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Act02-21



 黒真珠の間に流れる音楽は、ゆるやかに打ち寄せる波のような曲調であった。煌めく調べが酒と会話の隙間で弾け、優美な衣装に内心を押し隠す貴族らが踊る。
 はディートハルトとともに、三拍子を刻む円舞曲に身を投じた。
 ディートハルトは武骨ではあるが伯爵家の当主であり、ダンスの足捌きも堂に入ったものである。対するも、子爵夫人の身分として不足なく踊ることができている。
 しかしながら、は思案に気を取られ、ダンスにはさっぱり身が入らなかった。
 近しい距離での会話もダンスという嗜みの一環といわれるが、ディートハルトは上の空のパートナーを咎めたりはせず無難に相手を務めた。これまで幾度か共に踊ったことがあり、思考の海から出てこない黒髪の少女を緩やかにリードする程度には互いに馴染みがあったのである。一曲を終える頃、彼は短く問うた。
「まだ踊るか?」
 は間近に聞こえた良い声に、朽葉色の髪を持つ青年を仰いで、慌てて応える。
「いえ、すみません、少し考え事をしていまして。踊りはもう結構です」
 呆れるでも怒るでもなく軽く首肯したディートハルトは、舞踏の輪の外へ暗緑色の瞳を向けつつ告げる。
「ヴィーゼが待っている」
「ユリウス様が?」
 促されたが視線をやると、藍色の礼服を颯爽と着こなすユリウス・フォン・ヴィーゼが微笑みと共に軽く手を挙げた。
 踊りの場から退き、ディートハルトと並んでユリウスの元へ進むと、貴公子然とした姿が眩しい薄金の髪の持ち主は、軽く礼をして踊りませんか、と言った。
「今宵の子爵夫人の脳内は忙しそうだから、辞めておいた方がいい」
「ああ、見ていましたらはずっと宙を眺めていましたね。ミュッケンベルガー伯爵の背後に何がいるのか、僕も気になっていましたよ」
 二人の軽口に、は自然と顔が綻んだ。
 子爵家で顔を合わせる機会も多かった二人は、がそうであったように、この五年間で互いに交友を深めていた。幼年学校から士官学校、そして統帥本部へと直進した軍人家系のディートハルトと、財閥継嗣としてフェザーン商科大学へ外遊するユリウスは、本来であればあまり交わらない立場であった。しかし、・フォン・が定期的に催す内々の食事会などで集まるうちに面識を得て、彼らはある程度、友好的な関係を築いたようである。
「ディートハルト様には大変失礼致しました。無事に踊り終えたのは、貴方のお陰です。ユリウス様、今日は踊っても足を踏む危険性が高いので、またの機会に致しましょう」
「残念です。足を踏まれても気にはしませんが、貴女が心から楽しめる時に改めてダンスを申し込みましょう。それにしても……」
 居住まいを正したユリウスは、胸元に右手を添えて軽く叩頭し、礼を取る。
「我が銀河帝国において名領主として陛下より名を呼ばれ、宮廷で薔薇まで賜った女性は、貴女が初めてでしょう。此度のこと、心よりお慶び申し上げます、子爵夫人」
「ありがとうございます。お祝いのお言葉、大変嬉しく思います、ユリウス様」
 畏まった応答は仰々しくもあるが、先ほどのミュッケンベルガー伯爵家の二人と同じく、公の場でこういった会話を交わすことも帝国貴族たる互いにとって必要な儀式のひとつなのだろうと、子爵夫人になったは思うのだった。
 そう、・フォン・子爵夫人であり、ユリウスは伯爵家の後継、そしてディートハルトは軍人であり伯爵家の当主である。
 今回の褒賞――国務尚書リヒテンラーデ侯爵の思惑と、フェザーンの暗躍を感じるサイオキシン麻薬取締、そしてローバッハ伯爵家と子爵家の対立が、の知る未来の皇帝崩御から始まる内戦へどのように繋がっていき、またユリウスやディートハルトがどのように関わるのか。
 これまで無邪気に続けていた交友関係に、政治的な波紋が及ぶ不安には駆られる。
は、まだまだ考え事をする時間が足りない様子だね?」
 ユリウスは周囲を憚るようの耳元へ顔を寄せ、呟いてみせた。
「本音では厄介なことになった、と君のことだから思っているでしょう?」
