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 脱兎の如くユリウスの前から逃げ出した であったが、子供の足に重苦しいドレス姿では、どんなに頑張って走れども、その速さはたかが知れたものだった。
 二割の責務と八割の私的好奇心をもって追い掛けたカイルからすれば、令嬢の逃げ足などさほどの困難もなく捕捉できる、そのはずだった。
 しかし、折悪しく開いたエレベーターからどっと吐き出された黒い制服姿の子供の集団に阻まれ、カイルは人波の向こうに黒髪の少女の背を見失ってしまった。
「ちっ」
 帝国歴477年の時点で、人類の歴史は太陽系第三惑星での文明発祥から既に五千年近くを数えている。
 国立帝国博物館は、誕生の際に授けられた運命のままに、帝国全土にわたって古今東西、宇宙の中心・辺境を問わず、歴史的遺物や美術品、学術的資料を蒐集、陳列していた。
 数限りない人類の遺産のほんの一部であっても、それらを通時的に俯瞰できるよう展示するとどうなるか、その答を雄弁に語るのがオーディン郊外の一角を占有する施設の面積であった。その広さは無憂宮殿には劣るものの、小さな町ひとつ分はあろうかという規模で、博物館の年間予算は軽く100億帝国マルクを越えていた。
 つまり、博物館は鬼ごっこを演じる舞台としては十分すぎる広さを兼ね備えており、初動段階で逃亡令嬢を逸した護衛としては、闇雲に探し回る以外の手を選ぶ方が賢明であった。
「面倒かけやがって」
 カイルは悪態をついたものの、実のところさほど現状を深刻な事態とは思っていない。
  は通信機をつけているし、コンラッド老からのお達しで、本日も令嬢の服には発信器が潜んでいる。高貴な身分ゆえの用心というものである。彼女は幼さの割に聡明ではあるが、子供ゆえに自身で我が身を守る力が足りないと、コンラッドは考えているらしい。
 しかるべき機器を使えば、 自身がそれらを取り外さない限りは容易に居場所を特定することができるだろう。心配性のいま一人の護衛や、逢瀬の相手に目の前で逃げ出されたお坊ちゃんは息巻いて探そうとするかもしれないが、少女の性格を鑑みれば、そのうち理性が感情の噴火を鎮め、自ら連絡を取ってくるなり戻ろうとするのではないかとカイルは予想していた。
 そんなことより、琥珀色の鋭い瞳を持つ護衛の興味を惹いたのは、普段は陽気な方面の感情しか表さない少女が、涙を見せたことだった。
 涙の理由を勘案しつつも、カイルはヘルツと合流すべく、ゆっくりとした足取りで来た道を戻っていった。

 一方、追われる逃亡者 といえば、冷静に考えれば逃げ出すなどユリウスに対し非礼過ぎることや、護衛の二人にも大迷惑がかかるだろうことなどが頭を掠め、けれども今更のこのこ戻れないと、小さな足を自己嫌悪混じりに前へ踏み出し続けていた。
(どうしよう!)
 咄嗟に逃げ出したはいいが行く宛などあろうはずもなく、ただ盛大な泣き面を晒すことも恥ずかしく、 はとにかく人目につかぬ場所を探して広大すぎる博物館を彷徨った。
 こういう場合は化粧室(トイレですよね、やっぱり)へ駆け込むのが正統派なのだろうが、こんな時に限って手近な場所にみつからず、結局は人のいなさそうな薄暗い展示室へ は避難した。
 ミニプラネタリウムとでも言うべきその部屋は、壁や天井に宇宙空間を投影し、人類の宇宙進出の歴史を説明しているようだった。
  は入り口から十歩ほど奥へ進み、「太陽系からシリウス星系、そしてヴァルハラ星系へ」と題された文章の前に蹲った。
 走ったせいで息は荒く、予期せぬ涙で顔は見られたものではない。ついでに横隔膜が痙攣して、しゃくり上げる声が止まらないときた。
 頭の中はすでに一時的な混乱を鎮圧したというのに、この体はまだまだ泣き足りないようである。
(あー、もう、何で涙なんか出るんだか)
 あの歌がいけないのだ。無駄に叙情的な旋律と、懐かしい人々を思い起こさせる歌詞に、頭よりも先に感情が反応してしまった。
「不覚ぅ…っ…」
 唇を噛み締め呻いた は、淑女の嗜みとして持たされていた繊細なレースで縁取られたハンカチを頬に押しあて、溢れる雫を拭っていった。
