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  とロルフを襲った暴漢に本とジェラート(まだ三口しか食べていなかったのに…)を投げつけて怯ませ、ロルフが一人の男を仕留めたまでは良かった。
 しかし、もう一方の顔面に美味しかったはずのジェラートを頂戴した男は、どうやらお裾分けが気に食わなかったらしく、青筋立てて に向かって突進してきた。可憐な少女の に暴力を振るおうというのか、右拳まで振り上げている。
  は咄嗟に逃げ出そうとしたものの、一歩下がった拍子にバランスを崩して噴水に落ちかけた。慌てて体勢を立て直す頃には、拳は目前まで迫っていた。
「お嬢様!」
 ロルフがジェラート男の背後を追っているが、初撃には間に合わないだろう。
 いつか誘拐犯に食らった裏拳よりは、威力がありそうだ。
(痛いだろうな…)
 殴られる覚悟を決めた は歯を食いしばる。さらに頭を庇おうと、習ったとおり腕を上げ防御姿勢を取ったところだった。
 横合いから、何者かに襲われた。
「伏せて!」
 不意打ちも甚だしいことに、 は左手から声の主に勢いよく押し倒される。
(ええ!?)
 未確認人物ともつれ合って、 は縁石の段上から煉瓦の敷き詰められた地面へと転げ落ちる。横に流れながら90度反転する風景の中、宙を舞うジェラート男を、 は確かに見た。
 身体に思いのほか柔らかな落下の衝撃が走ると同時に、盛大な水音が響いた。一拍おくれてプリズムを煌めかせた水飛沫が空中に広がり、そして唖然とする の上に降り注ぐ。
「つ、冷たい…」
 季節はずれの水浴びをする羽目になったおかげで、背中がべっとりと濡れている。思いのほか大量の水を被ったらしい。
 とはいえ、殴られるよりは数倍マシに違いない。
  は安堵の溜息を吐く。
「…だい、じょうぶ、だった?」
 自分の真下からかけられた途切れがちな苦しげな声に、 は突き飛ばすことで危機を救ってくれたらしき人物に思い至った。その相手を下敷きにした上、抱きしめられている体勢に気付く。呼吸と共に上下する胸元から、慌てて腕立ての要領で上半身を離す。
 そして当然、 の視線は真っ先にその人物の顔を向いた。何しろ彼の声に、思い当たる節が(嬉しいことにというか、恐ろしいことにというか)あったのだ。
 まず、柔らかな曲線を描く髪の色彩が目に飛び込む。惹きつけられずにはいられない、鮮やかな燃えるようなルビーレッドの赤毛と、こちらを気遣う瞳は海のように深い青を湛えている。優しさを醸し出す下がった眉尻が彼の為人を表しており、顔つきは幼いものの格好良い分類に属することは間違いない。
 件の人物を確認して、 は思わず運命を呪いそうになった。昨日の努力は一体なんだったのだ、と。
(この人がいるとなれば…)
「大丈夫か! キルヒアイス!」
 予想通りの片割れが、勢いよく 達の元へ駆け付けてくる。
 こちらは豪奢な金髪も眩しい白皙の美少年で、無論のこと、 は彼の名を知っている。無類の整った顔立ちの持ち主は、銀河帝国の未来を掌中に握っているお人である。
「大丈夫です、ラインハルト様」
 ジークフリード・キルヒアイスとラインハルト・フォン・ミューゼル、いずれ銀河に名を轟かせる二人の少年が、得意げに笑い合っている。
 彼らの未来を知る立場にあるが故に、 は二人との接触を拒んでいた。いずれ面識を得るとしても、それはまだずっと先のことにしておこうと計画を練っていたのだ。銀河帝国において反門閥貴族の旗手となるラインハルトは、いずれ彼が皇帝になるとしても、関係を慎重に見極めねばリップシュタット戦役前後に 子爵家が危機に晒されることだってありうる。
(どうしよう)
 さきほど目の前で喧嘩が始まった時以上に、 は途方にくれた。できれば、穴に埋まりたい。恥ずかしさの為ではなく、隠れるために。
「勇敢な貴女も無事…ですよね」
 キルヒアイスは を抱えたまま身を起こし、朗らかな笑顔を浮かべて の顔を覗き込んでくる。