 その通りですと元気に返事をする訳にもいかず、が横目でユリウスを見返すと、若きヴィーゼ伯爵家の貴公子は小声で紳士的な申し出をした。
「手札を表にする順番は、われわれ貴族の身にあっては常に慎重になるべきだけれど、どうか貴女の助けになる喜びを分け与えてほしいものです」
 とユリウス、ディートハルトの三人が普段から交流があることは、銀河帝国の貴族社会では公然の事実である。
 ここにメルカッツ男爵令嬢とブラウンシュヴァイク公爵令嬢エリザベートも加わった異例の五人組の親交は、皇孫エリザベートを囲む輪として貴族らに認識されることが多かったが、実際の処、交流の要になったのが黒髪の少女であることは、当の本人を除いた四人の共通理解であった。
 とはいえ、彼らがブラウンシュヴァイク公爵家と険悪な間柄ではないこともまた事実であった。国務省からの出向が公然となった時点で、今回の表彰にリヒテンラーデ侯爵の関与が存在することもまた明白であると、貴族であれば誰もが感じるものだった。ヴィーゼ伯爵家の継嗣であるユリウスとしても、子爵家に何があったのか、裏取りが必要と考えても不思議ではない出来事であり、それでもなお友好的な関係を継続したいと言ってくれている。
 姿勢を戻し、あえてであろう明朗な声音でユリウスが語る。
「そうそう、貴女にフェザーン土産があるのですよ、先日お持ちできなかったので、よろしければお渡しする時間を頂けますか? 紳士淑女が夜分に二人というのも憚りますので、いかがでしょう、ミュッケンベルガー伯爵もご一緒に? 伯爵には当地の酒を手に入れてきましたよ。それに、後日改めて五人での祝いの席を設けたいと思いますが、今夜は土産話も含めて、ゆっくりと三人で乾杯でもしましょう」
 ユリウスの台詞は、些か唐突ではあった。
 だが、自身も周囲の好奇心に満ちた眼光が恐ろしく、帰る口実ができるのも有り難くもある。また、最低限ミュッケンベルガー伯爵家が持っているのと同程度の情報はユリウスにも渡しておきたかった。
 ディートハルトを見上げてみると、子爵夫人が望むならば、と大柄な青年は言葉少なに意思を表明した。
 は、ユリウスの誘いに飛び乗ることにした。
「商都フェザーンのお土産ですか、どんなものか楽しみです。私もそろそろお暇しようと思っていたところなので、それでは当家で軽く食事でもしながら皆でお話しませんか」
 最も年若く女性でもある・フォン・子爵夫人は一応これでも箱入り娘でもあるので、夜に男性とともにいられる場所など自分の家か、知己の令嬢の行動範囲と相場が決まっており、二人は否応なく頷いている。
 終わりのまだ見えない宴に別れを告げ、三人は新無憂宮を揃って後にすることとなった。
 帝都オーディンの陰影を縫って、子爵邸に各自の地上車が滑り込む。
 各家の護衛らが目礼を交わす中、達は遅い夕食を共に過ごした。
 手軽にという要望通り、旬野菜を使ったテリーヌ、炙ったマグロ(もちろん子爵領首都星ブラウ産)と緑豆のペーストと柑橘添え、肉料理は香辛料を含んだ肉団子の根菜スープ仕立てと、遅い時間に客人を急遽連れて帰った主人に対し、厨房の努力が光る献立であった。
「今日も変わらず、貴女の家の食事は美味しいですね」
「ありがとうございます、どうぞ沢山召し上がってください」
 黙々と平らげているディートハルトの料理の分量はの倍近く、ユリウスの肉は小さく野菜は豊富に、と各自の好みが反映されている。
へのお土産は、フェザーンの向かい側のお国で食べられているブイヤ・ベースとスコッチブロスというスープの保存食です。前に欲しいと仰っていたので」
 正確には、同盟領の味が知りたいと言ったが、レトルトであれ用意してもらえた好意には満面の笑みを向けた。
「わあ、嬉しいです。まだ食べたことないです、こちらの商品。ありがとうございます」
「僕も食べましたが、悪くありませんでしたよ」
 侍従として控えるロルフから受け渡されたパッケージをじっくり観察したいが、また後程になさってください、という至極真っ当な美青年侍従の忠告には素直に従った。
 一応、同盟領の物品は銀河帝国において禁制品となっている。一応、というのはフェザーン資本の小売りが値札をつけて売ると、品物は同盟領製造品ではなくなるのである。
