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 噴水広場を大急ぎで立ち去った 達は、誰も追ってこないことを確認しつつ、人影も疎らな公園へと逃げ込んだ。
 ひっそりと佇む大樹の下では街中の騒動を知らない鳩たちが羽休めをしていたが、慌ただしく駆けてきた足音に驚いたように羽音を響かせながら飛び立っていった。
 何度か深呼吸をして呼吸を整えた は、そっと横目で隣を窺った。全く疲れた様子もない、輝く金髪と見事な赤毛の二人が見える。
(勢いで連れてきてしまった…)
 一瞬の判断だった。
 こちらを観察しているようなラインハルトの蒼氷色の瞳と目を合わせ、 は敵意がないことを証明するよう微笑んだ。
 別方向へ走り出そうとしていた二人組の幼年学校制服を引っ掴み、同行してもらったのにはもちろん訳がある。礼をするためという単なる口実で、気持ちはあれど方便の要素が強かった。
  は閃いたのだった。子爵令嬢の身分を気にせず知り合えるのは、今しかないと。
 博物館で出会ったときは冷たくあしらってしまったが、彼らと繋ぎを作っておきたいのは の偽りない本音だ。
 だが、子爵令嬢 としての は、ラインハルトとキルヒアイスと知り合うにしても、純粋な好意だけで接することは困難だった。知己を得ようとするのは彼らが好きだからというよりは、動機に占める打算の割合が高いことは否定できない。
 何しろ、貴族の一員たる自分自身や 子爵家の命運もかかっている。つまり、皇帝の寵姫の美しい弟御と仲良くすれば嫌でも噂になろうし、子爵家の風聞にも関わる。今はまだ評判が左右されるだけで済むが、いずれラインハルトと門閥貴族の対立が表面化すれば、争乱の渦中に立たされる可能性もある。進んで子爵令嬢になった訳ではないが、身勝手な個人的欲求だけで彼らと仲良しになりたいと思えるほど、 は楽観的ではない。
 だからこそ、先日のラインハルト達との邂逅で は顔を上げられなかった。子爵令嬢の身分は重すぎるし、泣いて逃げ出していた状況で、悠長にラインハルトたちと会話できるはずもなかった。 しかし、今は違う。お忍びで街を散策するどこぞの令嬢という位置付けで、 は彼らと関わることができる。 や子爵家の未来を、とりあえず棚上げしても許される状況なのだ。
 つまり、『 』は『 』でいられる。
「先程は危ないところを助けて頂きました。本当にありがとうございます」
「とんでもございません。お怪我がなくて幸いでした。どうぞお構いなく」
 恐縮するようなキルヒアイスと違って、ラインハルトは謙虚とは言い難い態度で腕組みして言った。
「大したことはしていない。ただ、あの男たちに突き飛ばされてワッフルを落としたから仕返ししただけだ」
 人波を乱暴にかきわけ進んだ男に突き飛ばされ、ラインハルトは小遣いをはたいて買った貴重な休日のおやつを地面に落としてしまった。昨今の不自由も多い生活の中で、数少ない楽しみを目の前で奪われた憤慨たるや、言葉に尽くしがたい。
 腹の虫が治まらなかったラインハルトは男の背を追い掛け、喧嘩の現場に居合わせることになった。少女を助けたのは、鬱憤晴らしのついでだ。あの男が噴水でさぞや頭を冷やしただろうと思えば、気分がよかった。
 ふと先程の場面を思い出したラインハルトは小さく笑って、勇敢な少女を褒めた。
「ジェラートは、なかなか良いアイディアだった」
「あれは…咄嗟のことだったから。食べ物は粗末にしない主義だから、後悔しているの。まだ少ししか食べてなかったのに…」
  は溜息混じりにぼやく。緊急時であったから致し方ないものの、折角の美味しいジェラートを男の顔面にくれてやったことは残念でならない。
 そう思うと、甘い物が無性に食べたくなってきた。中途半端にお預けをくらったジェラートの分まで、お菓子が食べたいものだ。
 その気持ちは甘い物好きなラインハルトも同じだったのだろう、礼をすると が言えば、彼は固辞したりせず、あっさりと頷いて要望を伝えてきた。
「礼なら、喧嘩の巻き添えで落としたワッフルを買ってもらいたい。出来れば、ぼくとキルヒアイスにそれぞれ5つくらい」
「5つでいいの?」
