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Act02-25


 地上車の向かう先、帝都オーディン中心市街に佇む国立劇場は煌々とした輝きを放っていた。
 ルドルフ大帝によって良きものと認められ、貴族が嗜むべきとされた芸術文化が存在する銀河帝国においては、教養として文化的感性を磨くことが奨励されている。社交と言えば邸宅での宴席に次いで、芸術鑑賞が多いほどである。話題の絵画や演目に直接触れ、豊かな感想をお茶を飲みながら話すことは、物理体験至上主義のルドルフ大帝時代以来の『貴族らしい』過ごし方なのだった。
 空が次第に暮れなずむ。劇場の壮麗な車寄せには来場客が次々と集い、そのうちの一人であるは不慣れな踵の高い靴に気を配りつつ、ヘルツ少佐の手を借りて車を降り立った。
 劇場の扉で同行の侍女役ゼルマが名を告げれば、既に到着していた待ち合わせ相手の座るソファまで案内される。
 は、美しいものは素直に美しいと思い、素晴らしい音楽を聴いて感嘆するのも嫌いではなかったが、政務やグルメ事業に忙しく限られた時間の中で自発的に芸術的感性を深めることは潔く諦めていた。ただし、機会が与えられれば亡きの父母らを慮って芸術鑑賞することにしており、そのほとんどが特定の貴族女性からの招待によって成立していた。
 近づくこちらの姿に気付いた彼女は、ソファから艶やかな視線を寄越し、席に着いたに挨拶を告げる。
 丁寧に巻いた黒髪には細い銀のモールと輝石を編み込み、貴族風にいえば前衛芸術めいた珍しい形の深紅のドレスに身を包んだ姿は生気と主張に溢れており、先進的な印象をもたらしていた。
 彼女の名を、マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ男爵夫人と云う。
「いらっしゃい、嬢。政務も宜しいけれど、このような日でもなければ、貴女、歌劇など親しまないでしょう。今宵はゆっくりとお過ごしになって?」
 歌劇の始まる一時間前に到着したであったが、本来であればもっと早く来場し、余裕を持って過ごすべきだ、と本日の招待者であるマグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ男爵夫人が扇を広げながら笑顔の圧力をかけてくる。
「慌ただしくて申し訳ありません。なにぶん、フェザーンへの出立の日も近くて。本日はお招きありがとうございます。マグダレーナ様と一緒に観劇ができて嬉しいです」
「まあ、小鳥のように可愛げのあること。忙しい中でお付き合い頂けて私も光栄ですわ、薔薇の子爵夫人。そうそう、式典の折には声をかけそびれてしまったけれど、この度はおめでとう、と申し上げるべきかしら。毎年、億劫な宮殿伺いも見知ったお顔が壇上に上がると新鮮に思えたものです」
 マグダレーナも貴族女性としては珍しく自身が爵位を持っているので、新無憂宮における子爵夫人の晴れ舞台に、彼女も広間の端で参列していたという。
「男爵夫人の私では貴女のお姿はお星さまのように遠い場所にあったから、お祝いが遅くなってしまってごめんなさいね」
「お祝いのお言葉、ありがとうございます。素敵な二つ名まで頂いてしまいました。重ねて御礼申し上げます」
 薔薇の名を冠するのも不相応な気がします、と肩を竦める仕草の――をよそに、ヴェストパーレ男爵夫人は瞳を輝かせ、薔薇に合わせた衣装や宝飾を仕立ててはどうかと勧めてくる。
「よろしければ、よい服飾家や画家も紹介しますわ。陛下に賜った薔薇を飾って肖像画でも描いてもらえば、素敵な恋愛にも事欠かないんじゃないかしら」
「その形だと、恋愛じゃなくて政略の構図になってしまいますよ」
 渋面では首を振る。
 貴族らしい生き方というものに則れば、十六歳の成人を控える子爵夫人には婚約者なるものが存在してしかるべきなのである。
 父母を亡くし、当主直系は祖父と自分のみという子爵家には、確かに新たな家族が必要かもしれないとにも政治的に理解できるが、それが自分の伴侶、配偶者なのだから心情的にはちょっと待ってくれ、と言いたくもなるのである。先に考えるべきは帝国全土を揺らす政争ではないか、というお題目を掲げ、は身近な難題に対し見ないふりをすることにした。
「あら、お年頃らしい夢がなくてご同情申し上げるわ。愛にまつわる情念は生きる活力になると思いますのに」
 さすが七人の愛人を囲うと言われる男爵夫人は気力に満ち溢れていた。ちなみに、曜日ごとに愛人を取り換えるという話は悪意ある噂なのかと過去に問うたところ、事実よ、と軽く述べる男爵夫人は、芸術とは破廉恥なものですから、などと嘯いて面白がっている始末である。
