「急に逃げ出して、ごめんなさい」
ディートハルトの姿が去ってすぐさま、
は先手必勝とばかりにカイルとヘルツに対して頭を垂れた。そして恐る恐る顔色を窺うように視線を上げると、呆れた表情の二人が居た。
(うう…謝るだけって虫が良すぎ?)
他人の迷惑を顧みない行動を取ったことは
も重々承知している。いくら日頃から気安く会話を交わす間柄とはいえ、
とは違って彼らは仕事として護衛の任に当たっているのだ。
が身勝手に歩き回って、その間にもしものことがあれば簡単に首が飛ぶ可能性のある立場なのだった。別世界からやってきたとはいえ、その辺りの責任の処され方は理解できているので、
は謝罪する以外に彼らに対する方法を見つけられなかった。
「
様…」
「なに考えてるんだ、お前。開いた口が塞がらないってこういうことだよな」
溜息混じりに言われて、ますます縮こまる他ない。気が動転して感情的になりすぎた先刻の自分に落ち込みながら、
はしどろもどろに一応の説明を試みるものの、肝心の真実の部分を語れないだけに、何とも頼りない言い様にしかならなかった。
「ご、ごめん…なさい…その、泣いてしまったのが恥ずかしかったというか、どうすればいいのかわからなかったというか…それで…」
「別に言い訳聞きたいんじゃないんだ。おい、ヘルツ大尉、俺たちが呆れてる理由、教えてやれば?」
カイルが片手を腰に当てつつ、左手で横に立つ栗色髪の青年士官の肩口を軽く叩き、水を向ける。
指名されたヘルツは進み出て、先程のディートハルトがしたように片膝を床につけて屈み込み、沈んだ風の少女の黒い瞳に己の視線を合わせた。そしてお怒りの説教を覚悟していた
の予想とまったく正反対の口調で、小さな逃走劇を繰り広げた令嬢を窘めたのだった。
「貴い身分にあられる
様が、私たちのような護衛に頭を下げるなど滅相もない。貴女様を見失ったのは、我々のミスです。お気になさいませんよう」
「え? だって、私の我が儘で貴方たちに迷惑をかけたのに、謝るのは当然でしょう?」
が驚いて反論すると、カイルは肩をすくめ、ヘルツは困ったように微妙な笑顔を形作った。
「
様は私たちのような者にも分け隔てなく接して下さいますし、個人的にはそれを好ましく思いこそすれ、嫌と思ったことはございません。しかし、貴女様が謝罪なさるのは、些か親しさの枠を越えているように思われます」
「お前に頭下げさせたなんてエーデルバーグの奴らに知られたら、それこそ俺たちの首が飛びそうだよな。ま、俺としては面白いからいいけどな」
「カイル・シュッツ」
「はいはい」
おどけたように言うカイルに、ヘルツの鋭い一声が突き刺さる。その様子を眺めながら、
は意外なほどショックを受ける自分を発見していた。
(つまり、身分が違うから気にするな、ってこと? 私は何しても良いわけ? で、二人はそのことについて怒りもしないと。単なる護衛だから)
半年という時間が長いのか短いのかよくわからない。だが
はその間にカイルやヘルツに対して結構な信頼を寄せるに至っていたし、体が子供の身空でおこがましいとも思うのだが、どこか友人のように感じていた部分もあった。彼らが好きなのだ。だから迷惑をかけて申し訳ないと思うし、謝るのが
にとっては普通の道理だと考えもするのだった。
しかし、謝罪は容れられなかった。必要ないと、否定された。親しみは単なる独り善がりの感覚なのだと、
は言われたも同然だったのだ。
階級意識など持たない
は、こちらの社会においては何かと型破りな接し方で振る舞ってきたが、彼ら護衛との間には『身分』という距離が厳然と横たわる事実を、改めて
は他でもない身近にいたはずの二人によって思い知らされることになった。
(あー、すごく複雑な気分…)
これがこの銀河帝国社会における普通の対応であることや、彼らが『仕事』として自分の傍にいる意味は重々承知していたものの、快く納得することは到底出来そうにない
だった。
彼らが任務を果たす責任感だけで接してくれているのではない、それは
