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Act02-15



 オーディンの新無憂宮に程近い貴族邸宅街の一角に、子爵家が屋敷を構えたのは三年前のことである。
 が趣味の食べ物業を領地資金調達のための商売へ移行させた時期、ブラウンシュヴァイク公爵家への営業活動や省庁訪問の必要からがオーディンに滞在することが多くなった。それでオーディンにおける滞在拠点が欲しくなり、折良く持ち主不在となり空き家となっていた邸宅を子爵家が買い取ったのである。
 二階建て屋根裏階つき、広い食堂とダンスホール、両手じゃ足りない数の寝室や客室、使用人棟や厨房、馬場、庭園その他、貴族に不可欠と言われる要素は標準的に満たしている邸宅である。なんとか帝時代建築だと雑学に詳しいカイルが評していたが、には銀河帝国貴族風であるという表現で充分である。
 晴れてファーレンハイトを巻き添えにした翌朝、はこの別邸で客人を迎えていた。
 正確には、迎えたのではなかった。朝一番に先触れなく唐突に現れた客人は、当然のように客間に腰を据えて茶菓子を要求し、が身支度を調えるのを待っていた。
 が慌てて姿を現すと、優雅な令嬢はちょうど好物のほろほろ崩れるクッキーを食べ終え、緑茶を飲み干したところだった。
「ご機嫌よう、。今朝は遅いのう。そなたは、いま少し早起きするものだと思っておったが」
 ソファに座ったままを頭のてっぺんから爪先まで視線で走査した高貴な少女は、顎をそらしこちらを見上げている。
 金糸で縫い取りをあしらい、腰回りにドレープで膨らみをもたせた最高級仕立ての緋いドレス。やや赤みがかった濃茶の髪は貴石が輝く髪飾りに彩られ、猫のように少し釣り上がるアーモンドの瞳と強気そうな眉には、高貴な身分にある者特有の、よく言えば気品、悪く言えば高慢さが宿っていた。以前はふっくら豊満だった幼い頬は、ちかごろ思春期を迎えて少し大人びた表情をするようにもなったことをは知っている。
 彼女の名を、エリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイクと云う。
 年齢は11歳だというのに、紫檀の扇を揺らしつつソファの肘掛けに半身を預ける様子は、もう立派な貴婦人といったところだ。末恐ろしいことである。
「わらわを待たせるとは良い身分じゃ。とはいえ急な訪問でもある。許してつかわす」
(ああ、朝から眩しい)
 この令嬢に、遠慮や謙譲の精神など求めるべくもない。彼女は尊い御身分の令嬢なのだ。この銀河帝国において、皇族の血脈に連なる彼女より身分が高い人間など数える程しかいないのだった。
「エリザベート様、おはようございます。どうなさったんです、急におみえになるなんて?」
 は目を擦りながら、エリザベートに正対するソファに腰を下ろした。
 別邸はブラウンシュヴァイク公爵邸からも程近く、――のオーディン滞在時にエリザベートが遊びに来ることは度々あった。しかし、約束もせずエリザベートがやって来るなど、これまでにないことである。
 時刻は午前九時、普段のスケジュールならとっくに起床していたが、今朝は恒星間旅行と騒動の疲れで二度寝を決め込んでいたである。ファーレンハイトのことや未来のことを考えてしまい、昨夜も寝入るのが遅かった。そこを叩き起こされて、何がなんだか判らぬままゼルマに世話をされて客間へ降りてきた現在、エリザベートの行動に思い当たる理由がにはなかった。
 とはいえ、エリザベートの第一付き人的友人と世間に認知されているは、件の公爵令嬢が我意を貫いてきた過去(わがままともいう)を知っている。
(栗きんとんが食べたいとか、かき氷作ろうとか、朝一で思い立ったのかな?)
