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  子爵家一行のオーディン滞在日程も、残すところ二日となった。
 最終日は子爵領への旅路の準備や宇宙港への移動などで自由に過ごせるわけではないから、実質的にオーディンの街中を歩き回れるのは今日が最後である。
 コンラッド祖父様は政務の一環として本日も誰かしらと面会予定のようで、買い物へ行く は幾つか頼まれものを請負うことになり、電子通貨のカードを渡された。
、買い物の仕方はわかるな?」
「勿論です、お祖父様」
 真面目な顔をして問うてくるコンラッドに、 も笑うでもなく大きく頷いた。
 馬鹿馬鹿しいにも程がある質問、とは も言い切れない。侮ってはいけない、これこそ帝国貴族の令嬢クオリティなのである。つまり、良家の子女は現金を用いた現物購入などしないし、基本的に物を売る店先にだって行かない。服などは屋敷に来た仕立屋による注文誂えであるし、品物ごとに屋敷に出入りする商人が決まっていて、予め買いたい形や色など希望を伝えるとその通りの品物を持ってくるので、そこから選んで買うという仕組みだ。
 そのような一般常識がまかり通っているため、 は子爵家令嬢となってこのかた一度も自分の手で金を払ったことはなかった。基本的に金銭のやり取りは、使用人の仕事なのである。
 とはいえ一応は寿司関連の商売を始めるにあたって、 も銀河帝国の通貨の仕組みについて学んではいる。
 広大な宇宙にまたがる領域を収める銀河帝国は、電子通貨と現金通貨の二本立てで経済を動かしているのだという。電子通貨はクレジットカードみたいなものなのだが、さすが階級意識の強い帝国、電子通貨の利用は基本的に貴族階級のみの特権とされているらしい。実体を持たない通貨だからこそ、身元の信用が大事なのだという。
 そんな状態で惑星間貿易が可能なのかという疑問が浮かぶが、宇宙をまたいだ商取引は殆ど貴族に牛耳られているか貴族子飼いの関連企業が行っているため、特に問題ないらしい。銀河帝国において貴族の優越は決定事項だから自由競争万歳となるわけもなく(むしろジークカイザー!)、平民が広い範囲で商売をしようと思えば、『うまくやる』必要がある。つまり、貴族にゴマをすらなければならない。そうして貴族は更なる私腹を肥やし、新たな利権を獲得するという構図である。このように貴族と平民の身分の壁は、経済面も含めて果てしなく高い…はずだった。
(まあ市場があれば豪商が出てきて、権力持つようになるのが普通だわ)
 歴史の行く先を心に秘める は、現在のゴールデンバウム王朝も末期にあることを知っている。
 政治やら体制が腐敗するとどうなるかといえば、建前が崩れるというわけである。貴族の中にも貧乏人が出てくるし、平民でも権力を持つ者が存在するようになる。だから貴族であっても現金通貨しか用いることができない家や、平民でも貴族からの圧力もなく電子通貨を使用する層(例えば貧乏貴族から名義だけ買って、電子通貨カードを作ってしまうとか)が出現する、と説明してくれたのは経済学担当のシルヴァーベルヒ先生であった。
 実際にカイルなどは幾つも電子通貨の名義を持っているようなので、何事も抜け道は存在するということを証明してくれている。とはいえそれは、彼の仕事柄から来る必要に迫られてかもしれない。
 コンラッドを見送って、 の手元に残されたカードを一瞥したそのカイルは、半分感心したように言った。
「さすが大旦那、太っ腹だな」
「何が?」
「そのカードは信用度が一番高くて、限度額ナシで何でも買える種類だ。民間用なら宇宙船だってすぐに買える」
(それでいいのか祖父様…信用されてる、って事なんだろうけど…)
 華美な生活を好まないコンラッドが大黒柱の 子爵家もやはり貴族、彼らの買い物ぶりといえば には眩しすぎた。
(こりゃ経済観念なんて、育つ訳がない)
 こちらのお金について習い、初めて がヨハンナの買い物風景を目の当たりにした時の感想である。何を買うにも値段を訊いたりせず、あれ、これ、それ下さいな、で済ませるヨハンナに度肝を抜かれたものだ。それだけ金を心配しなくても良い環境ということだろう。
  の父カールの絵画蒐集癖、そして母ヨハンナの貴族の流行おっかけ具合いもさることながら、実はコンラッド祖父様だって結構ザルな経済感覚をしている。物欲が乏しいようで浪費に走ったりはしないが、基本的に身の回りの品の値段など気にかけないようである。以前 がねだった三次元ホログラムの装置だって、後に調べてみると目の玉が飛び出る値段だった。あちらの世界でお高い外車が買えてしまうくらいの価格だったので、買って貰った手前、活用せねばと毎日のように使用していた だった。おかげで軍学に対する興味が山盛りの孫娘というコンラッド祖父様の誤解を引き起こし、授業にハッスルされた経緯もあったりする。
