軍曹、ゼルマも、いつもありがとうございます。これからも、よろしく頼みますね」
姿勢を戻したヘルツとゼルマは穏やかに頷き、運転席のカイルは振り返らぬまま片手を上げて応じている。
信頼はすぐに育たぬかもしれないが、その萌芽は生まれた。
コルネリアス・ルッツ少佐は、自身の置かれた場所を、そうして受け入れたのだった。