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Act02-14



 駒鳥亭の一室は、穏やかならぬ緊張感に占拠されていた。
 重い空気の形成要因は主にファーレンハイトであったが、一方で子爵夫人の護衛達が後背や入口を塞ぐよう移動することも、この状況が楽しい食事会などではないことを物語っている。
「おいで下さってありがとうございます、ファーレンハイト少佐。またお会いできて嬉しいです」
 小さな子爵夫人の挨拶に対し、ファーレンハイトは敢えて丁寧に礼を述べてみせた。
「卑小な小官ごときに、結構な歓待ぶりと存じます」
 冷ややかな声色で告げるそれは、御礼の形をした皮肉である。
 ファーレンハイトの心中は複雑なのだった。大人げなく棘のある言葉をぶつけたくなる程度には、彼は現状に対し不満がある。
 しかし、彼の抗議するような視線も露知らずといった微笑みを浮かべたまま、・フォン・子爵夫人はファーレンハイトへ席を勧めて言う。
「可能性の問題についてどの程度の配慮をすべきかは、いつでも悩ましいものです。なんといっても、オーディンまでの道すがら正体不明艦に艦砲射撃を受けることもあるご時世ですから」
「御身のお立場ゆえに、配慮が必要となるのは致し方ないことなのでしょう。それにしても、このように素晴らしい形で子爵夫人に再度まみえることが叶うとは思いもよらぬことでした」
「すぐにでもファーレンハイト少佐にお会いしたくなって、お呼び立てしてしまいました。ご迷惑ではありませんでしたか?」
 再度の皮肉を、眼前の少女は清々しく無視する。見る者によっては可愛らしくもみえる、しかし現状ではどこか忌々しくも感じられる笑顔には一部の隙もない。
 いまだ年若い子爵夫人に相対し、ファーレンハイトは思うのだった。二十歳にも満たぬ小娘と、この少女を侮るのは簡単なことである。事実、ファーレンハイトもどこかでこの子爵夫人を見くびっていたのかもしれない。
 まさか、この子爵夫人のせいで自分がこのような立場に置かれるとは思ってもみなかった、と。


 ファーレンハイトが駒鳥亭を訪れる時を遡ること半日、帝都オーディンへ到着する約八時間前、レルヒェ三号に入電があった。
 艦長であるファーレンハイト少佐個人宛に遮音力場内での秘匿通信を要請する文言、そして発信元の名前を見た瞬間、彼は思わず宙を仰いだ。
(方面区司令のヘルクスハイマー少将が俺に何の用だ?)
 昨日は子爵夫人に呼ばれ、今度はこちらも接点など皆無な上官の上官からお呼ばれだ。通信の意図は不明だが、この通信が彼にとっては歓迎すべきものでないことは予測できた。
 果たして、ファーレンハイトの予感は司令官閣下直々という密命によって現実となった。
 ヘルクスハイマー少将の副官だという冴えない中年男は、まったく精彩を欠く表情と声で空々しい説明をした。
子爵夫人は皇帝陛下への叛意の疑いあり。数日後の謁見まで十二分な観察が必要と閣下は判断なされた。ついては貴官にその任を内密に与えるとのことである。子爵夫人の動向を逐次報告せよ。詳細は別途、通信にて送る」
 叛意の疑いなどという台詞は、貴族が他人を権力争いで蹴落とす際に用いる常套文句である。叛意の有無が真実かどうかは関係ない。貴族の争いの大義名分など、大半が作り上げられたものなのだ。
 命令を貴族権力図で解釈すれば、つまりヘルクスハイマー少将は子爵夫人を監視する何らかの利害関係が発生しているのだろうと、ファーレンハイトは判断する。
 そして、我が身の置かれた状況を推理してみた。両者にどんな利害関係があるかはいざ知らず、なぜ自分に白羽の矢が立ったのかと考えれば、恐らくは便利な位置にいる貧乏貴族ゆえだろう。
