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 ラインハルトにしてみれば、見たかった星を眺めることも出来ず、親切心からの気遣いは無碍にされ、ついでに部屋を出たところで上級生に指定の見学コースから外れていたことを見咎められ、散々な目に遭ったという他なかった。
「君たちは、なぜあらかじめ回るよう言われていた展示室以外にいたのだ」
 班をまとめる最上級生はラインハルトとキルヒアイスよりも5つ年長で、貴族にしては馬鹿ではない上、陰湿さから無縁な性質の持ち主だった。良くも悪くも注目の的になっていた(主に、ラインハルト自身に起因するところも多かったが)二人にも、悪意に満ちた関心を抱こうとはせず、かといって好意を示してくれた訳でもなく、ただ己の本分に忠実であれといった風情で、しばしば問題を招き寄せる少年達を上級生として監督せねばと思っているようだった。
 ラインハルトは、この上級生を好いても嫌ってもいなかった。やや高圧的な態度も、実力を伴った自信から生じるものだとすれば一応は理解出来る。他の貴族子弟たちがあまりにひどいので、比較してましと感じる部分もあるだろう。
 とはいえ、この上級生と対すると、体躯の差から見下ろされなければならないことが、ラインハルトはいつも気に食わなかった。胸に秘めたる野望の背丈は宇宙に届かんばかりでも、ラインハルトの肉体は大人への階をようやく登り始めたばかりで、生まれが五年先んじる者との体格差は歴然としており、その差に我が手の及ぶ範囲の狭さを痛感させられるのだった。
 ラインハルトが口を開くより早く、低空飛行中の友の機嫌が墜落しないように配慮したキルヒアイスが、一歩踏み出した。
 あちらの部屋で、と二人が出てきた星を見せる展示の方を指を揃えた掌で示したキルヒアイスは、やや真実とは異なる色合いの事情を説明した。
「蹲っておられるフロイラインがいらしたのが見えたので、ご助力差し上げようと向かったのであります。声をおかけしても大丈夫と仰っておられたのですが、貴族のご令嬢を一人にしておくことも憚られ、どなたか人を呼ぼうとしていたところであります」
 ここ一ヶ月で叩き込まれた軍隊式の口調を、キルヒアイスは不慣れながらも口にし、至極まっとうで反論の余地がない釈明を述べてみせた。人助けとなれば、責めるわけにもいくまい。
「そうだったか…。では、俺が見てこよう。君たちは見学を続けて、先行している班員に追いつくよう」
 暗緑色の瞳をすがめてやや思案した上級生は、事実確認の意味合いも含めてだろう、ラインハルトの申し出を撥ね付けた少女の様子を見に行くことにしたようだった。
「はっ」
「了解いたしました」
 これもまた、ここ一ヶ月で腕の角度や指の揃え方まで教官に散々いびられ覚えた敬礼を、二人は他の誰よりも早く及第点をもらった文句のつけようのない形で施した。
 踵を返した上級生が貴族の令嬢がいるであろう展示室へ消えたのを見計らい、ラインハルトとキルヒアイスは腕を降ろした。
「ふん、小うるさい奴だ」
 馬鹿馬鹿しいことではあるが、同じ幼年学校生とはいえ学年の差は軍隊における序列の差ほどの意味を持っており、上級生の言葉に入学したばかりの最下級生の二人は、命令のごとき指示に諾々と従わざるをえなかった。
「嫌味を言われないだけ、良かったと思わねばならないところでしょうね、ラインハルト様」
「ああ。それにしても、下らない物を見て回らねばならないのは面倒だな。幼年学校に入れば早く一人前になれると思ったが、こうもふざけたことを教え込まれる羽目になるなんて……」
 しかし決められた課程をこなさねば幼年学校を卒業することは叶わず、その先にあるラインハルトの野望までも結果的に遠回りになる。たとえ二人にとっては無意味に等しいルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの偉大さを知るための博物館見学といえど、ボイコットすることは出来ない。
「これこそ、急がば回れというやつかな、キルヒアイス」
 己の胸の内側の願望を現実のものとするために、さしあたり二人は指定された見学順路を辿るためその場を後にし、少女のことは上級生に任せたきり意識に浮上することもなかった。

 ラインハルトとキルヒアイスを追い払った形となった は、映像ながら美しく煌めく星々の海の中でいまだ蹲ったまま、深い溜息をひとつ落とした。
(あーあ、勿体なかったかな)
 顔を見られまいとした為、彼らの幼い姿だって殆ど一瞬しか目にすることができなかった。
(それに怒らせちゃったし。顔覚えられたかな?)