 むしろ、ワッフルだけで済ますのかと は問いたくなったが、正義感の強いラインハルトとキルヒアイスのことだから、仕返しのついでとはいえ殴られそうな少女を助けるのは当然のこと、すなわち大層な礼は不要ということだろう。
 それにしても何とも可愛らしい願いに、 の顔は自然と綻んでしまう。天才だなんだといっても、彼らも育ち盛りの少年には違いない。銀河帝国の未来に関わる小難しい話はさておき、食欲に忠実であることは悪くないだろうし、仲良くなるには食事を一緒にするのが一番というのが の信条でもある。
「本当はもっと沢山食べたいけれど、一気に食べるのはそれくらいが限界だ。そうだろう、キルヒアイス?」
「え、ええ、多分。けれど、よろしいんでしょうか?」
 キルヒアイスの戸惑ったような青い瞳に、 は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「お安い御用です。助けて頂いたお礼だし、ワッフルくらいなら幾らでも」
 とはいえ、ラインハルトやロルフの容貌は人目につきすぎる。さきほどの騒動から時間も経っていないので、彼らを伴って街中のカフェなどへは行けやしない。
  はカイルへと向き直り、お遣いを言いつけた。ワッフルに加え、飲み物やクッキーなども頼む。
「俺かよ」
「だってロルフは目立つから街中にはまだ戻れないし、私を守ってくれたもの。あ、別の場所でお仕事してたのは一応判ってる。いま考えてみると、襲ってこいと言わんばかりに飲み物を買いに立ったのは、あの男達の仲間を何人か引きつけて相手をしてたからでしょう。だけど面白がって傍観してた事実もあるので、その罪滅ぼしを雇用側としては求めたいの」
「わかったわかった」
 カイルは面倒くさそうな表情で踵を返し、移動距離を短縮しようというのか木立を突っ切って街の方へ戻っていったが、拒まなかったところをみると多少の良心の呵責はあったのかもしれない( の希望的観測であるが)。
 おやつの到着を待つ間、 達はゆるやかな陽射しに照らされた芝生に、互いに適度に余所余所しい距離をもって腰を下ろした。
 ロルフは苦虫を噛みつぶした表情で、しかし口に出してお嬢様の良家の子女らしからぬ振る舞いを咎めたりはせず、ハンカチを敷いた上に を座らせてくれた。
 双方が成り行きで向かい合っているために、気軽に世間話できる雰囲気にはならず、しばらく無為に昼下がりの平穏を味わった。ラインハルトとキルヒアイスは相変わらず を観察するよう窺っているし、 もまた彼らへの思い入れやら腹の底の思惑もあって、会話の糸口を探していた。
 とりあえず仮の名ではあるが名乗ろうかと思案しながら、 は寒気を覚えた。秋が深まりつつある季節柄、動かずにいると風が冷たく感じられる上、騒動で濡れた服が肌に触れると、その冷たさに背筋が震えてしまうのだった。
  が二の腕を抱くようにしたのを見て、ロルフが機敏に動いた。
「私のもので申し訳ありませんが、こちらをお召し下さい」
 素早く差し出されたダークブラウンのジャケットを、 は軽い礼と共に受け取って着込む。ロルフはそのままさりげなく移動し、風を遮るような場所に身を置いた。十五、六にしてこの気配り具合、 はいつも関心させられる。
 至れり尽くせりのロルフの奉仕を は断ったりはしないし、大仰な礼を言うこともなかった。なぜならば、子爵令嬢にとっては、身の回りの細々とした仕事を使用人に任せることもまた『仕事』なのだった。
 最初は随分と自分自身の常識(自分でできることは、自分でするという当たり前のこと)を捨てられず無理を通そうとしてしまったが、そうするとゼルマやロルフ達をはじめとする使用人の立つ瀬がなく、また給金を貰う根拠がなくなってしまうのだった。
 だから は彼らが自発的に行う諸々の気遣いには異論をとなえないし、有難く受け入れるようにしている。使用人のいる場で自ら窓や扉を開けてしまい、謝罪と共に平伏される回数も、令嬢らしさを意識して心がけ半年経った最近ではだいぶ減った。
 高貴な身分など縁遠い一般家庭で生まれ育った にとっては色々と神経を使う環境ではあるのだが、傍から見れば贅沢にも人を使うことに慣れた少女にしか当然見えない。

 平民の格好をした少女の世話を焼くロルフや、それを受ける少女の所作に、ラインハルトとキルヒアイスは改めて彼女の身分を想像した。ラインハルトはなぜ貴族令嬢が平民の格好で市井にいるのかという、もっともな疑問に対して優れた脳細胞を活性化させたが、途中で馬鹿馬鹿しくなって思案を止めた。