 僚艦レルヒェ四号のネロート少佐はブラウンシュヴァイク一門の出身であり、ファーレンハイトに比べフレーゲル准将との関係も良好である。一方、ファーレンハイトはたまたまフレーゲル准将の下に配属された没落男爵家の人間で、ファーレンハイトがどうなろうと貴族内での影響は皆無だ。さらに、間諜よりも合法的に動向を探ることが可能な理由まである。
 ファーレンハイトの小さな抵抗に対する、ヘルクスハイマー少将の副官の返事がそれだった。
「駆逐艦艦長である小官が、子爵夫人に同行する名目がありません」
「先日の、リンドル星系における偶発的な戦闘についての事情聴取と調査を行う旨の命令書を与える。子爵夫人の予定を把握する必要が生じるだろう。また、かのご婦人が領地へ戻るまでの護衛もして差し上げろと閣下は仰せである。方面区司令であらせられる閣下のご命令に、異議などあるまい」
 副官は居丈高に言う。
 第四方面区内で起こった事案に対処しろと、方面区司令であるヘルクスハイマー少将が指示するのは至極まっとうな事とも思える。だがファーレンハイトの知る司令官閣下は、自身の管轄内の事案に対し機敏に対処しようとする人物ではなかったはずだ。ヘルクスハイマー少将にとっての職務は、オーディンでの夜会や女遊びより優先順位が低いともっぱらの噂である。噂どころか実際に、ヘルクスハイマー少将のオーディン訪問に随伴する任務の多さからもその事実が伺えるのだった。
 怠惰が常の貴族が積極的に職務に励もうとするなど、裏があるに違いない。その程度の推測は、貴族の端くれの端くれであっても可能なのである。
「相応の働きをすれば、司令官閣下が特に貴官の功績をお認め下さることもあるだろう。しかし内密の任を他言すれば、貴官は全てを失うことになるだろう。任務に励むよう」
 暗に昇進と脅迫をちらつかせた上、通信記録の抹消を命じて、ヘルクスハイマー少将の副官はファーレンハイトの返答も聞かず通信を一方的に終わらせた。
 後に残されたのは、子爵夫人に随行せよという命令書と、政治の渦に巻き込まれた我が身を嘆く少佐である。
 ファーレンハイトは、頭を抱えずにはいられなかった。
 全てを失うとは、つまり次の異動先が最前線の極寒惑星カプチェランカになるか、さもなくば軍務中の不幸な事故で命を落とすか、といったところだ。
(両者の権力争いに巻き込まれたか。いや、昨日の仕官の誘いからして既に巻き込まれていたのか?)
 いずれにせよ、彼に与えられた選択肢は極めて少なかった。二つに一つしかない。考えようによっては、とても単純な選択をするだけだが、今後の人生全てを賭けた選択になることは間違いない。
 子爵家か、ヘルクスハイマー伯爵家か、どちらに与するべきか、彼は真剣に検討した。


 そして今、彼は子爵夫人の眼前に座っている。
「小官も是非ともすぐに子爵夫人にお会いしたく思い、馳せ参じた次第です。迷惑なことなどありましょうか」
「そう仰って頂けると、私も安心です。さて、ところでファーレンハイト少佐、食事の前に本題に入りましょうか。私、回りくどいことは苦手なんです」
 実際のところ、ご飯が不味くなる話はさっさと済ませるに限るなどとが思っていることは、緊迫した心持ちのファーレンハイトは知る由もなかった。
「はい、小官も迂遠なことは好みませんので、直截に申し上げたい。小官は、子爵夫人の下へと仕官することを望みます」
「突然の申し出にもかかわらず快諾頂けたこと、大変嬉しく思います。それで、念のためお伺いしますけれど……」
 仕官の意思を表明して円満に話が進んだと安堵しかけたファーレンハイトに、鋭い一言が突き刺さった。
「それってヘルクスハイマー少将に指示されてのことじゃないんですよね?」
 ファーレンハイトは息を呑む。
 子爵夫人は、自分がヘルクスハイマー少将の副官から極秘任務を授かったことを既に知っているのだろうか。だとすれば、ファーレンハイトの知らぬところに子爵夫人の間諜がいることは間違いない。
