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Act02-17


 これが皇帝陛下のおわす宮殿か、とは観光気分で侍従の後をついて回っていた。
 圧倒的お値段の主張を憚らない、希少な石が敷き詰められた床や金銀宝玉で象られた黄金樹の彫刻であるとか、精緻を極める幾何学模様の星印が散りばめられた天井など、つまりはこの絢爛な装飾類が銀河帝国至上主義、皇帝陛下万歳、という意味を知らしめる空間であった。
 帝国の中心たる宮殿で一室を与えられる国務尚書兼宰相代理リヒテンラーデ侯爵閣下は、現皇帝フリードリヒ四世陛下の治世を支える君臣の鑑(または悪意をもって腰巾着)と世には云われている。代理であるのは、かねて皇族が宰相を務めたことから臣下は代理をもって任を務めるという慣例のためで、薔薇と少女と怠惰に熱意を傾けて政務に無関心な皇帝フリードリヒ四世を思えば、リヒテンラーデ侯爵の宰相代理というお役目は実質的に銀河帝国を動かしているといって過言ない立場であった。 
(でも可哀そうな立場でもあるんだよね、リヒテンラーデ伯父さん)
 は超次元的アドバンテージによって、ゴールデンバウム王朝もいまや末期であることを知り得ている。
 現時点で権力の一端を掌握したかにみえるクラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵は、ゴールデンバウム王朝という沈みゆく泥船を一生懸命漕いでいるにすぎないのではないか、という不憫な気持ちがの胸によぎるのだった。
 リヒテンラーデ侯の取り仕切る国務省は、怠惰な財務省や諸侯の責任を追及して税収を上げ、ぐだぐだの司法省に鞭打って貴族階級の不正を適度に取締り、平民や農奴階級の不満が過度に暴発しないように腐心している様子である。また、諸侯らの対立が深刻化しないよう調整し、内乱の兆しあれば軍務省や内務省に根回しをして憂いの芽を摘み取り、政治に興味のない皇帝の権威を必死に支えているかのように見える。それが彼自身の権益の源であるとはいえ、実際に会話した感じではリヒテンラーデ侯爵は本気でゴールデンバウム王朝への奉仕を厭っていないようなのである。
(じゃなきゃ、やらないよなあ罰ゲーム)
 リヒテンラーデ侯爵は十年以上の歳月をも宰相職を預かってなお失脚しないだけの政治感覚を持ち合わせており、現状の貴族勢力図を鑑みても、そしての未来知識からもそれは彼の死までは不動のものである。ある意味、武力を伴わない政治劇役者としては超一流、スーパースターに等しい。
 だが、リヒテンラーデ侯爵の真面目さは王朝護持のためであって、その勤勉さがラインハルトとの協調による軍閥の台頭と肥大する門閥貴族権力の排除を経て、いずれ彼自身の一族郎党皆殺しをもたらす。なにしろ、打倒ゴールデンバウム、地獄に落ちろ皇帝フリードリヒ四世、という目標を掲げる未来の皇帝ラインハルトとは利益と目標が盛大に反目しているのだから。そして侯爵の有能さゆえに、ラインハルトの囲う軍閥にとって、恰好のラスボス扱いをされる羽目になる。
(真面目に帝国にご奉仕した結末が『アレ』だもんね)
 もしもリヒテンラーデ侯爵がゴールデンバウム王朝至上主義でなかったなら、後のローエングラム王朝に彼の席がありえただろうか、という問いが浮かびかけたところで、ひたすら背を追いかけていた侍従が立ち止まり、ひとつの扉を示して頭を垂れた。
「こちらをお進みください、シェリルード子爵夫人」
 思案と物見遊山気分から現実に引き戻されたは、思わぬことに足を進める前に問うた。
「こちらに、宰相閣下が?」
 侍従は廊下に並ぶ硝子扉のひとつをおもむろに引き、微動だにしない。
 硝子扉の先には晴天のもと、緑溢れる庭園が拡がっていた。
「小道を進むと園亭がございます」
 思わず疑念とともに確認したであるが、お辞儀をした侍従からそれ以上の返答はない。
 さらに気配なく現れたもう一人の侍従が、日傘をその両手で恭しく差し出してきた。
 日傘は屋外における貴婦人の必須アイテムであるが、庭園に出る準備などしていない本日の――子爵夫人は持参していない。そこに、自分の青緑の装いに合わせたらしき日傘の登場である。子爵家の紋章である青い鳥がワンポイントであしらわれている、どう控えめにみても自分のために用意されたと思しき日傘に内心で身震いする。