「ミュッケンベルガー伯爵には、こちらのバーボンというトウモロコシや麦を原料としたウィスキーです。味見はしていませんが、かの領で銘酒であるとか」
「礼を言う。よければ今から……と思ったが、屋敷へ戻ったら頂こう」
 土産の酒をその場であけて振舞おうとした軍人気質のディートハルトであるが、傍で瞳を輝かせる黒髪の少女を見て前言を撤回する。珍しいから自分も飲みたいと言い出すに違いない、と彼は察したのである。
 食べ物を受け渡すというのは、貴族としてはかなり親しい部類に入るが、を含めた三人がここに至るまでの付き合いも既に長い間柄であった。
 三年前に子爵家がオーディンにて屋敷を構えて以降、エリザベートを含む異例の交友関係となった五人組の集合場所はもっぱら子爵家であったので、彼らの往来は日常茶飯となっていた。
 が子爵家の当主であって祖父コンラッドは辺境領に居ることが多く、オーディンの屋敷では全員が気侭に過ごせることが子爵邸に集まる理由として大きかったが、付随する諸事情もあった。
 ブラウンシュヴァイク公爵家は皇女アマーリエの目が光っており、各自の家そのものが門閥勢力に属するのではないかと余人の好奇を呼びかねない。ミュッケンベルガー伯爵家は、ディートハルトが爵位を得たばかりで、分家筋からの主家入りということで機微が求められることに加え、本人が士官学校の寮生活のため普段は屋敷に滞在していない。ヴィーゼ伯爵家ではユリウスと義母との緊張関係があり、メルカッツ男爵家は家格や経済状況から一人であればともかく、ブラウンシュヴァイク公爵令嬢らをお迎えするには様々な苦労がしのばれる。よって、エリザベートが子爵家を訪問し、そのついでに他のメンバーが集まっているという体裁が、すべてにおいて都合がよかったのである。負担が偏りすぎないようにという配慮はありつつも、としてはみんなでご飯食べる程度は何ともないと思っていたので、集合場所が子爵家であることは自分が気を遣わない分、有難いとまで思っていた。
 そもそも彼らの交友も、子爵家へ遊びに来ていたエリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵令嬢の我儘との無知が発端でもあった。
 当時はまだオーディンに屋敷はなく、エリザベートは遠路はるばる辺境子爵領へ足を運んでいた頃である。子爵家が皇孫エリザベートを迎えるということで、様々な折衝が両家で交わされ子爵家の執事クラウスらが奔走していたが、エリザベートは勿論、もそれが招待にまつわる苦労というものだと何も思わず受け流していた。
「のう、。いつも二人で遊ぶだけでは飽きる。誰か他にも呼びたい」
 綺羅とした瞳で幼くも天下のご令嬢に強請られたは、悩みに唸った。エリザベートには門閥の取り巻きはいるが気安い友人がいないことは把握していたので、この場合に呼ぶとなれば、――の友人を指すのは簡単な帰結であった。子爵夫人として領地を預かるは、遊びより仕事の日々を送っており、周囲にいるのは政務や事業関係者ばかりであった。手紙や茶会で行き来のある狭い交友関係を開陳し、テレジア・フォン・メルカッツ、ディートハルト・フォン・ミュッケンベルガー、そしてユリウス・フォン・ヴィーゼしか、わざわざ辺境子爵領へ私的に呼べる相手はいないとエリザベートに説明した。実際のところ、『』としてラインハルトやキルヒアイスとの付き合いも継続していたが、表向きの立場である子爵夫人として呼び出せる範囲に彼らはいなかった。
、そなたは男と遊ぶのか?」
「え、遊ばないんですか、エリザベート様?」
「しかも年も上の者ばかり」
「二十歳を過ぎれば数歳なんて大した差ではありませんから」
「そうか、そのようなものか」
 銀河帝国における常識に疎いと、一般的な交友関係が何なのかあまり理解していないエリザベートは互いに顔を見合わせ、であれば皆で集まろう、ということになった。