  は呆然としながらも、とりあえず首を縦に何度か振った。
「お嬢様! ご無事ですか!」
 青くなったロルフに持ち上げられ、 はキルヒアイスの膝上から退去させられた。
 ロルフは を地面に降ろすや否や、膝をついて非礼を詫び始める。
「申し訳ございません、御身を危険に晒すなどあるまじきことです。私の注意が足りず…」
「大丈夫、助けて貰ったから私は無傷。この通り! だから謝らないで、むしろ私がお礼する方だから!」
 そのまま土下座しそうな勢いのロルフを、 は慌てて制止する。見目麗しきロルフにお嬢様と叫ばれつつ叩頭させる私は、何者かと思われるではないかと危ぶんだのだが、時既に遅かった。
「なんだ、こっちの方が主なのか。そんな格好をしているから、てっきり…」
「ラインハルト様、あまり詮索しない方がよろしいのでは?」
 ラインハルトが差しのべた手に掴まって、キルヒアイスは立ち上がった。そして、自分たちが助けた少女が何者であるか、興味を惹かれたように とロルフに視線を往復させている。
(…ばれてない、よね)
 数日前の博物館の少女だと彼らが気付きませんように、と は神に祈った。それくらいしか、 には出来ない。
 自分がお嬢様と呼ばれる身分であることは知られたようだが、彼らは の名を知らないのだ。自己判定では、ぎりぎりセーフだ。まだ、何かしら白を切ることも可能だと思いたい。
  は二人の表情を緊張しつつ観察し、何も言ってこない様子に一応は安心する。
  にとっては幸いなことに、彼らの中では博物館で蹲っていたディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーの知己らしき少女と、目前の平民姿の少女は一致していなかった。暗い部屋での一瞬の邂逅、しかも僅かな言葉の応酬のみでは気付く余地もない。
 元来ラインハルトとキルヒアイスは、すれ違っただけの他人の顔立ちを記憶するタイプでもなく、特に嫌な気分をさせられた相手を長く覚えているほど、ラインハルトも暇ではない。
 彼には、あんな少女よりもよほど気に食わない相手がいる。銀河帝国皇帝その人だ。
 まだ謝り足りぬという表情のロルフを宥め終えた は、いまだ幼い二人の銀河の英雄(予定)に向き直り、深々と礼を取った。未来に関わる思惑がどうであれ、助けて貰ったことには感謝しているのだった。
「どなたかは存じませんが、助けて下さってありがとうございました」
「お嬢様、そのように頭をお下げになるなど…」
 ロルフはやはり貴族の格のようなものに拘ったが、もとが庶民の には階級の差など関係がない。
「命の恩人だもの。普通の礼儀でしょ」
 そんなにご大層なものではない、とラインハルトもキルヒアイスも主張したかったものの、『お嬢様』と銀髪の少年のやり取りに、口を挟めなかった。
「旦那様方がお知りになったら…」
「内緒にすればいいの。ほら、この街にも立ち寄った事実なんてどこにもないから。それにロルフ、もうこれ以上は頼むからお嬢様なんて、街中で呼ばないで」
 これ以上、ラインハルト達の前で『お嬢様』を連呼され、身元が明らかになることだけは回避したいのだ。
 とはいえ、ラインハルトとキルヒアイスは、一連のやり取りから黒髪の少女が貴族である事実の糸口を得ている。ロルフの言動は使用人か従者のそれに見受けられるし、頭を下げる云々の会話で身分があることも予想でき、富豪の娘という可能性は消去されていた。
「よほどのご身分とお見受けしました。先程は…」
 キルヒアイスが咄嗟の事ながら突き飛ばした非礼を詫びようとするのを、 は首を振って遮る。
「いいえ、助けて下さったことには、感謝の気持ちしかありません。それに、フォンの称号を持つ者も上から下まで色々とありますし、私は大した身分にはありません」
(中身は完璧な一般庶民だし)
 胸の裡の呟きは口にはしないが、感覚的にはやはり平民と貴族の差など、 には理解出来ない。
 有難い恩を受ければ誰にでも感謝すればいいし、自分が間違ったなら詫びればいい。そうとしか、未だに思えない。