 いずれ知り合うにしても、嫌な令嬢という印象が入力されたままでは、やりにくいことも多い。
 自分がそうだったように、彼らも の顔を正面から記憶するほど眺めたわけでもあるまいし、薄暗い場所であったからもしかしたら見えなかったかもしれないと、そう は思う事にした。ラインハルトやロルフ級の華麗な美貌ならいざ知らず、 の顔立ちは可愛い部類に属するだろうが、強い衝撃を人様にもたらす程とは言えないので、ただの通りすがりの親切を向けた相手のことなど、すぐに忘却してしまうはずだ。
(こうして実際に会うこともあるし、時間ある時にラインハルトと仲良く出会いましょう計画でも考えるかな)
 それよりも、現状に差し迫る問題が にはあった。
「ああ…どうやって戻ろう。とりあえず、連絡を取るべきか…」
 ラインハルトたちのおかげで涙は引っ込んだし、さすがに長時間、行方知れずも厄介事を拡大させるだけだろう。
 けれども は腕にある通信機の操作パネルと睨めっこしたまま、通話ボタンを押す決心をつけられずにいた。
(うう、でも絶対に問い詰められる。しかも泣き顔晒しちゃって気まずい)
 ぐだぐだしていても状況は悪化するばかりであることは容易に想像できるのだが、ヴィーゼ家の少年の心配顔やら、カイルの意地悪顔やらが浮かぶと己の迂闊さに忸怩たるものがある。
  は一旦、通信機を降ろして両手で顔を覆った。
(ここはやはり、たまにはピュアな令嬢ドキュン作戦で行くしかないかな)
 ネーミングセンスが我ながら欠如しているとしか思えないが、要は は言い訳として、こう弁明しようと思案しているのであった。
 普段はクールな優等生キャラな令嬢であるが、音楽的感受性は豊か(一応、ヴァイオリンやピアノは教養としてやらされてるし)であるため、何百年も前の人類の歌に感動して不意に涙が出て、普段が冷静な分、自分にびっくりして逃げ出した、と。ユリウスへの説明はこれで良いだろう。そして何かと穿った見方を好むカイルに対しては、すこし出来心でユリウスを弄んでみようと涙を見せたとでも言えばよいのではないか。
(苦しい言い訳だ…)
 心優しきユリウスならば多少の違和感があっても目を瞑って騙されてくれるかもしれないが、人の裏を読む諜報が本業のカイルや思慮深い戦術士官のヘルツに対しては弁解の理論的耐久度が危ぶまれる。
 しかし、他に思いつかないのだから仕方ない。
 後は出たとこ勝負だ、と覚悟を決めた が顔を上げて再び通信機を開こうとした時、思わず聞き惚れそうになる良い声が頭上から降ってきた。低く体に響く音程が心地よい、若い男の声である。
「失礼ですが、フロイライン。どうかなさいましたか」
 釈明理由の捏造に集中しすぎて人の気配に気付かなかった は、そういえば蹲ったままで傍からみれば心配されてしまうような体勢である自分を思い出した。
(おっとっと、これじゃあ話し掛けてくれって言ってるようなものだった)
  は声の方を振り仰ぎ、慌てて立ち上がった。
「ありがとうございます。大丈夫で…す」
 長く屈伸状態でいて、急に起立するとどうなるかということを、 は失念していた。
(やっば)
 当然ながら頭から血の気が引いて視界が白く霞み、立ちくらみが起こるのである。
 揺れる体がバランスを取ろうと藻掻き、何かに掴まろうと伸ばした手が中空を彷徨った。
「フロイライン!」
(良い声だ…)
 倒れそうになっているというのに、 はこの美声の持ち主はいい男に違いないと、呑気な思考をしていた。何を隠そう、 は声フェチなのである。美声は彼女の唯一の弱点だった。
「…大丈夫ではないようですが」
 気付けば、声が直に体に伝わってくる体勢となっていた。つまり、声の主に抱き留められ、相手の胸の下辺りに耳をくっつけている状態に陥っている。
(ああ、こんなロマンチック場面、前にもあったよ…)
 半年前のユリウスとの邂逅を思い浮かべつつ、 は感覚の動揺が治まるのを待った。
「すみません、急に立ち上がったので眩んでしまったようで…」