 呼ばれた当人たち、そして周辺の大人達が大変困惑する中で、けれどもゴールデンバウム王朝の輝かしき血統の持ち主であるエリザベートの鶴の一声で五人は共に遊ぶため、次の季節には子爵領で初めて顔を合わせることとなった。この背景で、警備、接遇、経費や礼法や席次にまつわる諸問題を解決するため各家に仕える軍人、侍従侍女、執事らが腐心した経緯もあるのだが、言い出したエリザベートは勿論、彼女を乗せる形となった――も、こういう異例ずくめの集合体が何をもたらすのか、いまいち理解できていなかった。
 共通の話題も乏しく会話が成立するのかと危ぶまれた会合であったが、各人の得意分野を教えて過ごそうという・フォン・の発案により、意外にも和気藹々と過ごすことになった。
 ――は、もちろん料理の分野を選び、簡単なサンドイッチや弁当という概念を、卵を混ぜたりパンの耳を切り落としたりと差配しながら伝えた。料理など貴族子弟のするものではないと一部の侍女侍従からの意見もあったが、エリザベートがやりたいといえば皆が頷くという構図を利用し、彼女が好むジャムや具材を用意し、これは食べる当人が完成させるアレンジ料理なのだといってその気にさせ、五人でせっせとランチボックスを詰めてピクニックに出かけた。
 ユリウスは経済話として、皆の持ち物の素材や加工の手順、各領地の特産物の流通など身近な話題で関心を広げてみせた。ディートハルトは馬の扱いについて解説し、次には皆で実際に馬に乗るのもよいという話になった。テレジアは歴史好きの一部として、子爵家に所蔵された絵画の幾つかを取り上げて、時代背景や当時の流行を教えてくれた。そしてエリザベートといえば、実は大の音楽好きということで自らの歌声を披露し、合唱指南に乗り出した。
 手作りの菓子を食べ、銀河帝国の時事経済や歴史への造詣を深め、たまに乗馬を楽しみ、全員で合唱をお披露目するという、なんとも不思議な集まりが、時の流れと共に幾度か繰り返された。
 思えば、長閑な関係であり、これまで互いの身分や家柄を利用することもない付き合いであった。
 だが皆が貴族として家名を名乗り、ゴールデンバウム王朝末期へと突入するご時世である以上、政治的な思惑から永遠に無縁でいられるはずがないのだと、は思い知るのだった。
 三人は腹を満たすと談話室へと移り、各自がデザートと茶や軽めの酒を片手に本題へと相成った。
 食事中も表面上は和やかな近況報告をしつつも、普段よりも緊張感が漂っていたと感じるである。
 切り出したのは、ユリウスであった。
「それで、実際のところはどうなっているのですか? 貴女の助けになりたい気持ちに偽りはないのだけれど、情報がないと察するにも限界があります」
 ですよね、とは肯くしかない。しかしながら、自分も今朝までは能天気に、ちょっと陛下に挨拶しておうちに帰ろうなどと思っていたクチなのである。
「ユリウス様のお気遣いに感謝いたします。実のところ、自分自身も整理しきれていないので、もしかすると話に齟齬ができてしまうかもしれませんが、それも含めて一緒に考えて頂けるとありがたいです」
「それは勿論。が整理しきれていないということは、貴女が関与して作り出した状況ではないということですね。ふむ、ミュッケンベルガー伯爵はある程度はご存知の様子。そうなるとミュッケンベルガー上級大将閣下と、の祖父君の間でのお話があったと推測できますが、お二人が宮廷工作を宰相代理閣下へ働きかけるとはどうも考えられません。それに皇帝陛下まで薔薇を下賜されるなんて、別の思惑の存在も感じてはいるのです」
「陛下の薔薇については、気まぐれのような気もしますが……」
 知らずにうっかり陛下の薔薇を食べたいと呟いたら貰えたのだと述べると、二人は小さく噴出した。
 ディートハルトが気を取り直して言う。
「けれども陛下との接見は、件の薔薇園でということだろう。陛下が手引きされなければ、会うには至るまい」
「うーん、私は宮廷作法に疎いからよくわかりませんが、その後のリヒテンラーデ侯爵の話しぶりからするに、後宮入りのお誘いだったようです。薔薇を上げる、どこに飾るとの問答の意味がお二人にはわかります?」
 ユリウスとディートハルトは、後宮という単語が思いもよらぬという風に驚いてみせ、それから互いに顔を見合わせている。