にも判る。ヘルツとカイルは、護衛対象である自分には、大体において好意的だ。それにカイルはどちらかといえば、仕事よりは個人的理由で子爵家にいるから、敬語も使わず、名前だって呼び捨てで友人同然の接し方である。しかしそんな彼でさえ、子爵令嬢が頭を下げることには呆れた態度を見せ、怒ったりもしない。
が子供だからという訳ではないだろう。常日頃から子供らしさの欠如した言動ばかりだから、仮に怒ったとしてその意味が判らないはずと見なされることなどないはずなのだ。
つまり、彼らは自分と
――
を対等とみなしていないのではないか。
そう、
は感じたのである。
見下されているのではなく、彼らが一歩退いているのだ。恐らく、身分が違うから、と。
ヘルツは立ち上がり、何事もなかったように普段と変わらぬ穏やかさで令嬢の意識を別のところへ促した。
「さあ、
様、これよりどうなさいますか? ユリウス様がお待ちですが…」
「え、ええ、それは勿論、すぐにでも謝りに行きます」
問われた
は思索を一旦留め置き、もう一人の謝るべき人物、ユリウスの元へ向かうことにした。そうせねばという意思は勿論
にもあったが、何よりヘルツがそうした方が良いと勧める風情だったので、すっきりしない気分のまま一同は場所を移すことになった。
「さっき一緒に居たのはミュッケンベルガーの所の孫だろう? 縁談が出てる相手の」
ユリウスの居る待合室へ向かう道すがら、少しぎくしゃくしてしまった(このように感じているのは、
だけかもしれなかったが)ヘルツと
の間を保たせたのは、腕利き情報屋カイルであった。さすが自分で子爵家へ売り込んできたこともあり、彼は何でも直ぐに調べ上げてしまうのである。
は隠す必要もないことだと、素直に頷いて言った。
「ディートハルト様ね。あの部屋に座り込んでいたら心配して声を掛けてきて下さったんだけど、偶然にも程があるってものよね」
「ふーん」
自分から話を振っておいて、あまり興味のなさそうな相槌をカイルは打つ。そしてついでのように、けれども確実に何かしらの興味を持ちつつ(カイルは無駄と思ったことは口にしないタイプであると
は知っている)もう一つ質問を重ねた。
「ラインハルト・フォン・ミューゼルってのは?」
(耳敏いなぁ…)
二言、三言しか出てこなかった名前に反応する辺り、本当に感心するほど情報には敏感な護衛である。
(普通に、さりげなく振る舞わなきゃ…)
未来を知る立場として、彼は後に銀河帝国の皇帝となる人物だと予言してみたいところだが、それは単なる夢想に留めておいた
は、いま現在で知り得た事柄のみを述べる。当然、一瞬の邂逅(しかも追い払った)しか経ていない令嬢にとって、語れることは多くない。
「聞いてたでしょう。ディートハルト様の前に声を掛けてきてくれた幼年学校生なんだけど、泣いてたところを見られたくなくて、冷たくあしらってしまった相手」
「ミューゼルといえば、近ごろよく聞かれる皇帝陛下の新たな妾妃の生家がミューゼル家だったか…」
黒髪の二人の背後で話を聞いていたヘルツが、記憶を探るように呟く。ヘルツも一応は端くれとはいえ貴族であるから、噂になっている名には聞き覚えがあった。
大層美しい十五歳の少女アンネローゼ・フォン・ミューゼルが後宮に召し上げられて以降、皇帝フリードリヒ4世陛下は、帝国騎士という低い位階の出自にも構わず少女を大事な薔薇のように、下にも置かぬ寵愛を授けているという。
職業柄その手の情報に通じるカイルもミューゼルは聞いた名であったが、件の妾妃アンネローゼはほんの二月前に宮廷に納められたばかりだった。どのような縁者がいるかは勿論、後に大成するとは言え今だほんの小さな萌芽にすぎないラインハルトの存在は、未来を知らぬカイルは把握しているはずもなかった。
しかし、とカイルは思案する。近しい親等であるかそれとも単なる同門の縁戚であるかはわからないが、現状の寵愛ぶりであれば先のベーネミュンデ侯爵夫人とその生家がそうであったように、今後はミューゼル家が力を振るう可能性は充分ある。そうするとミューゼルの名は裏世界でも良くも悪くも人気の的となるであろうし、彼らにまつわる情報ならば幾ら集めても損はないのだろうと、黒髪の青年は思うのだった。