 そのような人々に囲まれて暮らしている の毎月の出費額は、クラウスには少なくもないが多くもないと評価されている。
 身に染みた金銭感覚は失われてはいないものの、金を使うことに萎縮しているようでは貴族の毎日の暮らしに平気な顔をしていられる訳がないのだった。家庭教師を雇うにもお金はかかっているし、着るもの食べるものだって高級品ばかりだ。今のところはその恩恵に与って、いつか自分で沢山稼げるようになったら子爵家や領民たちに還元しようと、 は随分と前に頭を貴族モードに切り換えた。以降は、基本的に読みたい本やデータがあれば好きなだけ取り寄せ、趣味の懐かしの食べ物研究に金をつぎ込み、食べたい菓子も注文し放題である。とはいえ、庶民の感覚は抜けきらず、大きな買い物はやはりできそうにないし、高級品に囲まれて落ち着くということは全くなかった。
「ところで」
  は仁王立ちをするように胸を張って、カイルと向き合う。
「今日はロルフも一緒だから、この前のようなことがないように…お願いします」
「あっちが突っかかってこなければ、問題ない」
 飄々と言うカイルは先日の一件に関してロルフに対するわだかまりはないようだが、人を挑発するような言動も多いので、まだ少年のロルフを激発させないか、 としてはそれが気がかりだった。一応、面と向かって釘を刺したつもりではあるが、カイルは人の言うことを素直に聞いてくれるようなタマである訳がなく、できるのは要請という名のお願いだけだった。仲裁役にうってつけなヘルツ大尉は、本日は非番で不在である。オーディンでの休暇の間に、辺境にいるとなかなか会えない家族や友人を訊ねると言っていた。
(何事もなく済めばいいけど…)
 いざという時には暴力沙汰にならないように注意しようと心に決め、外出の予定時刻を迎えた は、ロビーに佇みつつその容姿で人目を集めていたロルフと合流した。 の背後にいるカイルに対して、ロルフは数秒にも満たない一瞬の視線を送っただけで、クールビューティーな表情を変化させることなく軽く頭を下げた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、ロルフ、今日はよろしくお願いします」
 清々しいまでのスルー加減である。無論、本日は共に護衛役を務めるカイルに対する挨拶はない。
 ロルフのこの日のお役目は、母ゼルマにかわって(彼女は本日はヨハンナご依頼の品を買い付けに回っているところだ) 付きの使用人兼、ヘルツの穴を埋めるという立場だ。彼も 子爵家に仕えるエーデルバーグ家の長男、そして万能執事クラウスの子であるから、様々な知識や技術を習得しているのだ。
 地上車に乗り込み、 は回るべき幾つかのポイントを数え上げていった。食事とおやつで寄る場所は決まっているため、その間をいかに効率よく移動するかという観点から、予定を検討する。
「午前中にお祖父様からの頼まれ事は、済ませてしまいたいかな」
「どのような物を、コンラッド様はご所望なのですか?」
「もうすぐお父様のお誕生日だから、私が良いと思った手頃な絵を買ってこいと言われたのだけれど…」
 実際、かなり無茶振りをされたと思う。あちらは絵画鑑定家にでもなれそうな熱意で絵を探求している人物で、対する自分は美術関係は全くうといのである。流行の絵画スタイルも不明、モチーフも不明、画家も不明。何を基準に選んだら良いのかわからないとコンラッドに訴えたが、お前が選んだ物ならそれだけでカールにとっては価値がある、と言われてしまうと確かにそうかもしれないと納得してしまった だった。
(確かに、あの人が喜ぶ物と言ったら娘関係、かつ絵画関係に違いないし、コンラッド祖父様の目の付け所はぴったりなんだけど、いかんせん、絵なんて全くわからん)
「どこで買えばいいのかな?」
 首を傾げた に、ロルフはしばらく考えを巡らせた後、応えを返した。
「画廊が並ぶ通りがあります。そちらを何軒か回ってみましょう。…シュトルツァー軍曹、マリーエン・シュトラーセへ」
「了解」
 運転手を務める(自動走行はカイルが嫌がった。安全性を配慮して自分で運転するのが良いと言ってハンドルを握っている)カイルは、地理をばっちり把握しているようで、位置情報も確認せず地上車を走らせる。
 現状では二人は業務上の必要からの会話は滞りなく交わしており、事務的なやりとりを見る限り特に問題ないようだ。誰しも初対面で仲の良さがマックスになるわけでもないのだし、のんびりと時間を過ごせば親密度も多少は上がるだろうと、 は楽観的に構えることにした。二人とも分別のつく歳なのだから、自分たちで何とかうまくやるだろう、そう思って。
(それにしても、この前の騒動は結局の所、なんで起こったんだろう?)