「後宮へ、の解釈で間違いないと感じるけれど。それで、貴女はどう答えたのですか?」
「それがですね、知らぬうちに断っていたみたいです。もらった薔薇は執務室に飾ると答えたら、そういう意味なんですね?」
 ディートハルトは眉間に指先を当て、ユリウスは一瞬、天を仰いだ。
 話題に思い出して、は胸元を飾る紫の薔薇勲章を取り外し、ロルフへと預けた。恭しく両手で受け取った銀髪の青年は、速やかに下がっていく。あとは飾るなり押し花にするなり、良いように計らってくれるだろう。
 ユリウスが呟く。
「陛下はなぜ後宮へと誘ったのでしょうか。リヒテンラーデ侯爵の後押しがあったのでしょうか」
 鷲鼻の国務尚書はの伯父であるから、後宮に入れてフリードリヒ四世の妾妃として出世なり子を設ければ外戚になりおおせるのでは、とユリウスは思案する様子である。
「いえ、リヒテンラーデ侯爵も薔薇云々には驚いていましたから、あくまで後宮話は陛下の出来心……御心だと思うんです。そもそも、此度の廷臣としての推挙はリヒテンラーデ侯が発端なので、後宮入りと宮廷での褒賞の両方を彼が推したのでは矛盾します」
 は昼間の一連の風景を思い起こしてみる。
「陛下は、道楽だと仰っていました。とはいえ、陛下の口ぶりだと私が危ないことに首を突っ込んでいる風だったのが、気になると言えば気になる……」
「危ないこと?」
「まあ、あれも危ないことには違いないが」
 前者のユリウスの疑問に、ディートハルトが思案顔で応じ、が言葉を繋ぐ。
「我が子爵家は、お隣ローバッハ伯爵家とは縁続きではありますが、険悪な、いうなれば対立関係であることはご存知ですよね? 両親が亡くなったことと無関係ではないと、少なくとも祖父は確信している様子。私も……それについて確たる証拠はありませんが、祖父を信じています。なので、今回のリヒテンラーデ侯爵の推挙とフェザーンへの出向に応じる替わりに、祖父としてはあの家の力を削ぐことの協力を取り付けたようです」
 それが謀略の類でローバッハ伯爵家に仮に非がなかったにしても、の祖父コンラッドが覚悟を決めて『やる』というのだ。のちほどコンラッドに問い直しはするが、リヒテンラーデ侯爵の協力を得てローバッハ伯爵家を潰すというなら、は拒否する気はないのである。
 しかしながら、自分で説明しつつもは喋りすぎた、と思ってしまった。
 聡いユリウスは、やはり重要な部分に着目したようである。
「それにしても、リヒテンラーデ侯爵は子爵家を支援してローバッハ伯爵家を追い落とすことによる利益がないと、の祖父君の交渉は成立しませんよね」
「仮にも領主本人をフェザーンで小間使いにするのだから、その対価としての協力ではないのか?」
 ディートハルトはサイオキシン麻薬と捕虜(ローバッハ排除)の件を公平な取引とみたようだった。強いてあげるなら、リヒテンラーデ侯爵の利益は、麻薬流通の阻止と捕虜に関する不正をただすという国益と共にあると理解したのだろうが、老獪な国務尚書閣下の腹の内を読むには、ディートハルトの性質は公明正大に寄りすぎているのかもしれなかった。
 その点、ユリウスの方が裏を読むことが得意なようである。
「そうであれば、尚更です。リヒテンラーデ侯爵が子爵家の意向を汲むに足るほどの意義が、フェザーンへのお遣いに存在すると考える方が理解できますし、その侯爵の目的と、子爵家の望むローバッハ伯爵家の排除は同時に成立しうる。子爵家――この場合はコンラッド様でしょうか、貴女の祖父君は候のいう役目を引き受ければ、対立するローバッハ伯爵家への協力を見込めるとお考えになった。候の敵と、子爵家の敵が一致した、と考えるべきか」
 子爵家の敵はローバッハ伯爵家であるなら、候の敵は一体誰なのだ、とはユリウスは言わなかった。
「危ないですね。一体、フェザーンで何をしてほしいと頼まれたのです」
「ちょっと危ないことかもしれませんが、まあ大丈夫ですよ」
「ミュッケンベルガー伯爵はご存知なのに、僕には教えられないと?」
 心外だ、と悲しそうな表情をする青年に、は葛藤した。
 これ以上喋るとユリウスまで危険に引き込むことになりそうである。