(貴族、怖い)
 どうみても、帝国でも恐らくは一級品といえる日傘は言い訳封じのアイテムなのである。
(これは逃げ場がない)
 この時点で、は自分自身の置かれた状況を考えはじめた。
 まさか宮殿で自分の暗殺はあるまいとして、果たしてこの道の先に待っているのが誰であろうか。
(リヒテンラーデ侯爵…であってほしい、けど、あの人はこんな雅な場所は選ばない気がする)
 短い付き合いではあるが、侯爵が合理性を貴ぶ性質であることは理解できているである。リヒテンラーデ侯爵は『貴族らしい』が、こういった方面で『貴族らしく』はない。彼が選ぶ面会場所は、恐らく彼自身が慣れ親しんだ執務室でしかありえない。
(まさかまさか、ねぇ)
 頂戴した日傘を開き、侍従の目を憚って淑女らしく見えるよう、ゆっくりと石段を降りていった。
 白磁の階段に続いて、緑葉の隙間からそそぐ陽光に浮かび上がる小路をは進んでいく。
 シチュエーションにさえ目を瞑れば、本日は最高のお散歩日和であった。
 惑星オーディンの初夏は、大変過ごしやすい。陽射があれども暑すぎず、木陰に入れば涼やかで屋外でのお茶会も楽しいものであった。エリザベートおよびブラウンシュヴァイク公爵夫人に付き合って、幾度もお茶会という名の社交場を過ごしたも、いっぱしの貴族らしく帝都オーディンの気候を知るようになり、庭園の格調というものも感じ取れるようになっていた。
 小路の脇にほどほどに伸びる植物たちは、恐らくは帝国貴族的には奔放な印象を与えるもので、格式や隠れた人力万歳をアピールする宮殿の庭園としては意外な気がする。
 背の長い草が風に揺らされ、視界を彩る黄や白の小花の頭上を青い蝶がひらひらと舞っている。遠くに聞こえるせせらぎの音だけが聞こえるこの空間は、先ほどまで自分が存在していた銀河の覇権を物語る豪華絢爛な宮殿の通路からは隔絶された世界のようだった。
 時間も、自分の置かれた状況さえ圧倒する穏やかな空間。
 ここがオーディンの宮殿ではなく、過去に自分が居た時空の庭園であると言われればそうであると錯覚しそうな安らぎ。
(憂いなき地上の楽園、か)
 この空間を誰がどんな目的で丹精したのかを想像すると、複雑な気分になった。
 しばらく足を進めると、庭園の趣が変化した。
 視界には背丈ほどの緑葉が四方に広がり、宝石をばらまいたかのように豪華な花輪が絢爛を競っている。
 ルビーのような透明感のある赤、絹のように滑らかなアイボリー、目前には夕空のように綺麗な薄紫、と様々な色合いの花々が咲き乱れている。
 元来、花より団子のではあるが、美しいものは素直に美しいと感じる性質は持ち合わせているし、植物への興味がないわけではない。
 眼前を埋め尽くす植物の名が薔薇であることは、花に疎いでも察せられた。
(銀河帝国でも、薔薇は薔薇だね)
 過去に見た故郷の薔薇と同じく、幾重もの花弁からは濃厚な生命の気配ともいうべき芳醇な香りが漂っていた。
 花屋の軒先、植物園の一角、そういう距離感よりは近い場所に植えられた薔薇である。
 誘われるよう赤色の薔薇へ顔を寄せたは、くんくんと鼻を動かして呟く。
「いい香り」
 蝶のごとく優雅に、というわけではないが、色彩によって香りが異なるか気になったは、別の茂みに鼻を突っ込む。
「赤い薔薇もいいけど、紫色の方が香り控えめで美味しそう。食べられるかな?」
「薬のかかっていないものであれば、恐らくな」
 独語のつもりへの返答、しかも生垣の合間からにゅっと伸びてきた帽子に、は咄嗟に後ずさった。
 ひどくゆったりとした動作で現れた白髪の男性は、のんびり口調で言葉を続ける。
「ここの花を食うと腹を壊すであろうがな」
 愉快、といった風に笑い声を上げた男性は緩やかな歩調で花垣を越えて寄ってきて、片手に持った植栽用の鋏を掲げて問うてくる。
「見頃のよい薔薇であろう、切ってやろうか」
 目を白黒させるとは、このことである。
 の視界に存在する壮年の男性は素朴な白シャツと黒ズボンを纏っただけで、麦わら帽子をかぶっていて、ともすると園丁にも見える。だが、そのご尊顔は立体TVや肖像画で幾度も目にしたことがあるのものだった。
(やっぱり、まさかまさかだった!)