「何か食べたいものでもありました? もう夏ですし、今日はフルーツあんみつでも作りましょうか?」
「む、フルーツあんみつは良いな。桃と蜜柑とアイス二種を添えよ。それと…」
「もっちもちの白玉ですよね、ちゃんと沢山作らせます」
 厨房への言伝を頼むの姿に満足げに頷こうとして、エリザベートは本来の用件を思い出したようだった。
「ええい、食べ物には釣られぬぞ」
「あれ、食べ物のことじゃない?」
「断じて違う!」
 首を傾げるに対し、ブラウンシュヴァイク公爵令嬢は手元の扇をびしゃりと閉じながら、気品ある眉を急角度に持ち上げた。
、そなた、誰ぞに襲われたそうではないか!」
(おお、もう知ってるのか。貴族の情報網って恐ろしい)
 さすがブラウンシュヴァイク公爵家だ、と感心したところでは思い出した。そういえば、遭遇戦後に合流した第四方面区第十四警備隊を率いていたのはブラウンシュヴァイク一門に連なるおかっぱ男爵フレーゲル様であった。彼から何らかの形で公爵家に情報が流れたのだろう。
 は悲愴でもなく、かといって愉快といったわけでもない面持ちで答えた。
「お聞き及びでしたか。そうなんです、とんだ災難に遭ってしまいました。いやー人生色々ですよね」
「見たところ怪我はないようじゃな」
 先程からエリザベートが検分するようにまじまじと見ていたことに、は得心した。
「心配して来て下さったんですね、エリザベート様」
 エリザベートはぷいとそっぽを向く。
「ふん、そなたはわらわの友じゃ。友に心を配るのは、わらわほどの者であれば当然であろう」
「エリザベート様……」
 年下の公爵令嬢はが不明艦に襲撃されたことを聞きつけ、駆け付けてくれたのだ。先触れなしの突撃訪問ではあったが、素直に嬉しいと思うである。
(良くも悪くも直情的なんだよね、エリザベートは。最近は昔よりお淑やかになったし、可愛いざかりだなあ)
 我が侭放題の環境で育ち、忍耐力が著しく乏しかったエリザベートの勘気は五年前に比べれば収まっていた。六歳から十一歳となる間に、精神的にも多少は成長したのだろう。
 さらに意外にというべきか、エリザベートは明晰な知性の持ち主だった。制御困難な激情と天高くそびえる貴族としての矜持がいささか理性的思考を妨げ、令嬢育ちゆえの世間知らずな部分があるとはいえ、物事の理解力は有している。幼少のころから本音と建前が相反する貴族社会で育ち、身近な侍女に裏切られて誘拐されたりしていれば、長ずる部分もあるのだろうとは考えていたが、実際には――・フォン・が与えた影響も少なからずあるのだった。
 エリザベートにとっての・フォン・は、貴族令嬢の規範からはずれた貴族令嬢の見本のようなものだった。
 料理をし、身分の低い従僕や領民とも気易く会話をする。貴族は平民と交わるべきものではないはずなのに。
 政治と経済といった実学をし、領地経営に参加する。本来は女が知る必要もないことなのに。
 音楽も舞踊も流行のドレスも、宮廷の噂にも関心が薄い。茶会では必須の知識だというのに。
 母アマーリエは黒髪の少女を差し、親を亡くし自ら労苦を背負わねばならない境遇ゆえのことだと憐れんだ。
子爵夫人の行状は貴婦人としては眉を顰めざるをえないこと。けれど、女の身にも関わらず家門を守り、陛下の御為に尽くす貴族たらんと、かような振る舞いをするのでしょう。その心意気は立派ではありませんこと?」
 母はが辛苦とともに子爵家の当主を務めているように言ったが、当のはエリザベートの知る限り、いつも楽しそうに政務や勉学に励んでいる様子だった。
 しかしそれは表面上のことで、実は内心悩みを抱えているのかもしれないと、なにゆえそのように振る舞うのか、政務など辛くないのかとエリザベートは4つ年上の子爵夫人となった少女に訊いたことがある。
 もしもが頷いたなら、母に頼んで良い男にを娶せてやろうとエリザベートは考えていた。それがエリザベートの知る、貴婦人の幸福と呼ばれる生き方であったからだ。
 訊ねられた側は、難しい質問だとしばし悩んだ後、少し困ったような表情で返した。
「それが私にとっての、正しいことゆえでしょうか」
「正しい?」
 エリザベートには、年嵩の少女の言葉の意味が図りかねた。怪訝な顔をどうとったものか、は重ねて言う。
「自分が自分らしくあるためには、自分にとって正しいと思うことをする方がいいと思うんです。誰かが何かを言うからとか、前から決まっていたとか、そうじゃなくて、私がそうすべきだと思うから…そうしたいから、かな」
「平民と気易く話し、女の身で政務にかかわることが正しい?」