「僕らの友誼はここまでなの? それとも、僕を疑って?」
 詰められたは、どうせディートハルトも既に知る事柄だからと白状することにした。
「わかりました、ユリウス様を疑っている訳ではないのです、単純に私の騒動に巻き込むのも、気が引けたのです。ディートハルト様は、お祖父様とグレゴールおじ様の巻き添えですが、これはどちらかといえば対ローバッハ伯爵家への協力をお願いした結果です。候に頼まれたのは、サイオキシン麻薬流通路の遮断です。フェザーン自治領府の協力つきで」
「なるほど」
 一瞬の沈黙。
 ユリウスは、余裕をたもつためであろう茶を口に運び、情報を反芻している。秒針が時計を半周した頃、彼はカップをソーサーへ戻す。
「それによって、リヒテンラーデ侯爵およびフェザーン自治領府が得る利益は、単純に治安などの問題ではないのでしょうね?」
「更なる利益が、候とフェザーンにあると?」
 ユリウスの若草色の瞳が、――を見据えている。ディートハルトはユリウスの言を検証するよう、腕組をして思案している。
 といえば、探るようなユリウスの視線に目が泳いでいた。
 子爵夫人としてのであれば、淑女の微笑みを顔面に固定していられたが、自分の屋敷で気安い相手と相対するとなると緊張が失われ、表情を保つのも難しかった。扇が手元にあればと後悔するが、ユリウスやディートハルトらとの会話に貴族アイテムが必要になるなど思いもしなかったである。
「その顔、はリヒテンラーデ侯爵の思惑の見当がついていますね? 何より、陛下が貴女の状況を危ないと判断するに足るような……そう、宮廷の勢力図に関係する大きな事柄がありそうだ」
「リヒテンラーデ候は、今回の件で帝国軍――強いてあげるなら、祖父グレゴールには協力的だ。真意は分からないが、候が帝国軍の、特に実戦指揮官級の武家貴族にも顔を繋ぎたいのだろうと、祖父とは話してはいるのだが」
 助け舟なのか、それとも深みに突っ込む泥船かディートハルトが言葉を挟む。
「それは、けれどもあくまで子爵家の都合に便乗した形でしょう。宰相が軍に恩を売りたいのであれば、幾らでもやりようがあります。いや、しかし恩を売る相手がミュッケンベルガー上級大将や君である方が都合がいい、ということかな?」
 焦燥に駆られ、はつとめて平静に声をあげる。
「これ以上は駄目ですよ、二人とも探らないでください」
 は、我知らず墓穴を掘っていた。
「これ以上、ですか」
 ――渋面を見て、ユリウスは良いことを思いついたという風に優しく微笑んだ。
「そうだ、貴女が教えてくれないから、僕は候のご事情を探ることにしよう」
 は、開いた口が塞がらなかった。
子爵家と貴女の状況を知らぬままでは、足を引っ張りかねないからね。独自に探ってからのご協力になりますが、よろしいですよね、子爵夫人」
「よろしくはないです」
 それはにとっては、まごうことなき脅迫である。
 苦虫をかみ潰した気分で、は唸る。ユリウスは、ある意味でのユリウスに対する友誼を全く疑っていないということだろう。自分の身の安全が脅迫材料になると確信しているのだから。
 しかし、ユリウスが前言撤回しないであろうこともまた、には疑いないことであった。五年間の交流は、その確信に足る根拠となりうるほどの親密さで満たされていた。
 への友誼の為に『政争』へ闇雲に突入して、ユリウスやヴィーゼ伯爵家に万が一のことがあったなら。
(そうなるくらいなら、完全に味方になってもらって協調路線で……あああ、どうしてこうなるの)
 しかも、同席するディートハルトも居る。
「念のため、お伺いしますが、ディートハルト様はこの先のお話を……」
「聞こう」
 潔い男、ディートハルトである。
「そう悩むこともあるまい、リヒテンラーデ候の思惑が読めれば我々にも利益があると思えばいい。ミュッケンベルガー伯爵家は、すでに子爵家に協力をすると、少なくとも俺も祖父も決めている。それに危ないとなれば、我が身を守る程度のことはできるさ」
「ミュッケンベルガー伯爵と僕も同意見です。知って、どうするかは我々自身が決めることなので、貴女は教えてくれるだけでよいのです」