 これで相手が誰かわからぬのなら、銀河帝国では死ぬしかない。
 陛下!という言葉を飲み込み、は無言で首を垂れ、最敬礼の形式をとって恭順を示した。
(皇帝フリードリヒ四世じゃーん!)
「よい、面を上げよ。旋毛を見るのも飽いた」
 のんびり、というのが相応しい声の合間に、ぱちん、と鋏の音が鳴る。
「そなた、しばし話し相手となれ」
 フリードリヒ四世の言葉は穏やかであったが、それは間違いなく命令であった。
 強制的というほど強いるものではないが、抗い難い圧力を伴う言葉。
 何ら威圧的ではない相手ではあるのに、否、ということのできない力があるのは、皇帝という位に対する自身の畏怖ゆえか、それとも目に見えぬ威厳をフリードリヒ四世が纏っているのかには判然としないものの、銀河帝国皇帝のご下命に従わないという選択肢はあり得ない。
 は恐る恐る顔を上げる。
「陛下のご所望とあらば、喜んで」
 は、フリードリヒ四世陛下の背景を原作的に知っている。
 若い頃から放蕩三昧、兄弟の帝位争いの末のおこぼれ的な形での即位、執務には不熱心、酒と少女と薔薇がお好き。近頃は、ラインハルトの姉グリューネワルト伯爵夫人へご寵愛を授けている。
 そういった、小説から得た知識であればの脳内に存在するが、実際にどういった人物かといった部分は未知であった。
 相手の緊張など我関せずといった風で、フリードリヒ四世は手の内の薔薇をくるりと揺らし、香りを楽しむよう掲げている。
「もっと驚くか、気付かれぬと思うたが、賢明な子爵夫人にはお見通しであったかな」
 刈り取った薄紫色の薔薇を片手に佇むフリードリヒ四世に向かって答えるの脳裏には、疑問符が渦巻いている。
 皇帝陛下はこちらの身分を知っている。つまり、陛下の意図として呼び出された公算が高いのだが、当然ながらにはお呼ばれの心当たりがない。
 銀河帝国の至尊の位にいる人間と、辺境領主のんびり暮らしのシェリルード子爵夫人を呼びつける意味が、自分には想像すらできないのだった。
「にしても、予の薔薇を食いたいと言った者は初めてであるな」
「…知らぬこととはいえ、陛下の薔薇に対して不敬を申し上げました」
 素直に謝っておく。皇帝の薔薇の地位は子爵夫人より上であるのか不明だが、他人が大事にしているものを食べようとするのはいけないことだ、という良識による判断である。
 よいよい、と皇帝は鷹揚に笑った。
「予とて食うてみると考えは及ばぬ。さすが、美食家と名高い子爵夫人」
 言いながら、フリードリヒ四世陛下は紫の薔薇を差し出してきた。
「この薔薇は食わぬ方がよかろう。飾ると良い」
「下賜の栄誉に預かり光栄でございます」
 くれるというのだから有り難くもらおう、と反射的に答えたに、フリードリヒ四世は再びいかにもおかしい、といった風に唇の端を持ち上げる。
「子爵夫人は、予の薔薇をどこに飾る?」
 どこに、とは。
 どういった選択肢があり得るのか考慮したとして、が思いつくのは捻りのない答えだった。
「一番よい花瓶に生けて…屋敷の居間か私の執務室に飾ると思います」
(それ以外の場所ってありうる?)