 身分。それが何だというのだろう。別に誰がどんな格好をして、どこを歩こうと、当人の勝手ではないか。
 幼い貴族令嬢の行動を奇行と判断する根拠は、帝国の慣習にあった。忌むべき規則に無意識の内に囚われていたことに、ラインハルトは僅かに苛立った。
 いつの日か、古い血を拠りどころにして盲目的に自身の怠惰と傲慢を許している奴らなど、この手で一掃してやるのだ。姉を奪い去った皇帝も、そして腐った黄金の城と取り巻く貴族も、すべて。
 だが、秀でた頭脳の持ち主なら新たな銀河帝国の支柱となってもらっても良い。身分が全てという世を否定するのだから、ラインハルトも貴族の全員が愚かだと決めつけている訳ではなかった。ただ、これまでの10年の人生の経験で出会った貴族と呼ばれる人物の圧倒的多数は、尊敬に値しなかった。
 この黒髪の少女は、さて、どうだろうか。言動を見る限り、思考力が死滅している訳ではないらしいし、しばしば貴族が罹患している居丈高という病にも縁遠い様子だ。
「こうして黙って座っているのも手持ち無沙汰だし、自己紹介でもしませんか?」
 会話の口火を切ったのは、少女だった。
「ただ、あいにく私はこうして街中を出歩いている関係上、本当の名をお教えすることができませんので、 とお呼び下さい。彼はロルフです」
 風聞を気にする貴族ゆえに、身元は伏せたい意図は理解できる。だが本名ではないと告げられて気分が良いはずもなく、ラインハルトは素直に名乗ることが癪だった。
「ずいぶん虫が良い話だ。自分は本当の名を明らかにしないで、他人の名を訊こうというのか?」
「自分でもそう思うけれど、こういう格好で市井を歩くことは褒められたことじゃないし、出来る限り公にはしたくないんです。じゃないと、またお忍びで街歩きができなくなってしまいます」
 少女の傍らに控える銀髪が美しい少年の顔が僅かに歪んだのを発見し、どうやら と名乗る少女の行状にロルフは反対しているらしいことを、ラインハルトは悟る。
「それに、あなた方も偽名を名乗って下さっても構いません」
  の提案に、ラインハルトは憮然とした。
「さっき、ぼくたちが呼び合っていたのを聞いていたろう」
「はい」
「幼年学校生だということも制服で一目瞭然なのだから、調べればすぐに本名はわかるだろう」
 少女を助けた際に、ラインハルトはキルヒアイスの名を何度か大声で呼んだ。それにキルヒアイスも、普段の癖で友の名を会話の端々にのぼらせていた。その手がかりを幼年学校生徒の名簿と見比べれば、二人の名など簡単に調べがつく。ラインハルトという名は他にも何人かいるだろうが、キルヒアイスという名は珍しい。それに加えて金髪と赤毛という身体的特徴を挙げれば、幼年学校内で誰に尋ねても『あの』ミューゼルとキルヒアイス、という答が返ってくるはずだ。
「そうですね。では、こうお呼びしてもよろしいですか、ラインハルト様?」
「ミューゼルだ。ラインハルト・フォン・ミューゼル」
「ミューゼル様ですね。そして貴方は…」
 ラインハルトが名乗ったことを受けて、キルヒアイスも自らの名を申し出た。
「ジークフリード・キルヒアイスです」
「キルヒアイス様。ミューゼル様。こうして出会えたのも、オーディン神のお導きでしょう。お知り合いになれて嬉しいです」
  の台詞は帝国においては初対面の際の定型文句だったが、真実オーディンがこの出会いに関わっていたことを は知らない。
 外面は令嬢生活で鍛えたおすまし笑顔だが、 の内心はラインハルトとキルヒアイスに名を呼ばれるという場面に少々浮き足立っていた。 となったことも、宇宙へ行けたこともそうだが、人生で得難い体験をしていると思えば感慨深い。物語の主人公に出会い、名を呼ばれながら会話して、これで近日中に元の身体に戻れれば としては言うことはない。
「ところで、フロイラインは何故お忍びで街歩きをなさっておられたのか、お訊ねしても?」
 だがキルヒアイスに穏やかな声音で語りかけられ、海のように青い瞳に見つめられると、 は少しだけ切なくなった。
 彼はいずれ友を庇って死ぬ。早すぎる死は、これから約10年後に彼の元を訪れる。
(こうして目の前で喋ってるのにね)