 確かに、グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー上級大将は、リップシュタットの内乱で門閥貴族連合には与さず平和な余生を送ったとは知っている。
(ここでヒントを得て? とは考えすぎか。でも、確かに話しておいた方が内乱でうまく立ち回れるよね。早いか遅いかの違いだけなのか…それなら、早く知っている方がいいのかも)
 ゆかば諸共という言葉が、脳裏に浮かぶ。
 一体、自分たちはどこへ行くのだろうか。
 は脳内で告げるべき内容を纏め、二人の精悍な顔を眺める。
(何が私にとって大事か、ってことよね)
 ――は決心する。
「いずれ表に出ることだから申し上げますが、もしかすると首が飛ぶかもしれないお話なので、くれぐれも探ったりしないでください。そして、今から申し上げる事柄の真実性についての証拠はありませんが、私自身はこれを事実であると認識しています。リヒテンラーデ侯爵の思惑を導く前に、幾つかの情報を差し上げます。まず、ゴールデンバウムに連なる者が、ひとり増えます」
 ユリウスが、問い返した。
「陛下の寵姫グリューネワルト伯爵夫人に子が?」
 フリードリヒ四世陛下の子で、しかも男子となったら第二位皇位継承権の持ち主が誕生することになるが、は首を振る。
「いいえ、ルートヴィヒ皇太子殿下に、ご子息が生まれます」
「しかし、皇太子殿下は元より病弱だが健在でおられる。その赤子が生まれたとて、皇位継承権の大枠は動くまい」
 現在の皇位継承権第一位は皇太子ルートヴィヒである。その皇太子を差し置いて、その息子が帝位につくことなど普通は考えられないので、ディートハルトの意見はもっともであった。
 どういう表現をすべきか迷うが、そう、ゆかば諸共であるとは心の内で唱える。
「その、もしも、という話で聞いてほしいのですが、万が一、皇太子殿下が儚くなられた場合はどうなんでしょうね?」
 銀河帝国では不敬もいいところの発言であるが、万人が認める病弱な殿下の行く末について、二人は当然のごとく受け止めた。
「いわゆる、皇太子派はカストロプ公爵が中心ですが、皇太子を失えば公爵はそのまだ見ぬ皇孫を抱き込むでしょうね。皇太子妃の生家がブラウンシュヴァイク公爵家とリッテンハイム侯爵家に太刀打ちはできないでしょうから、その新たに生まれるかもしれない皇位継承者を公爵が庇護して……」
 ユリウスが言葉を紡ぐことで思い至ったのであろう、二人の視線が冷や汗をかいて座る黒髪の少女に集まる。
「貴女が今回の褒賞を受け、国務尚書閣下の元で動くことと、今この話があるということは、リヒテンラーデ侯爵が新たな皇孫の庇護者になろうと? では、侯爵閣下はカストロプ公爵を下そうと画策しているのか」
「はい、その通りです」
 ディートハルトもさらに思い至ったのだろう、険しい表情となっている。
「宮廷をはじめ国政の場で、国務尚書と財務尚書の方針が対立していることは明白だ。だが、リヒテンラーデ候が新たな皇位継承者を得ようとするならば、カストロプ公爵だけが目的だけではなく、最終的には帝位争いに参加することを意味する」
「はい、そうです」
「リヒテンラーデ候が貴女をフェザーンに送る背景に今の事情があるのでしたら、皇太子殿下の余命は決まっている、と」
 が相槌を打った後には、長考の沈黙が談話室を占拠した。
(まだ欠片もそういう話題がないところに、こんなこと言ったらすぐには信じられないよね。よく考えると、証拠もないし)
 は自身のぬるくなった茶をすすりながら、彼らの衝撃が落ち着くのを待った。
 顎に手をあて体格のよい彫像のごとく動かなかったディートハルトが、あえて感情を切り離そうとするよう、士官らしく淡々とした調子で口を開いた。
「真偽は一旦置こう。だがが語ったことが真実であるならば、帝位争いにおいてリヒテンラーデ候は劣勢といえる。リヒテンラーデ侯爵には両門閥のように、糾合する貴族たち――武力が乏しい。実際に対立して武力抗争になった場合はすぐに制圧されるだろう」
 軍人ディートハルトに、はつとめて静かな声で応じる。