 ――シェリルード子爵夫人の疑問符の踊る表情を見ても、フリードリヒ四世は相変わらずの笑み含みで、左様か、と応じただけだった。
 花をもった手首をふと傾ける仕草だけで、要望を心得た様子の侍従がそっと近寄ってきて、銀盆を捧げ受け取る。包んでくれる様子だったので、意味の分からぬ問いにドギマギしているは、ただ目前のやりとりを眺めるしかない。
 緩やかに歩き出したフリードリヒ四世の視線に促され、も傍らに付き従う。少しの距離を置いて、侍従や近衛と思しき人々が二人を取り巻いていた。
 もっと退廃的で生気の薄い人物かと思いきや、の目から見る皇帝フリードリヒ四世は気張ったところがなく、いかにも泰然とした雰囲気を纏っている。声音も権威や迫力があるというには程遠いのだが、奇妙に品のある語り口である。ただ、皇帝という肩書に求められる人品があるとするならば、確かにもうちょっと覇気や強引さが感じられるのが普通かもしれない、などと思うにも初対面の皇帝を測る物差しがある訳でもないので、なんとも妙な成り行きとなったと困惑するばかりだった。
 この場で首を刎ねられたりはしなさそうな安穏とした空気に内心で安堵も覚えるであるが、皇帝陛下はこの不可思議な接見を丁寧に説明してくれそうにないし、周囲の人々も遠巻きにしているだけで、自分がなぜこの場にいるか不明なのは相変わらずだった。
「子爵夫人は、政務への献身著しいと聞いた。なにゆえか?」
 今日は良い天気だな、程度の軽々しさでの、フリードリヒ四世のご下問であった。
 皇帝直々の唐突な質問に、は咄嗟に言葉に詰まる。
 なにゆえ、――・フォン・シェリルードが銀河帝国の辺境で政務に励むのか。
 形式的な美辞麗句を用いれば、陛下や銀河帝国への献身は貴族たる我が身の務め、となるだろうか。
 しかし、フリードリヒ四世が面識の薄い小娘を、わざわざ私的な薔薇園へこっそり呼び出して訊ねたのは、表の宮廷では不可能な問答であるということだろう。
 彼は園丁のような素朴な恰好で、自分の前に現れた。好意的に見れば、威圧感を与えぬための配慮にも感じられる。
 フリードリヒ四世の本性というほど相手の本質が理解できているわけではないが、現時点で、は眼前の人物に嫌悪感はなかった。
 誠実に答えたい気持ちと、少しの保身を混ぜては考える。結果として、いつかエリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵令嬢に語った言葉がよみがえる。
「そうすることが、自分自身にとって気分が良いことなのです。献身と考えて為すことでもありません。目前に、水を求めて萎れた薔薇があれば水を与えたいと思う、そういう心持のような気が致します」
 結局のところ、自分が気になる、やりたいようにやる、という決意から何の進歩もないである。
「薔薇を救うため、か?」
 歩みを止めず質問を重ねるフリードリヒ四世の言葉だけが、葉擦れの音に紛れて届く。
「……いいえ、恐らく自分の寝覚めが悪くなるから、といった自分本位な心持です。自らの手に水があり、自由がきくのであれば、その水を与えても罰は当たりません。薔薇は、綺麗な方が嬉しいものです」
「は、は。若人の素直な言葉は、なんとも気分が良い」
 背後からであっても、皇帝がの言に肩を揺らしたのがわかった。
「左様、薔薇は美しく咲き誇るからこそ、散るべき時に潔く散るものだな」
 伸びゆく若葉が眩しい白薔薇の前で、皇帝フリードリヒ四世は立ち止まった。
 そして可憐に咲く小花が連なる一枝を選び、手持ちの鋏で取り上げると、ゴールデンバウム王朝の主はひとりで頷いている。
「薔薇を食うには、温室で育てるが良い。虫も少なければ、薬も少なくすむ」
 急な話題転換ではあったが、至尊の冠を戴く人ともなれば他人のペースなどお構いなしなのだろうか、とは会話を追いかける。
「大きく育つ品種は見るには良いが、食うには不向きではあらぬか? それより、多く花をつけるものが良かろう?」