 母ヨハンナの詩歌の友、そして父カールにとっては絵画という技芸で繋がっていた女性は、幼くして爵位を継いだのことを折に触れて気遣ってくれていた。自身も若くして男爵位を女性ながら継承し、同様の境遇となった・フォン・子爵夫人への憐憫ゆえのお節介だと、彼女は個人的な茶会の招待の時に教えてくれた。ヴェストパーレ男爵夫人の物言いは直截で、政治的なしがらみもなく、なにより今後も身分の安泰が保障されている(未来知識です)ため、にとっては気楽に話せる数少ない相手となった。
 が爵位を継いで間もない頃、オーディンへ赴くと当初は詩歌や絵画の会に勧誘してくれていた男爵夫人も、政務に忙しいのは勿論、商売や実利への関心が強く、軍学を修めるような・フォン・子爵夫人にはヨハンナとカールから受け継ぐ芸術的素養が乏しいのだと知ってからは、彼女自身の審美眼に適ったものを推薦する程度に留めてくれていた。注目の詩人はこれ、人気の絵画や器はあの工房、流行りのドレスはこの形、と要点を語ってくれるだけでも、帝国貴族のサロンに仕事で出入りするには頼もしい知識であった。そして芸術分野の中で唯一、音楽だけは多忙な子爵夫人の関心の範疇にまだしも留まっており、それを知るヴェストパーレ男爵夫人は歌劇や音楽会にを定期的に誘ってくれるのであった。
 今夜の招待は常になく急な手紙でもたらされたが、日頃からの感謝と、しばしの別れの挨拶がてら、も時間を作ってヴェストパーレ男爵夫人に会いに来たのだった。
「高嶺の花も大変ですわね。さあ、開演前に少しワインでもご一緒してくださらない? 冷たいものが飲みたい気分なの」
 それに伝えたいこともあるし、とはマグダレーナに誘われ、歌劇場内のサロンへと向かった。
 サロンの優美なテーブルセットの多くで貴族らが歓談に耽っていたが、各空間は適度に離されており隣に会話の内容が聞こえることはないよう配慮されていた。
 より幾分か年上の男爵夫人は白ワインを、は林檎ジュースの炭酸水割りを頼み、乾杯をする。
子爵夫人の益々の栄光と、心身の健康と、フェザーンでの良き出会いを祈って」
「ヴェストパーレ男爵夫人の、変わらぬご活躍と楽しい芸術的生活の充実を願います」
 幾つかの世間話を交換しつつ、にもヴェストパーレ男爵夫人に伝えたいことがあったので合間に切り出すことにした。
 用件は、皇帝フリードリヒ四世から有難くも賜った薔薇を迎えるための庭園にまつわることであった。
「陛下の薔薇園の建設にあたっての助言を戴きたいのです。私はあまり文化的なことには造詣が深くないですし、子爵領は辺境ですから、洗練された庭園を造る技術の蓄積もさほどありません。宮殿から予算とともに庭園技師が来て下さるのですが、建築物の設計などはこちらで準備する必要があります。そこで、各方面の芸術家に縁がおありのヴェストパーレ男爵夫人であれば、良いお考えを示して頂けると思ったんです」
「陛下の薔薇園の造作を考えよというお話なのね、既に名のある方ではなく、私の知己の芸術家を推薦してもよいと?」
「左様です。依頼のための費用などは相談となりますが、我が辺境星に滞在する時間も求められます。それで、お仕事を受けて下さる方がそもそもお見えでしょうか?」
「勿論おりますとも。ええ、陛下の薔薇を飾る建物なのよ、皆が喜んで受ける仕事よ。歴史に残る芸術的営為ですもの。なんて素晴らしいお話なの」
 ヴェストパーレ男爵夫人の頬は、酒のせいではなく紅潮していた。
 はと言えば、優れた芸術家がそもそも辺境へ寄り付くかを心配していたのだが、皇帝の薔薇の威力は芸術的にも凄まじいことをマグダレーナの興奮によって学んだのだった。
 若き男爵夫人のいう知己の芸術家たちは帝都ではいまだ日の目を見ていない者も多く、後援者の仕事の紹介としてこれ以上はないという程の話だということが、貴族の名誉や帝国の芸術の中心といった事柄に興味の薄いには全く理解できていなかった。
(喜んで受けてもらえそうで、よかったよかった)
 薔薇を食べられるように仕立てるミッションも抱えているとしては、薔薇の温室や庭園に熱意をもってあたってくれる人材が確保できそうで安堵する他ない。
「どういう風に観覧できる庭園がいいかしら、子爵家らしい佇まいも必要ですから、事前に領地へ向かって雰囲気を見てもらってからの方が良いわね」
「仰る通り、当家は武門の家なので、あまり華美すぎず、素朴に薔薇の美しさが伝わるように、誰でも気安くみて回れるような建物が嬉しいです」
「質素に気品のある薔薇の庭園……」
 心と意識が既に想像の薔薇園へ飛びかけている男爵夫人であったが、笑顔のまま静止する年下の子爵夫人に気付き、扇子をゆっくりと開きひらひらと振ると、余裕を取り戻すことに成功したようだった。
「どういった分野の方がご紹介できそうか、幾つかのポートレートと紹介状を差し上げますね」