 そうとなれば話は早い。ファーレンハイトは溜まった鬱憤を晴らすように、一気に吐き出す。
「ご存知でしたか。左様、確かに小官はヘルクスハイマー少将の副官より密命を受けました。子爵夫人に、皇帝陛下への叛意の疑いあり。ゆえに貴女の行動を逐一報告せよと。けれどもこれは小官が望んで命を賜ったのではなく、率直に申し上げれば小官は被害者であるともいえます。小官は子爵夫人ご自身が抱える問題に――小官には知る由もない高貴な方々のご都合に巻き込まれただけです。その上で、小官は是非とも子爵夫人に仕官したいと望んでいます。ヘルクスハイマー少将の意向は関係なく、小官自身の意志で。ご理解頂けますか?」
 言い換えればファーレンハイトの主張は、巻き込まれた責任を取ってくれ、ということだった。
 彼の心底からの発言の勢いに僅かに目を見開いた子爵夫人は、けれどもまだ猜疑があるのだろうか、問いを重ねてくる。
「ヘルクスハイマー少将ではなく、私を選んだその理由は?」
「理由? 簡単なことです。貴女の元でなければ、小官は生きられぬからです」
「ほう?」
 愉快そうな声は、ファーレンハイトの背後から漏れたものである。聞き覚えのない声は、ヘルツとこの部屋まで案内してくれた銀髪の青年以外のものだろう。
「生きられぬ、とは?」
 説明を促す子爵夫人に、ファーレンハイトはこの24時間で考えたことを述べていく。
 ギルベルト・フォン・ヘルクスハイマー少将は、第四方面区司令を預かる帝国軍少将、そして現ヘルクスハイマー伯爵の弟である。ヘルクスハイマー伯爵家は、リッテンハイム侯爵家に連なる門閥の一員で、現時点の家格は子爵家を位階からいっても遥かに凌ぐ。ただし、それはヘルクスハイマー伯爵家のことであり、ギルベルト自身は宮廷における影響力は大きくない。
 一方、・フォン・子爵夫人は自身が有爵者であり、多くの人脈を抱えているともっぱらの噂だ。貴族の末端のファーレンハイトでさえ、子爵家と軍門ミュッケンベルガー伯爵家、皇妹と皇孫を擁するブラウンシュヴァイク公爵家、財閥ヴィーゼ伯爵家、さらに昨今では国務尚書リヒテンラーデ侯爵との親密な関係は耳にする。子爵夫人が働きかければ、彼らが動き出すことも考えうる。
 子爵夫人とギルベルト・フォン・ヘルクスハイマー少将の因縁は不明だが、仮に両者が表だって対立した場合、ヘルクスハイマー少将は帝国軍内での綱引きには軍内に縁故の多い子爵夫人の祖父コンラッド・フォン・やミュッケンベルガー上級大将に、宮廷内ではブラウンシュヴァイク公爵家とリヒテンラーデ侯爵に権勢や位階で負ける。しかし、その状況下でヘルクスハイマー少将が勝ち目を狙う、最も効果的な策がある。
 子爵夫人の謀殺だ。
「皇帝叛逆罪を持ち出すほど、ヘルクスハイマー少将閣下は子爵夫人を排除したいとお思いのご様子。両者の争いの種など小官には知り得ませんし、知りたくもありませんが、とにかくこれだけは分かります。仮に子爵夫人が失脚するか、貴族によくある“不慮の事故”で亡くなった場合には、密命を授けられた我が身が危うい、ということです」
 貴族であるなら、貧乏貴族の一人や二人、簡単に捨て駒とする。ヘルクスハイマー少将閣下は、恐らく持ち駒を増やす為にファーレンハイトに命じたのだ。意のままに動けば便利に使った後に始末し、意に染まぬ動きをするなら最前線への異動後、殉死させればよい。
 ゆえに、ヘルクスハイマー少将閣下に従おうが密命を拒否しようが、ファーレンハイトの結末は恐らく同じなのだった。
 そしてファーレンハイトは、その救いを眼前の少女に求めなければならないのだった。
 この少女のせいで我が身が危うくなったというのに、当の本人が救い主であるとは皮肉なものだ。