 穏やかな口調であるが、やはり人間、好きな物事に関しては多弁になるらしい。
 本気で食べるつもりはなかったが、皇帝陛下に尋ねられたならば、子爵夫人は答えなければならない。それに、は食べることは好きである。
「仰せの通りかと存じます、薔薇は香りが強いので、確かに花が小さなものの方が扱いやすいかと」
「であろう?」
 得意げな様子のフリードリヒ四世は、とても楽しそうである。
「お持ちの白薔薇ほどのサイズなら前菜やサラダにも使えますし、味付け次第で肉料理に添えたりもできそうです。恐らく、花びらは少し苦みがあると思うのですが、品種によって香りが違うということは味も違うでしょうし、どんな料理にするかによって使う花を変えることも検討する必要があるかと存じます」
「予はここにある薔薇の香りが好ましいと思うてきたが、食えるならそれもよい」
 芳香を味わうよう目を閉じていたフリードリヒ四世は、ふと瞳を開いた次の瞬間、何か得心がいったかのように、ふむ、と声を漏らす。
「子爵夫人に薔薇の苗も授けよう。予は、この薔薇を食うてみたい」
 本気か冗談か掴み兼ねたが見上げたフリードリヒ四世は、思った以上に真剣顔であった。
「聞けば子爵夫人の領星は風光明媚な気候であると。それに温室があれば薔薇の生育にも耐えよう。なに、予の手元から庭師と温室も付ける。薬を使わぬ薔薇の用意はできよう?」
(いや、確かに薔薇が美味しそうとか食べれそうとか言ったけど、本当にやるの!?)
 内心の驚愕を押し殺し、一介の子爵夫人は皇帝陛下に相槌を打つしかなかった。
「陛下の薔薇の苗と温室まで賜る栄誉、臣のこの万感の思い、言葉になりません」
 本当に、言葉にならないである。
(なんで、こうなった!?)
「仮に温室の建設、苗の生育が順調に進んで食用の薔薇ができても、料理の試作も必要ですので……もしかすると二年程かかるかもしれませんが、ご寛恕いただけますでしょうか」
「互いが死ぬまでには頼むぞ、はは」
(薔薇を枯らしたり、料理が不味いって、何か不手際があって私の方が死なないかってこと?)
 老齢に差し掛かったフリードリヒ四世が、いまだ十五の若者であるに対してかける言葉にしては、不穏すぎるのではなかろうか。
(フリードリヒ四世が思い当たる私の死にそうな理由って?)
 思わず背筋が凍る発言に愕然としていると、遠くから喧騒が近づいてきた。
「陛下!」
 慌ただしい足音と共に、庭園の静かな空気は打ち破られた。
 声のした背後を見やると、リヒテンラーデ侯爵が足早に近づいてくるところだった。
 忠実なる宰相の登場に、それまで薔薇について嬉々と話す姿から一転、すっと表情を抑えた皇帝その人は麦わら帽子を取って侍従に手渡し、切った薔薇について指示をしているようである。
 足早に二人の元に辿り着いたリヒテンラーデ侯爵は、胸に右手をあて礼を取る。
 フリードリヒ四世が右手を軽く振ると、視線を下げていた侯爵が居住まいを正し、口を開いた。
「陛下、子爵夫人をお呼びであれば臣にお申し付けくだされば、この姪御と共に参上しましたものを」
 暗に責める声音を感じ取って、は呼び出しが本来リヒテンラーデ侯爵にとって想定外であったと知ることができた。この様子では当初の呼び立て自体、本来は伯父上のものであったのを、皇帝が横取りしたのかもしれないとも思えた。
「お気に召すことがありましたでしょうか」
 こちらを一瞥だにしないリヒテンラーデ侯爵の言い回しに、今更ぴんとくるである。
 陛下は、退廃的で、薔薇と酒と少女がお好き。
 一応、・フォン・シェリルード子爵夫人は十五歳――少女といえなくもない。
(いや、でも会話の流れから言って、そっちのお召しでは……たぶんないような)
 帝国文化や宮廷作法にまったく心得のないには、皇帝陛下のお召の意味が全く理解できないのだが、しかし後宮入りの検分だとすれば違う問答になったはずである。
(あれ…もしかして、薔薇をどこに飾る?って、それっぽい意味があったりする?)