 丁寧に礼を述べて、としては自分の用件は済んだと胸を撫でおろしたところで、マグダレーナは壁の時計を見上げて焦った様子を見せた。
「そろそろお時間でしたか? 席に参りましょうか」
「いいえ、そうではないの。貴女のお話があまりに嬉しいものだったから、私の方から伝えないといけないことを、後伸ばしにしてしまったの」
 腰を浮かせかけたは、再度、マグダレーナに向き直った。
 物事を直截に表現することを厭わないヴェストパーレ男爵夫人にしては珍しく、それは婉曲な言葉で伝えられた。
「今日のお席はね、貴賓席なのよ」
 舞台からは距離があるものの、壁で区切られた空間には観劇用の席のほか、食事や歓談もできるようテーブルとソファが据えられているバルコニー型の特等席のことである。
 本日のチケットはヴェストパーレ男爵夫人からのご招待であったので、は返礼に気を遣う必要があると思いつつ、礼を伝えた。
「左様でしたか、素晴らしいお席で観劇をご一緒できて有難い気持ちです」
「それでね、その席には私の友人も同席する予定なの。先に伝えていなくて申し訳ないけれど」
「いいえ、そんな。ご招待頂いた身なのでお気遣いなく。マグダレーナ様の御友人の方は、私も知己の方ですか?」
 これまでのマグダレーナとの交友で、は幾人かの芸術家や貴族女性と席を共にしたこともある。その内の誰かだろうかとは頭を捻った。
「ええ、たぶん貴女も名前はご存知だけれど、直接お会いするのは初めての筈よ。彼女もそう言っていたから」
 見間違いでなければ、相対するマグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ男爵夫人の黒い瞳には、心配するかのような光があった。
 彼女というからには女性であると見当はつくが、まったく思い当たる節のないは、首を傾げてマグダレーナが答をくれるよう問い掛けた。
「差支えなければ、ご一緒するのがどなたなのか教えて頂けますか、マグダレーナ様」
「アンネローゼ・フォン・グリューネワルト伯爵夫人よ」
(不意打ちすぎるでしょ)
 は額を抑えたくなる気持ちを抑え、象牙の扇をぱらぱらと開いて持ち上げて顔の半分を隠す。扇会話法でいえば、思案中、といったところだ。
「……驚きました。そういえば、マグダレーナ様はグリューネワルト伯爵夫人と親交がおありでしたものね」
 けれど、どうして今夜一緒に観劇することになったのか。どのような作為によるものかを、立場が複雑になりつつあるとしては考えざるをえなかった。
 子爵夫人はブラウンシュヴァイク公爵家との親交上、グリューネワルト伯爵夫人との同席が難しいという判断がヴェストパーレ男爵夫人にはあったはずだった。
 皇孫エリザベートを権力の源に据えたいブラウンシュヴァイク公爵家は、権力を奪い合う可能性のある皇帝の寵姫に子が宿るのを厭う立場なので、グリューネワルト伯爵夫人との交流には微妙な政治関係が発生しうる。ゆえに、それを暗黙の了解とするもマグダレーナも、互いにグリューネワルト伯爵夫人の話題をあえて避けていた節がある。
「実はつい先日、グリューネワルト伯爵夫人からお願いされたの、・フォン・子爵夫人とお話したいと。貴女を公に自分の立場でお招きするのが憚られるから、取り持ってくれないかって。なぜと思うでしょう? 何をお話したいことがあるのかしらって。私も勿論、理由をお伺いしたのだけれど、彼女、自分のわがままだとしか仰らないの。とはいっても政治的には全く欲のない方だし、貴女を害するようなことはないと、私も信じたから今日の席を設けることにしたの。不意打ちの形になってしまって本当にごめんなさい」
 平身低頭の勢いで年上の男爵夫人に謝られては、も怒りようがない。それよりも、としては幾つか大事なキーワードが心に引っかかった。
「グリューネワルト伯爵夫人が自ら望まれて、私とお話したいと仰ったと?」
「その通りよ。私がお二人を引き合わせる理由がないもの。少しだけ楽しそうと思ったけれど、お二人とも、私とは違ってお立場もおありだし、何事かがあってもお互いに気分がよくないもの」
 マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ男爵夫人は芸術を愛する者ではあるが、政治や軍事の動きに疎いわけではなく、逆にそれらに対し鋭敏な感覚の持ち主であるので、厄介ごとの種を自ら作ることはないという主張には、も嘘がないと思えた。
「どういうお話なのか、嬢には心当たりがあって? 席を作った私が言うのも申し訳ないけれど、心配なのよ」
 心当たりがないといえば嘘になる。
 ただし、それはアンネローゼ・フォン・グリューネワルトとの関係上ではなく、彼女の弟にまつわる心当たりである。
(これ、バレてる?)