「答えてもいいけど、お願いがあります」
「…なんでしょう?」
「貴方の赤毛、少し触ってみたいです」
「ええ!? 僕の、赤毛ですか?」
 思わぬ願いの内容に、キルヒアイスは勿論、傍で会話の成り行きを眺めていたラインハルトとロルフも唖然とした。
「そんな素敵な色、はじめて見ました。だから、触ってみたいな、と思ったのですが…」
「え、ええ、その、特別なことは何もない髪の毛ですが、そう仰るなら…」
 別に毟ろうという訳でもないだろうと、キルヒアイスがたじろぎながらも頷こうとすれば、ラインハルトがやや怒った口調で会話に割り込んだ。
「こんな得体の知れない奴に、キルヒアイスの髪を触らせる必要はない! 街歩きの理由なんか知らなくても、誰も困らない!」
「まあそうですね。言ってみただけです。触りたいというのは本心ですが、こんなことで取引するつもりはありません」
 ラインハルトの怒気をくらって、 はあっさり『お願い』を引っ込めた。感傷についキルヒアイスの存在を改めて直接確かめたくなっただけで、触れたというのなら先程の喧嘩で助けて貰った時にも体勢としては抱きしめられていたのだ。それでよしとしておくべきだろう。
「今日の街歩きの目的は、まず第一にハンバーグを食べること、第二に平民の暮らしぶりを見ること、です」
「…前半の理由はともかく、平民の暮らしぶりを見てどうするんだ?」
 思わず声を荒げたことを恥じつつも、ラインハルトは答の真意が気になって問いを重ねた。
「色々…普通を学ぼうと思いまして」
「貴族の暮らしが普通ではないと考えられる頭はあるみたいだな」
 平民の暮らしを知ってどうするか。ただ銀河帝国のことなら何でも興味があったというのが本音だが、ラインハルトの質問は、貴族令嬢が平民の生活を知ってどうする、という意味だろう。
 ラインハルトの軽い挑発に、 は笑顔で応じる。
「帝国臣民は250億人いるけれど、貴族はその内のほんの数パーセント。私の日常では、その圧倒的少数派しか知ることが出来ない。そんなこと多少の知恵があれば、誰でもわかります。そして、圧倒的多数の平民の存在の上に貴族の生活が成り立つことも。貴族としての義務を考えれば、市井を知らないままでいるのは問題があると、そう思ったんです」
 我ながら知恵を見せびらかすようで、気分が悪かった。
 しかし、ラインハルトやキルヒアイスに関心を抱いてもらうには、自分は普通の貴族令嬢ではないという部分を前面に出せば済むという計算は、単純なだけに効果的だろう。身体と精神のギャップを、 は意図的に利用することにしたのだ。
「なぜ、知らなければ問題だと思う?」
「臣民の圧倒的多数が幸福になることを考える存在が、貴族だから。何が幸せか、何が不幸かを知る必要があります」
「それで、今日の街歩きで君は何を知った?」
「人気のハンバーグ定食が7帝国マルクで食べられること、オーディンでは林檎がひとつ3帝国マルクもすること、真昼の市街地でも柄の悪い人間が闊歩していること、などですね。あとは、幼年学校生にワッフル好きな元気の良い金髪と赤毛の二人組がいること、です」
  が微笑みをラインハルトとキルヒアイスに向けると、二人は神妙な顔つきを作ろうとして微妙に失敗した表情だった。言うなれば、笑いを堪えているかのように。
「変な令嬢だ」
「確かに、色々と普通とは言い難い考え方をなさると思います」
「お褒めに与り光栄です」
 二人の言葉を聞いても、今更という気しか起こらない。変に思われることなど、既に慣れてしまったし、今日のところは意図的にそう振る舞ったこともある。
 これで連絡先を聞き出して、あわよくば今後も継続的に会えればと は考えている。オーディンに来られるのは年に数回だろうが、身元を隠そうと思えばその程度が丁度良いだろう。

 会話が落ち着き、頃良くカイルが沢山の食べ物を両手に抱えて戻ってきた。
 ラインハルトとキルヒアイスにはワッフル5個と、飲み物、それに寮で食べられるようお土産のクッキーが与えられた。カイルは子爵家の面々の分も食料を調達していたので、 達は芝生でのんびりと歓談しつつ青空の下でのお茶を楽しんだ。
 とはいえ、珍しいメンバーでのお茶会は正味一時間にも満たなかっただろう。食べ盛りのラインハルトとキルヒアイスは、ワッフルをあっという間に平らげてしまったのだ。