「薔薇を与えることにした」
 その言葉に、かっと目を見開いたリヒテンラーデ侯爵が無言で――シェリルード子爵夫人へ顔を向け、頭からつま先まで視線を走らせた。
 フリードリヒ四世は、日頃から冷静沈着な宰相の振舞いを面白がる様子である。
「子爵夫人は、予の薔薇を執務室に飾ると云ったがな」
「……お戯れを。子爵夫人は、女性ながら陛下の臣として表の宮働きに相応しい人物でございますれば、臣も此度の推薦をしたものです」
「予は、子爵夫人にこの薔薇の苗を与えて、シェリルード領に温室を作ることにした。薔薇が食いたいのだ」
 飄々と、銀河帝国の頂点に立つ皇帝は言い切る。
 再び、くわっと鷲の如く目を見開いた侯爵は、こちらに解説を求めてくる。フリードリヒ四世は、それ以上の説明はしそうにないと踏んだのだろう。
 は伯父クラウス・フォン・リヒテンラーデに向かって、どんな表情をしたものか迷ったが、結局は心情を置いて事実のみを述べることにした。
「陛下の薔薇を子爵領で食べられるように育て、それを料理に仕立てるのだということになりました」
 何故、と問いを重ねないだけ賢明と合理性を友としている宰相閣下である。
 フリードリヒ四世の放った決定済みの言葉を単純に繰り返したに過ぎないにも、どうしてこうなったのかは分からない。そして、この恩賜を喜ぶべきか否かの判断もつきそうにない。唯一わかるのは、厄介なことになった、ということである。
「委細は臣にお任せいただけますでしょうか?」
「のちほど式で直言する」
 息をのんで沈黙を保つ侯爵と、何にも関心がなく聞く耳持たぬという風情の皇帝の間に立つは、ただ突っ立っているだけである。
 帝冠を戴く帝国の主が、指先をついと閃かせる。
 先ほど皇帝が手ずから摘んで侍従に預けられた薔薇は布やレースのリボンを添えられ、ブローチのごとく仕立てられていた。
 どこからともなく現れた女性の侍従が、皇帝の無言の指示に従って薄紫色の薔薇を――シェリルード子爵夫人の胸元に飾る。
 されるがままの黒髪の少女に向かって皇帝は一瞥し、与えた言葉がこれである。
「花の命は短いぞ。咲く時と場所を選べよ」
 うすら寒い冷笑を浮かべる皇帝の思惑を量りかね、は礼を述べるべき声も出ない。
「陛下」
 リヒテンラーデ侯爵の声には危惧ともつかぬ緊張感が含まれており、目前の光景をけして歓迎している訳ではなさそうだった。
 皇帝が風を払うよう手を振っただけで、リヒテンラーデ侯爵は首を垂れ、慌てても倣った。圧倒的に付き合いの長い伯父上がそうするのは、その仕草が会話の終了を告げるものだと、にも察せられたからだった。
「予の道楽ぞ」
 誰も逆らうことのできない言を残し、フリードリヒ四世は去っていく。
 宰相閣下の重々しい溜息を聞きながら、は内心で叫ぶ。
 どうして、こうなった。


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