 ここ数日の怒濤の出来事にゆっくり考える暇もなかったが、その点だけは腑に落ちない だった。

 ショーウィンドウから中を眺められる造りの画廊が軒を連ねるマリーエン・シュトラーセへ到着すると、ロルフはまず界隈で最も名の知れた画廊であるガレリー・ゲッティン(女神画廊、という名でロルフとしては安直に過ぎると思わなくもない店名だった)へと子爵家の小さな令嬢を案内した。
(気圧されてしまうだろうか)
 オーディンでも大貴族御用達の店で、店構えも内装も超一流である。普段、店先で買い物をすることなどないはずの少女は、不慣れで不安を抱くに違いない。
 それに画廊で絵を買うという行為には、多少の交渉術も求められる。上客と思わせられなければ良い品を見せてはくれないし、値段でも足下を見られるだろう。そのときには自分が彼女の面目を潰さぬように、さりげなく助言を差し上げるようにしよう、ロルフはそう思っていたのだが、蓋を開けてみればそんな心配は無用だった。
 そもそも、その店で ・フォン・ は、絵を買わなかったのである。
「いらっしゃいませ、本日はどのようなものをお探しでしょうか?」
 初っ端から は恰幅の良い画廊の女主人に無視をされた。彼女が声をかけた相手は、明らかに小さな少女ではなく、その傍に控えていたロルフだった。貴族やその使用人といった立場は服装で見分けられるものだが、名高い画廊として貴族相手の商売をこなす女主人がそのコードを知らぬはずもない。
「目の色変わっているな。美人は大変だ」
 少し遅れて入ってきたカイルは、 に小さく耳打ちした。
 画廊を経営して、そこそこ成功しているからには絵画の目利きは確かなのだろう。ロルフ・エーデルバーグの神がかった繊細な作りの顔立ちは、さぞや彼女の審美眼にかなったに違いなかった。
「クォーレル・フォン・ギーロの無憂宮殿遠景などいかがかしら? ブローデル作のルドルフ大帝の胸像もございますよ」
「私ではなく、主人へお訊ね下さい」
 ロルフは愛想を見せず、女主人の前のめりな推薦をいなした。
 冷たくあしらわれた形になったゲッティン画廊の主が、ロルフの傍らにいた を上から下まで素早く視線で走査する。
(品定めされてるなー)
「フロイライン、よろしければ店内をご案内致しましょうか?」
 ロルフは令嬢の様子を窺い、口を挟むかどうか一瞬、迷った。遠慮を告げるだろうか、それとも頼むだろうか。案内を頼んで、口車に乗せられてしまわないだろうか、嫌ならばちゃんと断ることができるだろうか。
様は、人見知りをするご様子もあったから)
 半年前、いや親しく会話を交わしていたのは、もう一年以上前で、当時の令嬢の性格ならば、まず頷くのではないかとロルフは予想していた。
 しかし月日は流れ、人は変わるということだろうか、黒髪の少女はあっさりと女主人へ返答したのだった。
「お気遣いありがとうございます、フラウ。けれど一度、一回りしてからお願い致します」
  は申し出を辞退して、壁に掲げられた絵を自分のペースで見て回ることにした。どうせ絵画に関する知識など脳内にひとかけらも入ってないので、説明されてもわからないに違いなかったし、先入観なしに直感で選ぼうと はすでに決めていたのだった。
 そうして画廊内を一周した は女主人の営業トークをかわして、参考としてある風景画の値を聞いた後、すぐに店を出た。
「どうぞ、またおいで下さいませ」
 そう言う女主人の顔に優越感が浮かんでいたが、意味を言葉にすれば、田舎くさい辺境貴族がお高い画廊は合わなかったのでしょう?というところだろう。会話の中で 子爵家の者なのだと告げた時、薄ら笑いに滲み出た感情を、 は確かに読み取っていた。
 だが、 は憤ることもなかったし、ちっともそのようなことは気にならなかった。実際に、ガレリー・ゲッティンに展示されていた絵は、どれも を辟易させていたのだった。ルドルフから始まる歴代皇帝の絵や宮殿が必ず入る風景画ばかりで、全くつまらない絵ばかりだ。皇帝の偉大さを称える絵が貴族には需要があるということだろうか。
(偉そうな顔したおっさんの絵なんか飾ってもね…)