「普通に考えたらそうなるのですが、逆にリヒテンラーデ侯爵が武力を確保すれば争える、ということになりませんか」
「現時点で、一門の大兵力を集められるブラウンシュヴァイク公爵家とリッテンハイム侯爵家と正面から戦える兵力を抱える貴族はいない」
「貴族では、いませんね」
「武門の貴族が全体で協力すればあるいは……いや、しかし両門閥とのしがらみで、大勢がリヒテンラーデ侯爵につくとは考え難い。両門閥と対立して、間違いなくリヒテンラーデ侯爵につくことができる軍人がどこにいる?」
 ディートハルトでさえ、これまでの、そしてこれからの帝国貴族の勢力図を鑑みれば両門閥と敵対するなど考えたくもない様相である。
 しかし、仮定の話ですから、とユリウスが前置きをして繋いだ。
「どちらかといえば、両門閥に対立して得をする立場といえば、僕らのような新興貴族でしょうね。しかし新興なだけに兵力も軍資金も些か心もとない」
「権力のない人は、権力を奪取する動機をもちえます。そして、門閥貴族らの勢力をしのぐ軍事力は、現に存在しています。銀河帝国軍です」
 統帥本部勤務のディートハルトには違和感があるのだろう、すぐに疑義を呈した。
「ありえない。軍内にも多くの門閥貴族派がいる」
「そうですよね、でも数は平民や下級貴族よりは少ないはずです。帝国軍の、平民派というべき人々をリヒテンラーデ侯爵は抱き込むことになるはずです」
は確信がある口ぶりだけれど、仮に平民派が帝国軍で台頭するとして、誰が軍内でその旗印になると?」
 困ったことに、未来の旗印たるラインハルトはいまだ幼年学校を卒業したばかりで、現時点では頭角を現していない。
「えーっと、現時点で誰というのは決まっていない、ということで。仮定の話です。けれど、リヒテンラーデ侯爵が門閥勢力に対抗するためには、武力を揃える必要があり、それに協力できるのは貴族の軍人ではない、という消去法で導いた結果です」
「そもそも、帝位争いがおこるなら現陛下が崩御なさるということ。その時には、いま目に見えている両門閥だけが皇位継承者を抱えるわけではなく、リヒテンラーデ侯爵が組織する第三勢力が現れるということ、というのが要点ですね。現実的に誰が協力し、可能か不可能かは、この際はおいておきましょう」
 第三勢力。
 ある種、物騒ともいえる単語を、ユリウスとディートハルトは両者とも吟味している。
「あの、現時点でお話するには突拍子もないことだと思っています」
 ディートハルトが、眉根を寄せた。
「現時点で、というが、では何年以内にいまの話が起こる想定を、嬢はしているのだ」
 は、また失言したと気付く。
 ディートハルトは職業軍人として、いつまでに、何を、といった行動指針には敏感なのだった。
(いや、でももうここまで喋ったら残りの情報なんて、おまけかな)
 は現在十五歳であり、リップシュタット戦役は二十一歳に起こる『予定』である。
 フリードリヒ四世の崩御は五年後、そのころにはラインハルトの第三勢力も表舞台に登場している。
 諦めの境地で、は告げる。
「おおよそ、五年程度の見込みです」
「五年。思った以上に、短い」
「ええ、その、人の寿命も関わるので、もっと先の可能性もありますが、この場合は最短期間で仮定して準備する方が安心だと考えたんです」
 うっかりフリードリヒ四世の余命を予言しそうになったことに気付き、は言い直した。
「もしや、、貴女自身がその第三勢力とやらを担おうと?」
 ユリウスの爆弾発言に、は内心で震えあがって即座に否定する。それはリヒテンラーデ侯爵との綿密な協力関係を指し、一旦はラインハルトの軍閥と手を結んだとしても、最終的には一族郎党皆殺しの巻き添えになるとしか思えないである。
「いえいえ、滅相もない。そんな命知らずな真似をしたいとは思っておりませんよ」
「けれど、この仮定が現実のものとなったなら、僕らは、いずれ選ばなければならないではありませんか?」
 誰に与するかを。
 静かに、けれども重い一言をユリウスは放った。


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