「あくまで、私にとって正しいという話ですよ、エリザベート様。正しさは人それぞれ違いますから、私にとって正しいことが他の方にとって正しいとは限りません。でも、自分のことをもっとも真剣に考えるのは自分ですから、自分の人生くらい自分のやりたいようにやればいいんじゃないでしょうか。あ、こんな風に言ってたってことはアマーリエ様には内緒にして下さいね」
 自分にとっての正しさ。自分のことを真剣に考える。そのような発想は、それまでのエリザベートにはなかった。エリザベートが教わったのは、ただ高貴な淑女たれ、皇孫としての矜持を示せといったことであり、自ら正しさを考え、自らの考え通り振る舞えなどと誰も言ってはくれなかった。さらに、自分と他人の正しさが違う形をしているなどという思考は、青天の霹靂だった。他人が何を考えているかなど、エリザベートは気にかけたことがなかったのである。
 それからだった。エリザベートが、自分にとっての“正しいこと”を考え始めたのは。そして、他人にとっての、特ににとっての“正しいこと”はどのようなものかと、考え始めたのは。
 いつまでたってもにとっての“正しいこと”を理解する境地へは辿り着かないが、エリザベートはともかくも朝食の席で襲撃の件を聞きつけて、屋敷を飛び出してきたのだった。
「…何を笑っておる」
「心配して下さってありがとうございます、エリザベート様」
 はエリザベートに、本心からの感謝と笑顔を向けた。
 ふと空気が綻んだが、その穏やかさを払うようにエリザベートは右手の扇を左手の掌に打ち付ける。乾いた音の大きさから、込められた力の強さが伺い知れた。
「礼はしかと受け取った。それはそうと、誰じゃ、そなたを襲ったのは?」
 ぎらっとした目つきのエリザベートの周囲には、不穏という名の雰囲気が渦巻き始めていた。
 には当然、心当たりはある。だが、その名をエリザベート相手に公言するのは現状憚られた。
(だって、おおごとになりそうだし)
 どうしたものかと思案するをよそに、エリザベートは強い口調で断言した。
「とく申せ。わらわがお父様に伝えて、そやつを殺してくれる」
(…さすがブラウンシュヴァイク公爵令嬢エリザベート様)
 は笑顔で固まった。最近は淑やかになったなどとは、の浅薄な認識だったかもしれない。エリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵令嬢、やはり苛烈な性質は今も昔も変わっていない。
「いやいや、エリザベート様、落ち着いて下さい」
「わらわはそなたを襲った者を許さぬ。わらわに近しい者を襲う不届きな賊など粛清してくれる」
「あの、お気持ちは大変嬉しいのですが、どうぞお気になさらず…」
「ユリウスやディートハルトらにも助力を頼まねばのう。の一大事とあらば、あやつらも尽くすべきじゃ」
(あああ、おおごとになりかけてる!)
 突発的な遭遇戦がローバッハやヘルクスハイマーに関連するものだとしても、これは子爵家のお家事情というやつである。調査のためにケスラーやミュッケンベルガー上級大将らに力添えをもらっても、問題の解決は最終的には子爵家の手で、つまりはコンラッドとの手で決着をつけるものだとは考えていた。しかし、現実はそう単純に事は済まないかもしれないという予感がを包みつつあった。
「近しい者の危機を救うは高貴な者のつとめであるからの。わらわは誇りを知らぬ人間ではない」
 高貴なエリザベート様の発言を、中身平民のは全く理解できない。
(え、なにそれ。お友達が襲われたら犯人探して殺しちゃうのが貴族文化ってやつなんですか)
 は首を傾げたものの、それは立派な貴族文化だった。
 それについて示唆を与えてくれたのは、エリザベートに次いで屋敷を来訪した客人であった。
 扉をくぐって現れたのは、険しい表情のユリウス・フォン・ヴィーゼである。
「ユリウス。そなたも聞いて参ったか」
「ご機嫌麗しく、フロイライン・ブラウンシュヴァイク」
 その場でもっとも身分の高いエリザベートに一礼した後、ユリウスは――に向き直る。
 黒髪の令嬢が驚いた表情で立ち上がった様子を見て、ようやくユリウスの顔は綻んだ。
、無事でよかった。何者かに貴女の乗艦が襲撃されたと聞いて、心臓が止まりかけましたよ」
 ヴィーゼ伯爵家の長子ユリウス・フォン・ヴィーゼとは、五年前の出会い以降ずっと交友が続いていた。
 今年は19歳になるという。数年前と比べれば背丈も伸び、細面ながら男性的な骨格を有している。短い立て襟シャツの上に、深青色の天鵞絨のベストを着て、揃いのコートの正面は開けている。胸元は白いタイで飾り、幅広く折り返した襟と大ぶりなカフスには、控え目な銀糸によって模様が紡がれている。どこから見ても立派な貴族、文句の付け所のない貴公子であった。