 時折、弟とその友キルヒアイスを呼び出して遊ぶ正体不明の貴族令嬢。
 ラインハルトが、数少ない姉との邂逅の折に話題にしていてもおかしくはないし、彼女が弟の安寧のために、彼の周辺に監視を付けていた可能性は、大いにある。
 それまではアンネローゼにとって、弟の生活に時たま現れる平民の恰好をして遊ぶ黒髪の少女は、単なる酔狂な貴族令嬢でしかなかっただろう。だが、過日の式典で大々的に宣伝され顔が売れた・フォン・子爵夫人が、その令嬢と同一人物であることにアンネローゼは間違いなく気付いたはずだった。リヒテンラーデ侯爵の手下扱い、皇帝陛下からの恩賞、ブラウンシュヴァイク公爵令嬢の友人、と何かと政治的に熱い立ち位置にいる相手に、危機感を覚えたとしても無理なからぬことである。
「……思い当たる節がないとはいえないのですが、グリューネワルト伯爵夫人がお話したい事柄が何かは全く見当がつきません」
「争いごと、という訳ではないのよね。場を設けたのは私ですから、何事かがありそうならご自身の判断で席を立って下さいな。あとは任せて頂戴」
 貴族的な感性でいえば、マグダレーナの申し出は破格であった。自らの立場を無下にしても構わないと、そう言ったのである。
「そんな、大層なことにはならないと思います……たぶん?」
 考えようによっては、友人の保護者に挨拶するだけなのだ。
 いつも弟君とその御友人にお世話になっております、と頭を下げるだけで済むといいな、とは腹をくくることにした。
 開幕の刻限が迫る中、はヴェストパーレ男爵夫人に伴われ、人目に付く前に貴賓室へ続く通路に控えて立った。
 しばらくすると、アンネローゼ・フォン・グリューネワルト伯爵夫人は、皇族専用という別の扉から護衛や侍女に囲まれ現れた。
 薄暗い歌劇場の廊下であっても、の目に彼女の輪郭はほのかに輝いて見えた。
 黄金を思わせる柔らかな髪に、緑輝石と真珠を組み合わせた髪飾りと、同色の玉石が白磁のごときデコルテを彩っている。グリューネワルトの号に相応しく、朝靄のかかる新緑色の装いも、皇帝の寵姫というには控えめな佇まいであった。人柄を表すよう静かに歩いてくる女性は、いまだ二十歳になろうかという若さなのだと、は『知っていた』。
 若々しさより落ち着きを感じる振舞いでもって、ラインハルトの姉であるグリューネワルト伯爵夫人はとヴェストパーレ男爵夫人の前にその身を包んでいたヴェールを侍女に渡しつつ言った。
「お待たせ致しました、ヴェストパーレ男爵夫人。本日は歌劇を共に見ることができて大変嬉しく思います」
 挨拶に応じるマグダレーナの口上を受け終わると、そちらは?という無言の誰何のごとき視線を向けてくるグリューネワルト伯爵夫人に、――子爵夫人は、淑女の礼を送る。
「はじめましてグリューネワルト伯爵夫人、子爵夫人でございます。今宵は歌劇をご一緒することになり、光栄です」
 顔を上げると、真正面からラインハルトによく似た蒼氷色の瞳が、こちらを見つめている。
「グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼです。どうぞよろしくお願いします。先日の式典では、遠くから子爵夫人をお見掛けしましたが、お会いするのは初めてですね。この度の叙勲、誠におめでとうございます。ご領地のことなど、お話をお聞かせ下さると嬉しいです」
「ありがとうございます。伯爵夫人のご歓心に見合うお話ができるか心許ない気持ちですが、我が領地のこととあれば、何でもお聞きください」
「まあ、お互いに知り合う時間はまだたっぷりありますし、そろそろ開幕ですから、舞台を見ながら皆で楽しく語らいましょうよ」
 間を取り持つように、ヴェストパーレ男爵夫人が開場時間であることを理由に、背をおして貴賓室へと三人は入っていった。


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