  子爵家の屋敷内には数多くの絵画がかかっていて、その中には無論、その手のゴールデンバウム王朝絡みのものもある。とはいえカールの絵画好きが高じてか、それがナンバーワンというように存在するのではなく並んだ絵の中の一つという風情であったし、 もさほど押しつけがましい威圧感を覚えることもなかった(それ以前に、大して気にしていなかった、ともいう)。
 しかし、自分で選んで買う段になると、どうもルドルフ云々は買おうという気がしない。
「こちらはお気に召しませんでしたか?」
「うん。あっちはどうかな?」
  は躊躇なく頷き、左右のショーウィンドウをきょろきょろと見渡しつつ歩き出した。
 あえて先程のガレリー・ゲッティンに似た店構えの画廊は避け、さほど大きくない店舗が並ぶ一角へと進んでいく。
「こちらは…平民の出入りも多い画廊が並ぶ場所です。戻られた方が…」
「別にそれは構わないのだけど…ぴんと来るのが…あ、あれ、ああいう雰囲気がいい」
  はオーディンの街並みの夕暮れ時を描いた一枚の絵に惹かれ、先程の豪華な画廊とはほど遠い質素な雰囲気の店に足を踏み入れた。

 扉にかけたガレリー・コリントと刻まれた小さな看板が、来客を知らせる鈴とともに音を立てた。
「いらっしゃい……ませ」
 奥の机に座っていた初老の店主のコリントは、最初は笑顔で手元から顔を上げて一時停止し、しばらくして言葉の続きをようやく口に出した。
 明らかに貴族の格好をした少女と、その従者と思しき男(一方は若いようで、更に珍しいほどに顔立ちが整っている)が二人という組合せは、正直なところ自らの名を冠した店を構えて二十年、一度も迎えたことがなかった。
 なぜこんな場所に、という困惑を隠して店主は立ち上がった。貴族と関わると碌な目に合わないから蛇の巣に自ら手を突っ込むな、というのは帝国では知られた平民の心得の一つである。
「生憎、この店にはお嬢様のお眼鏡にかなうものがあるかわかりませんが…」
「そこに飾られた夕暮れの絵が見たいのですが、よろしいでしょうか?」
 店主は先程と同じく、驚きに時の流れを止めたように動けなくなった。丁寧な口調で話し掛けられることがあるとは、彼の中の貴族の印象からするとありえないことだった。
「あの?」
 首を傾げて見上げてくる黒髪の貴族らしき少女に、店主はぎこちなく頷いて絵の正面を譲った。
「うん、素敵。ひとつひとつ家が丁寧に描かれてるし、色も温かい感じの絵だと思わない?」
「俺に聞くな」
「このオーディンの街並みは下町のようです。貴族はあまり描かない題材ではありますが…店主、この画家の名は?」
「あの…まだ無名で巷では殆ど知られておりませんが…」
「無名の者の絵であれば、どの程度の価値かわかったものではありません、お嬢様」
「誰が何を描くのかが問題じゃなくて、絵って見て何を思うかじゃないの? 私はこの絵が好き。という訳で買います。幾らですか?」
 店主は絶句した。貴族の娘が平民の暮らす家の絵、しかも無名の画家が描いた絵を好きとは、彼の想像を越えた発言だった。さらには交渉も何もなく、率直に値段を聞くことも普通はありえない。それは、言い値で買うと宣言するに等しい言葉なのだ。
「お嬢様」
 麗しい顔立ちの銀髪の少年が窘めるように言うが、黒髪の令嬢は構わずもう一方の従者を呼び、電子通貨のカードを出させた。
「私、今は旅行中で明日にはオーディンを離れなければならないので、今日中に絵を頂いて帰りたいのだけれど、準備して頂けますか?」
「は、はい、勿論でございます。しかし…」
 店主は口ごもらずにはいられなかった。この店では電子通貨での決済ができないのだ。だが出来ないと言って、折角売れたはずの絵が買って貰えないのは頂けない。
 その躊躇をいち早く察したのは、黒髪の年長の従者の方だった。
「電子通貨はこの店では使えないみたいだな。近辺に銀行はあるか?」
「ございます」
「換金して来よう。いくらだ?」
 鋭い琥珀色の目で睨まれると、店主は嘘の値段を言うに言えず、口元を戦慄かせた。嘘がばれれば、貴族のことだ、どのような仕打ちを受けるかわからない。それならば正規の値を告げて快く買い上げて貰った方が良い、そう思った彼は悪の誘惑を断念した。
「200帝国マルクでございます」
「え?」