 数瞬の後、 は血圧が正常になったことを感じ、転倒の危機を救ってくれた相手を振り仰いだ。
 薄暗くて顔や髪の色がよく見えなかったが、随分と長身で肩幅の広い人物だった。よく見れば、ラインハルトやキルヒアイスと同じ幼年学校の制服を纏っている。
「もう、大丈夫です」
 その黒い制服に軽く手をついて支えて貰っていた身体を離した は、不躾にならぬ程度に貴重な癒しボイスの持ち主を観察した。
(体格からして14か15くらいかな…美声だけど、思ったより若い)
 自分が10歳の令嬢となっていることを棚において、少年といえる年頃の幼年学校生を見つめた だったが、一方でその少年も彼女を観察していたようで、声を掛けてきた。
「目元が赤い。泣いていらしたのではありませんか? 何かお困りのことでも?」
 再び倒れる可能性を心配しているのか、彼の右手はいまだ少女の肩に載せられたままだ。そして視線は、 の頬の辺りや手元のハンカチを往復している。
 泣いていたのも、そして困っているのも間違いではない。けれど、見ず知らずの相手に気軽に喋ることでもない。
  はこの半年で鍛えられた猫を取りだして、いそいそと被った。
「お気遣いありがとうございます。その、少し思い悩むことがあったのですけれど、大したことではないのです。申し上げるような困ったことなど…」
 口元に控え目な笑みを浮かべてハンカチを握りしめる様子に少年は思うところがあったようだが、訊いて欲しくないという の暗黙の主張を汲み取って、ひとつ頷いたのだった。
「それなら、良いのですが」
「それよりも、先程は倒れそうなところを助けて下さってありがとうございました」
  は改めて礼を述べ、相対する長身の彼を見上げた。薄闇に浮かび上がる顔立ちは、低い声音に相応しいなかなかの精悍さである。記憶にある誰かの顔が頭をよぎったが、その誰かを突き止めるには至らなかった。 は他人の顔を見分けるのは苦手なのである。
「いえ」
 少年の短い謙遜の言葉の後、はからずも沈黙が二人の間に拡がった。
 なんとなく会話の間を計りかねている素振りを見て取って、 は急いで会話の糸口を探す。
(えっと…どうしよう、ここは名乗って、名前訊いてお礼状送ったりするのが貴族的マナーかな?)
 先程ラインハルトを冷たくあしらったのは未来の事象に懸念があったからであって、こうして助けてくれた相手には本来、礼を尽くすべきだと は知っている。
(うん、そうしよう。良い声の男の子だし)
 大部分が個人的欲望混じりの結論を出し、 は自ら名前を明らかにして、相手の名前を請うことにした。
「わたくしは ・フォン・ と申します。よろしければ、お名前をお聞かせ願えますか? 後日、改めてお礼を差し上げたいのです」
 既に身に馴染んだ軽く膝を折る令嬢としての標準的な礼を取り、 は相対する少年の答を待った。大体の人は、相手に名乗られれば自ら名を告げることくらいはするものだ。
 しかし、少年は絶句したまま、しばし微動だにしなかった。
(あれ?)
「あの、どうかなさったのですか?」
 大きな掌で口元を覆って、動揺を隠そうとするような素振りである。
 自分は何か変なことを言っただろうか。ただ名乗っただけであるのに。
 首を傾げて訝しんだ に、少年は瞳を左右に彷徨わせた後、口元にあった掌を降ろして胸元で握りしめ、何かを決めたようにゆっくりとひとつ頷いた。
 そして口を開くと、耳心地の良い声で返事を待つ令嬢へと名乗り返したのだった。
「おれは、ディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーです。祖父からお話は伺っておりました、フロイライン・ 。その、はじめまして」
 やや困ったような表情で眉根を寄せて見下ろすディートハルトに対し、今度は が絶句した。



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