 ユリウスは数年前にフェザーンの商科大学へ進学し、近頃は年に数回、機会を作っては会っていた。にとっては、銀河帝国における親しい友人の一人といえる。
 そのユリウスであるが、どうやらエリザベートと同じ用件で来訪したようである。
「ご心配をおかけして申し訳ないのですが、この通り私は無事です。それにしても、ユリウス様もお耳が早いですね」
「ああ、突然の訪問で失礼致しました。貴女の家の駆逐艦と戦艦の修理を依頼された先が、当家が運営を請け負う工廠だったので、今朝になって僕の所へ報告が上がってきたのです。貴女が無事であることは知っていたけれど、どうしても駆け付けたくて」
 の手を取り、ユリウスは軽く握る。大変心配してくれたことが、よく理解できたである。
 は若草色の瞳を見上げながら、心からの礼を伝える。
「ありがとうございます、ユリウス様」
……」
「わらわの方が、ユリウスより早かった」
 いつの間にかソファを離れたエリザベートが、紫檀の扇でもって二人の間に割り入った。
「のう、? わらわとそなたは、ユリウスが来る前から、そなたを襲ったうつけ者を成敗する算段をしておったところじゃ」
 ブラウンシュヴァイク公爵令嬢はの片腕を抱き込みながら、気迫を伴う眼力と笑顔でもって、ユリウスとの手を分離させた。
 ユリウスは瞳をすがめエリザベートを一瞥したものの、特段なにも言わず話題を戻した。
「そうです。貴女が無事であったのは僥倖でしたが、再び襲われることがないとも限りません。襲撃者について目処がおありなら即刻対処しましょう」
 誰が、何について対処するか。
(ユリウス様が、私が襲われた件について対処するって解釈しかないよね、これ?)
 は慌てて言う。
「いえいえ、これは当家の事情ですし、対処についても当家で行います」
「貴女が襲われたというのに、僕が……いや、ヴィーゼ伯爵家として黙っているわけにはいきません。僕にも、君を襲った者に対して相応の対処をする理由がある」
「わらわもじゃ。そなたが襲われたというのに、わらわが何もせぬ訳にはいかぬ!」
(全然、その相応の理由やら訳やらがわかんない私がおかしい?)
 今回の事件の当事者にあたる黒髪の令嬢の表情に疑問符が踊っていることに、ユリウスは気付いたようだった。
「ああ、貴女が貴族の慣習について疎いことを思い出しました。そうか、貴女はお判りでないのか」
「私が知らない何かがあるんですか?」
 ユリウス・フォン・ヴィーゼは艶やかに微笑んだ。いい笑顔だ、と素でが思うくらいである。
 彼は優雅な声音で、恐ろしいことを言った。
「名誉のための、報復ですよ」
 誰の名誉のためなのか。
「貴女がなんと言おうと、僕やフロイライン・ブラウンシュヴァイクには報復の権利がある。貴女が襲われたということは、我が家名の名誉を汚されるも同義。僕の親しい相手を傷つけた者には、相応の“対処”が求められるのです。ご理解頂けましたか、子爵夫人」
 はようやく、エリザベートやユリウスの反応の理由が腑に落ちた。
 見栄や体面を重視する貴族たちにとって、自分に近い者イコール自分のものイコール自分らしい。
 ブラウンシュヴァイク公爵令嬢やヴィーゼ伯爵子息のお友達というステータスは、が思っていたより強い威力を伴っていた。
 親しい相手が喧嘩を売られて黙っていては大貴族の沽券に関わる。高貴な者としてあるためには、周囲の者たちの身を保障してやらねばならない。それこそ、貴族の矜持をもって、彼のものに近しい者に無礼を働いた人間には制裁を与えねばならないのだった。さもなければ矜持に悖る、という発想は一般的な大貴族であれば奇異でもなんでもないという。
「お気持ちは、よくよく理解できました。でも、その、当家の事情ですから……」
 弱々しい反論をぴしゃりと遮ったのはエリザベート・フォン・ブラウンシュヴァイク公爵令嬢だった。
「そなたの事情ではない。わらわの事情じゃ。ゆえに、わらわが不届き者を処分しようと言っておる。わかったかえ?」
「名誉の報復の権利を行使するのは、僕であり、フロイライン・ブラウンシュヴァイクです。どうぞ、朗報をお待ち下さい」
(これだから、貴族ってやつは!)
 は内心で頭を抱えた。
 こうして、の手の届かぬところで事態は進行していくのであった。




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