「年頃は?」
ラインハルトとアンネローゼが姉弟であることは当然の如く既知であった
は、何でもない風を装って応えを返す。
「同い年くらいかと思ったけれど、じっくりと見た訳でもないし、わからない。だけど、まだ小さかったわよ」
「小さい、ねえ?」
自らも幼い令嬢がすました顔で言うので、カイルとヘルツは思わず顔を視線を交わしてさざ波のような笑いを伝え合った。
物事を形容するその言葉には、比較する対象が必要である。
カイルとヘルツは、黒髪の令嬢が『自分と比べて』小さいと言ったのだと理解したのだが、実際は違っていた。無意識のうちではあったが、
は自身が持っている『二十歳前後のラインハルトと比べて』小さいという意味合いで表現を用いたのだった。
とはいえその場で
の言い回しの真相が三人に共有されることはなく、ちょうどユリウスの待つ一室へ到着したこともあり、それ以降ミューゼルの名が話題に上ることはなかった。
ヘルツとカイルが開いた扉をくぐって
待合室へ入ると、その姿をみとめた憂い顔のユリウスは長椅子から立ち上がり逃亡令嬢の名を呼んだ。
「
…」
唇を噛んで消沈した様子の少女を見たユリウスは掌を小さく二度ひらめかせ、その場にいたヴィーゼ家の随員たちを室外へと下がらせた。
そうして
は、柔らかそうなベルベット張りの長椅子と優美な草木模様が彫り込まれたテーブルだけが置かれた部屋で、ヴィーゼ家の少年と二人向き合った。
が取りうる行動、そして告げうる言葉は一つしかなかった。
「ユリウス様、ごめんなさい!」
さきほど護衛二人に対した時と同じように頭を下げて、理由もよく言わぬまま目の前から逃亡を図るという多大なる非礼を、
は詫びた。
「一緒に聞いたあの音楽が凄く物悲しくて、色々と思う事があって…断じてユリウス様に責任はなくてですね、私が勝手に泣いただけなんです。そこにたまたまユリウス様が一緒にいらしただけという感じで…」
そう言い繕う言葉をどう取ったかは分からなかったものの、ユリウスは数歩進んで低頭する令嬢へ歩み寄ると、ハンカチを握りしめた
の手に彼女よりも幾分大きい掌を重ねた。
「謝らないで。僕のことは気にしなくていいんだ」
いつも紳士的にエスコートする際以外に不用意に触れてこないユリウスがそうするのは、それだけ此方の不安定だった様子を慰めようとしているのかもしれないと、
は思う。
「心配した。急に泣いて、いなくなってしまったから」
顔を合わせづらく俯いていた
は、14歳の少年から労りを受けるという状態に申し訳ないという他なかった。
(あああ…自己嫌悪。気を遣わせて申し訳ない)
けれどその内心を口に出したりしたら、ユリウスはきっと一層優しく、気を遣うなと言うのだ。
とはいえ黙ってもいられず、
が縮こまってもう一度小さく、ごめんなさいと口にすると、ユリウスは重ねた掌に少し力を込めて、どこか寂しそうな声音で問いかけてきた。
「君が謝るのは、何に対して?」
「え?」
質問の意図が理解出来ず思わず伏せていた視線を上げた
に、真摯な光を宿す若葉色の瞳が向けられていた。
「それは…突然泣き出してお気を悪くさせてしまっただろうし、その上ユリウス様を置いて走り出してしまったし…」
「急に君が泣いたことには勿論びっくりしたけれど、気を悪くするはずがないよ。けれど僕が唯一、君に謝って欲しいことがあるとすれば…」
たじろぎながら説明する
の言葉を遮って、ユリウスは言う。
「それは、目の前にいた僕を頼ってくれなかったことだよ。一人で泣こうとするなんて、ひどいことだと思わないかい? その点は、是非とも
、君に反省して欲しい」
「あの、ユリウス様…?」
今日は本当に予想もしないことばかり言われるようだと、
はディートハルトやカイルとヘルツとの会話も思い起こして困惑した。
普段の
は、会話を交わす際には相手の次の言葉を予測しながら喋っているのである。しかし今日に限ってはその予測はことごとく裏切られている。