「だが、少なくとも使用人もいて、金に困らないような家柄だろう」
 ラインハルトの言葉が尖ったものになったのは、少女ではなく自身の身の上をふり返らずにはいられなかったからだ。
 少女の出自は、自分のような、姉を売り払うほど貧しい帝国騎士の家ではない、そうラインハルトは思う。
 それ以上は何も言わず、少女は苦笑した。ラインハルトには、それが肯定の意味に見えた。
 幼い令嬢が、何を目的に街中を歩こうというのだろうか。貴族であることと幼さの割に落ち着いた口調だが、供もこの少年しかいないというなら、危機感も乏しい世間知らずかもしれない。
(物好きか、酔狂か…)
 ラインハルトが値踏みするように少女を見分する隣で、キルヒアイスは変わらず困惑の色を浮かべたまま、この場をどう収拾するか頭を悩ませていた。
 何しろ、喧嘩の現場は人垣に取り囲まれている。細身ながら体躯の差のある男を二人も撃沈した美貌のロルフや、 を救ったキルヒアイス、ラインハルトを褒め称える口笛や野次が飛び交っていた。校内で幼年学校生同士と喧嘩をするのとは、訳が違う。公の事件ともなれば、キルヒアイスは友人と共に入学したばかりの場所から放逐されるかもしれないのだった。
 傍らに立つラインハルトの袖をキルヒアイスが引こうとした時、人垣の中から黒髪の若い青年がするりと抜け出して、騒動の原因である四人へ歩み寄ってきた。
「面白かったな」
 足音も立てない様子は、明らかに一般人とは異質だった。どうやら『お嬢様』の連れのようで、ロルフという少年が勢いよく噛みついたことで、キルヒアイスは青年の正体に見当をつけることができた。
「シュトルツァー軍曹、ようやくご登場か。貴方のせいで… が危ない目に遭われた! それでも護衛か!」
は無傷だ。それでいいだろう? 一応は見守ってたぜ。俺が出ようとしたら、そこの二人が渦中に飛び込んでいったんだ。赤毛は を庇って、金髪の美人が男の足を引っかけて噴水に飛び込ませたのは見物だったな」
 キルヒアイスは予想外の発言に驚愕し、目をしばたいた。護衛対象の危機に際して一部始終を見学していたと憚りもせず主張するなど、彼の中にあった護衛の概念とは全く一致しなかったからだ。
(カイルらしい…)
 飄々と悪びれる様子のないカイルに、 は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。常識の通用しない素敵な護衛である。
(本当に危なくなったら助けてくれるつもりだったんだろうけど…)
 とはいえ、カイルの性質について今更とやかく言えるものでもない。雇用を決断したのは自分で、彼が普通の護衛とは違う彼なりの基準で子爵家に雇われていることは、 も知っている。
「さて、そろそろずらかるか。警察やら憲兵の厄介になるって面倒は嫌だろう?」
 そのカイルが人混みを掻き分けるように近付く喧噪を察知して、 に提案した。子爵家一行としては、この変装が明らかになることは避けたい。
 ラインハルトとキルヒアイスも、この場にいることは得策ではないと視線を交わした。幼年学校生の二人は、乱闘騒ぎの反省文提出には既に飽いていたし、放校処分も歓迎できない。
 そのまま『お嬢様』たちとは別方向に駆け出そうとした二人だったが、当の少女にいつの間にか制服の裾を掴まれていた。
「申し訳ないけど、少しご一緒してください。ちゃんとお礼をしたいので」
「急げ。来るぞ」
 カイルは伸びた男達の懐からIDを抜き取り、見物人の一人に金銭と共に渡している。被害者は消えるが、目撃者としての証言を頼む、というところだろう。
 ラインハルトとキルヒアイスは、再び顔を見合わせる。
「どうなさいますか?」
「お礼をしてくれるというのなら、巻き添えになって落としたワッフルくらいは奢って貰おう」
  達は連れ立って、速やかに広場の噴水を後にした。



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