 傾いた陽に空が次第に赤くなり始める頃、 はまず自分の連絡先(カイルが仕事用に確保している、調べられても足のつかないもの)を二人に渡した。
「できれば、またこうしてお話して下さい。お忍びで街歩きしていることをご存知なのは、今のところミューゼル様とキルヒアイス様だけです。ただ、私も頻繁に出歩けはしないので、お会いできるのは年に数回といった程度でしょうが」
 ラインハルトとキルヒアイスは、短時間の触れ合いながら風変わりな という名の少女のことが様々な意味で気になり始めていたので、あまり躊躇せず頷いた。話してみると少女の教養は驚くほど幅広かったので、二人は舌を巻かずにはいられなかったし、 との会話に楽しみを覚えるようになっていた。それに、身元がわからぬとはいえ少女は恐らく爵位持ちの家柄、ラインハルトとしては大望のために持てる駒は多ければ多いほど良いという計算もある。
「ぼくたちに連絡を取りたい場合は、幼年学校の寮に。部屋のヴィジホンの番号はこれ」
「ありがとうございます」
  はゲットしたラインハルトたちの電話番号を大事にポケットにしまい、別れの挨拶を告げた。
「お気をつけて。ごきげんよう、ミューゼル様、キルヒアイス様。またお会いしましょう」
「ああ、アウフヴィーダーゼーエン」
、君もまた襲われないように気をつけて下さいね。あと、良ければどうぞ」
 キルヒアイスは少し屈んで、 に向かって頭を差し出した。
(いい子だ…)
  は赤毛を触るついでに、キルヒアイスの頭を撫でた。できれば、ずっと元気に、ラインハルトと仲良くいて欲しいという願いを込めて。
 ラインハルトとキルヒアイスは一度だけ背を返して手を振り、輝くような笑顔で笑い合いながらそのまま駆けていった。
「物凄い偶然もあるもんだ。ミューゼルとはな。ばれなくて良かったな、
 カイルが意地悪な表情で口笛を吹き、 は全くその通りと大きく頷いて、暮れ行く空を眺めた。
 良い一日だった。騒動はあったものの、普段は見られぬ街を見て、美味しいハンバーグを食べ、ケスラーに加えラインハルトとキルヒアイスとも知己を得ることができた。とりあえず 子爵家の未来は棚上げ状態だが、いずれゆっくりと彼らと子爵家の兼ね合いも考えよう。
「さて、そろそろ俺たちも引き上げよう。着替えに服屋に寄って、ホテルに向かうぞ…と、通信か」
 カイルの言葉が言い終わらぬ内に、軽い電子音が一斉に複数地点で鳴った。 、カイル、ロルフの三人の手元の通信機が、応答を求める声を同時に上げたのだ。あまりのタイミングの良さに、三人は思わず誰からの通信かを口にした。
「私はお祖父様からだけど」
「俺はヘルツ大尉から」
「私は母からです」
 通信に応じる二人の傍で、 も首を傾げつつ通信ボタンを押した。
 そして通信画面に現れたコンラッドの言葉に、ただ目を見開いた。
 あの日、 になってしまった日のように、 は茫然自失となった。
 視界の端で、カイルとロルフが顔色を失ってこちらに近付いてくるのが見える。
  は、無駄と知りつつもコンラッドに問い返さずにはいられなかった。
「それは…それは、本当ですか、お祖父様。本当に…」
「嘘ならばどれほど良いだろう、 。そうだ、本当のことだ。つい先程、クラウスから連絡があったのだ。カールと…ヨハンナが、死んだと。 、お前はすぐに宇宙港へ向かいなさい。私もホテルを出て、急ぎ向かっている…」
 コンラッドの声が遠い。 はそれから、どのように自分が答えたのか、よく思い出せなかった。



  子爵家の戦艦アウィスがオーディンを慌ただしく出立した後、貴族向けの新聞の片隅に小さな記事が載った。
 それは 子爵家当主夫妻の訃報を伝えるもので、故人がパランティアの英雄の息子夫妻であったこと、そして夫妻には という名の一人娘がいるのみ、という説明が書かれていた。
 ある者は記事に驚き渡航の手続きを始め、ある者は手紙を書き始め、ある者は誰も知らぬところでほくそ笑んだ。
 だが、銀河の大部分の人々は、 ・フォン・ という名の少女をいまだ知らず、その存在は星の彼方に埋もれたままだった。


Act1.終



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