「さっき泣き出した君が僕を置いて行ってしまったとき、僕は君の助けにもならないと思われているのかと、残念だった」
困り果てた内心が表情に滲み出る少女の顔を見て、ユリウスは苦笑した。
彼としては、困っているなら助けて上げたいし、泣いているときは胸を貸したいと思う位には、
・フォン・
のことを気に入っていたのである。少女がいつか彼に向けてくれた心なごませる言葉や行為の数々は、彼に自分もそうありたいと思わせるだけの余韻を与えていたのである。それは恋というのにはまだ覚束ない形しかなく、人間としての強い親愛という言葉が適切な感情であった。
「君が何かを悲しんでいるのに不謹慎かもしれないけれど、正直に言えば、君が泣いたことに僕は少し安心してるんだ」
全くその意味が理解出来ないという風に首を傾げた黒髪の令嬢の手を引き、空いたもう一方の手で頭を抱き寄せる。
「ユリウス様!?」
素っ頓狂な声が上がる。異性に抱きしめられる状況でも、決して夢見るように名を呟いてはくれない。それが、
・フォン・
なのである。
だからこそ、ユリウスは少女のことが気にかかる。幼さや弱さをちっとも晒さない姿は、自分自身の過去を見るような心持ちにさせられるのだ。
そして、先程ユリウスは初めて少女の柔らかな内側を垣間見たのだった。大人びた素振りで日頃は隙を見せない者が感情を露わにすることが、どれほどの意味を持つことなのか、彼には判る。
「こんなことを男の僕が言うのは憚られることかもしれないけれど…
、何でも出来てしまう君は僕よりよほど超然としていて、振る舞いも考え方も年下とは思えないほど確りしている。今まで僕たちは仲の良い友人として付き合ってきたけれど、どこか君が遠く思えていたのは、一人でも大丈夫だと、言われているようだったからだ」
自分の心を重ねているから、あの時の自分が求めていたものを与えてやりたいのだろうか。
それもあるだろう。単なる自己満足なのかもしれないし、代償行為なのかもしれない。けれどそうして自分が抱く気持ちも、そしてその気持ちを抱かせる相手も、大切なことには変わりがない。
あまり家族に恵まれなかった彼にとって、物心ついてからこの方、ただの友人としてでも心底から自分を気遣ってくれた者はいなかった。衣食住すべてが完璧で誰もが羨む家にあってさえ、彼には手の届かぬものがあった。
だが、ユリウスは温かな光を、自分自身の中に今は持っている。
だから、恵みを受けるばかりでなく自ら手を喜んで差し出したいと、彼は思うのだった。
「だけど、ああやって泣いている姿を見ると、どんなに賢くて政治経済に通じているといっても、君も普通の女の子なんだと思えた。君も泣いたり、弱ったり、苦しんだりすることがある。僕と同じように。それなら、僕は君を手伝うことができると思ったんだ」
突然抱きしめられた驚きに身を強ばらせていた
は、ユリウスの伝えようとしていることを理解して、どこかほっと安堵している自分を見つける。
まさかの恋愛展開かと身構えていた気が失せた安心というのもあるが、そんなに完璧な令嬢の猫を被らなくてもいいと言われたようで、嬉しかったのである。
確かに、
は子爵令嬢となって以降、誰に対しても緊張しながら令嬢たらんと意識していた。
それは異なる文化や世界に馴染むための努力であったが、言うまでもなく精神的な疲労は蓄積されていたのだった。そして、それを貯めていた部分が懐かしい歌で決壊し、体の外側へと涙となって溢れ出た。
にとっては嫌悪や情けなさを感じてしまう出来事だった。
だからこそそれを肯定し、助けになりたいと告げてくれるユリウスの存在が、ことのほか
を慰めたのだった。
優しい気持ちに触れれば、安らぐ。言葉という形にして、行動で表してくれるなら、それはより強く伝わるのだった。男も女も、年齢も関係がない。
は、このときばかりは人として素直に自分の気持ちを言葉にかえた。
「ありがとうございます、ユリウス様。そう仰って頂けて、とても、とても、嬉しい…です」
ユリウスの手に握られていた自分の手をそっと外す。そして、おずおずと少年の背に腕を回した。
目に見えない感謝の気持ちを、沢山込めて。