「いずれにせよヘルクスハイマー少将に与すれば、我が身が危うい。一方で、少なくとも貴女は小官を配下にしたいと公言なされた。貴女の傍には小官の知己もいる。我が身を使い捨てにはなさらないと、小官は子爵夫人を――いえ、閣下を、信じるほかありません。閣下が小官をお救い下さるなら、このさき小官は閣下のために尽力致すことを誓います」
 ・フォン・子爵夫人はファーレンハイトを見据えていた視線を、彼の背後やヘルツに移した。
「これで充分じゃない? ほら、彼にとっても命かかってるし、ちゃんと算段して来てくれてるから裏切ってヘルクスハイマー少将の元へ走るなんてことないだろうし、密命とやらも洗いざらい喋ってくれたし。それに私の直感は当たるの。彼は信じても良い部類の人間なの。私、もう演技するの疲れたし、お腹空いたし、今日からファーレンハイト少佐は私の味方ということで!」
 張り詰めていた緊張が、一気に弛緩した。
「おい、状況を放り出すな」
「えー、もういいじゃない。ファーレンハイト少佐、貴方が仰る通りです。貴方が生きるためには私の道連れになるしかないんです。貴方はきっとその計算が出来る人だと思っていたんですが、念のため試させてもらいました。可能性の問題についてどの程度の配慮をすべきかは悩ましいもの、ということですね。ちなみにこれは、ヘルツ少佐の言です」
 ファーレンハイトの背後にいた黒髪の下士官に子爵夫人は肩を竦めてみせ、次いでファーレンハイトにも笑いかけてくる。その笑みは先程までの貴族的で近寄りがたい硬質な作り物ではなく、気兼ねなさを感じさせるものだった。この笑い方が、生来の彼女のものなのだろう。
 彼の肩を叩くものがあった。目をやれば、旧友の笑顔がある。戦術シミュレーションで相手を陥れる時に見せる、あの笑顔である。
「これから肩を並べることができて良かった、ファーレンハイト」
「……卿なのか」
 この滑稽な、自分ばかり神経をすり減らされる劇を演じさせられたのは、誰の発案か。
 問いには答えず、ヘルツは言う。
「自身の能力や知謀を示すことを求められていただけだ。卿なら出来ると信じていたよ」
「仮に俺が、ヘルクスハイマー少将の間諜としてここに来ていたら…」
 どうしていたのだ、と問う前に黒髪の下士官が口を挟む。
「心配するな。お前が帰る前に、ヘルクスハイマーの副官にお前が寝返ったって情報を流してやる手筈は整っていたから」
 レクス・シュトルツァーと名乗る男は、さらりと肝の冷えることを言う。
 そのような情報がヘルクスハイマー少将にもたらされれば、もしもファーレンハイトが密命のまま子爵夫人の情報を流したとしても、彼らはそれを信用するべきか迷う。迷った挙げ句、恐らく邪魔者は消されるだろう。つまり、ファーレンハイトが子爵夫人からの呼出に応じた時点で、彼には選ぶ道がひとつしかなかったのだ。
「ファーレンハイト少佐、これから色々とお互い大変だと思うんですけれど、一緒によろしくお願いしますね」
 色々大変が何を指しているのか分からないが、少なくとも現時点での正解を、彼は選び取ったのだろう。
 将来的にも正解となるかは、今は判然としない。しかしヘルツの言うように、恐らくはこの少女はそこらの貴族令嬢と同列に語れる人物ではないのだ。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します、閣下」
 その後、ファーレンハイトの前には子爵領の名物だという鶏や名酒が揃えられた。
 全てが美味しく、彼は自身が士官候補生時代に友人に告げた言葉を今更ながらに実感した。
(食うために軍人になる、か。うまい食い物をくれる主を戴くことになるとはな…)
 何はともあれ、そのようにしてファーレンハイトは子爵夫人に仕えることになったのだった。


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