 高級そうなドレスを纏う少女が驚いたような声を上げたので、店主はびくりと肩を震わせざるを得なかった。正規の値であっても、正直なところもう少しの値引きは可能なのである。彼の見立てでは、夕暮れの街並みを描いた絵は150から200帝国マルクが相場だった。
 彼は慌てて言い繕った。
「も、もう少しお安くすることもできますが…」
「いえいえいえ、そうではないの。むしろ、こんなに素敵な絵なのに、そんなにお値打ちなのかと驚いたの。さっきガレリー・ゲッティンで見た風景画はさっぱり良いとも思えなかったのに、これの千倍の値はしたんです」
「はあ…あそこは大貴族の方々向けの仕入れと売値でしょうから。こんな平民向けの、しかも無名を集めたような店では200帝国マルクでも高値の方なのです。駆け出しの画家に頼まれて並べているものもあります。いえ、ちゃんと私自身が良いと思ったものだけですが」
 少女は目を凝らして、絵に見入っている。右から見て、左から見てと光の当たり具合で変化する絵の表情を見つつ、絵の隅に入れられた署名を指さして言った。
「この画家の署名ですよね。崩されすぎていて読めないのだけれど、この絵を描いたのは誰なのです? もし他にも同じ人の絵があるなら、少し見てみたいなぁ」
「ああ、壁にかけていないのですが、こちらにありますよ。実はその作品は連作の一つなのです。画家の名前は、確かエルネスト。エルネスト・メックリンガーです」
「え、メックリンガー?」
「ご存知でしたか?」
 机の裏の箱から駆け出しの画家が置いていった数作品を持ち上げ、壁にあった別のものと入れ替える。夕暮れの絵が最も出来映えが良いからかけていたのだが、朝と夜、そして雨の日の同じ場所からの風景を描いたものを全て並べてみると、随分と趣深くなった。こうして飾る方が、絵が映えたかも知れないと店主は思い直す。しかし、メックリンガーという画家は別に単品で売っても良いと言っていたので、とりあえず一つを飾っていたのだ。
「うん、素敵ですね。これ、全部下さい」
 少女は事も無げに述べ、店主はさすがは貴族だと唖然とするしかなかった。一目しか見ていないはずなのに、全て即断即決で買おうとは剛毅である。
「一枚が200帝国マルクで、4枚だから800帝国マルクね。でも1000帝国マルク出します」
「なに自分から吹っかけてるんだ」
 眼光の鋭い護衛が呆れ、銀髪の少年は口を噤んだまま何も言おうとはしなかったが、恐らく心情的には彼と同様だったろう。
「よろしいのですか…?」
「ええ、それだけの価値があると思うから。と言うわけで、カ、じゃなかったレクス、換金をよろしく」
「お嬢様、私が参ります。引き出しの確認は、エーデルバーグの名前を出した方が早く済みますので」
「そうなの?」
「当家は子爵家の様々な代行を行っています。私のID確認だけで、換金が可能な手配があらかじめなされておりますので」
「2000帝国マルクを現金に換えてきてくれる?」
「…わかりました。しばしお待ち下さい」
 店主は、貴族の使う電子通貨には煩雑な手続きが多いものだと思いつつ、思わぬ収入に喜ばずにはいられなかった。店を出て行った銀髪の少年の帰りが待ち遠しい。彼はきっと、金貨を何枚も抱えて戻るのだから。
 そして五分と経たず戻った若く美しい顔立ちの少年から、4枚の絵と引き替えに1000帝国マルクを受け取り、店主は頬を緩めて幸運をもたらした貴族令嬢の一行を見送った。
 彼はこの話を周囲に言い触らしたが、惜しむらくは、少女の家名を訊き損ねたことだった。話を聞いた同業者は、誰しも黒髪の貴族令嬢の名を知りたがったのに、彼はその答を持たなかったために随分とブーイングを貰ったのである。
 マリーエン・シュトラーセの端で手狭な画廊を持つ店主は、その後、店の面積を拡大させることにも成功した。
「きっとこの画家の絵は、十年か二十年後には今の値の100倍にはなります。上手くいけば、1000倍にもなるかも。だから、今の内に買い占めて置くのがいいかもしれませんよ?」
 彼にとって、黒髪の少女は幸せの運び手に違いなかったし、それから名を知り、10年経ち、20年経ってもその事実は変わらなかった。



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