 こんな場所で座っていないで、さっさと涙を止めてユリウス達の元へ帰らねばならない、そう は思った。
 きっとヴィーゼ家の優しい少年は自分に泣かせた原因があると心悩ませているはずであるし、子爵令嬢の身を慮らねばならない護衛達も探しているだろう。
 もうしばらくすれば、急に飛び出した郷愁だって収まりがつくはずだ。
(何で泣き出したのかって、その言い訳も考えなきゃ…)
 そうして がとにかく泣き止もうと四苦八苦していたところ、突如として楽しげな笑い声が部屋へと駆け込んできた。
「はは、こっちは星が見られるようだぞ。ゴールデンバウム王朝の歴史を学ぶより、よっぽど面白そうだ」
「ラインハルト様は、本当に星がお好きですね」
「ああ、星はいつも綺麗だ。それに俺は、いずれ宇宙で大艦隊を指揮した……」
 少年の声が、突然、途切れた。
 展示室で蹲る、小さな人影が視界に入ったからである。
(いま、とっても聞き覚えのある名前が聞こえたんだけど)
 まさかこのような時にと思いつつ、 は好奇心(ここで確認せずしてどうする!という気合いです)に負けて、いまだ泣き濡れた顔をそっと上げて声の方角を振り返った。
 薄闇の中でも、映像の星明かりに照らされた豪奢な金髪が煌めいている。
 顰め面でも比類ない美しさを保つ横顔が耳打ちする相手は、金髪の彼よりやや背丈は高く、朝焼け色の髪を持つ少年だった。
 その色の取り合わせだけで、誰か知れようというものである。
(本物、見ちゃった)
 ある種の感動すら覚えた だった。
  と同じ十歳の彼らは、見てくれはまだ本当に子供である。
 けれども、彼らが凡百の子供ではないことを、 は知っている。
 ラインハルト・フォン・ミューゼル、のちの銀河帝国皇帝となる少年と、その親友であり、腹心となるジークフリード・キルヒアイス。
 二人は20代に差し掛かる頃、若き身空で宇宙艦隊の大部分を指揮する地位へと登り、そしてゴールデンバウム王朝を打倒……簒奪する。ただ一人、奪われた美しきアンネローゼのためだけに。
 銀河英雄伝説という物語の主要人物であり、幼い未来の英雄らが、 からほんの数歩の位置に立っている。
 普段の ならば、喜び勇んで声をかけるに違いないシチュエーションであった。
(でも、何でこんな時に限って…)
 けれども は、胸中で複雑な心情が渾然一体となった叫びを上げた。
  としては、感慨深く嬉しい邂逅であるのだが、いかにも間が悪かった。
 素直に喜ぶ以前に、泣き面を晒す気恥ずかしさや、ばつの悪さの方が大きかった。冷静がモットーの としては、何の心構えもない有様ではまともに他人に顔向けしにくい心理状態だったのである。
(今は駄目!)
  は話し声の主がラインハルトとキルヒアイスである事実を確認したのち、すぐに顔を伏せた。
 言葉を交わしてみたくもあるが、今は関わりたくない、関わるべきでないという気が勝った。
 正直、恐ろしさもあった。彼らと関わることが、自分に、そして自分の知るこの世界の未来に何をもたらすのか分からない。
 そして何より、このさき嵐の目となるラインハルトたちに関与する上で、子爵令嬢として 子爵家という拠り所との兼ね合いも考えねばならないだろうと、 は思ったのだった。
 とりあえずは盤石の準備をした後に、自分がアドバンテージを取った状態で彼らと接し、あわよくばリップシュタット戦役で子爵家を無傷で乗り越えさせるくらいはしたい。そう思えるほどには、 子爵家には愛着があるのである。
 たとえカールやヨハンナ、コンラッドを実の親や家族と感じられなくとも。故郷が別の場所にあれども。大切な人々がいた暮らしを懐かしいと思えども。
  は新たな大切な人々を、自分の心の中に見つけてしまっていた。そして彼らは、少なくとも現時点ではラインハルトやキルヒアイスよりも、自分にとっては心の天秤が傾く方向なのだった。
(どうしよう、どうしよう)
 自分が何も言わずこの場を立ち去れば良いのだろうが、生憎、当の二人が入り口を塞いでいる。
「キルヒアイス、あれはどうしたんだろう。具合でも悪いんだろうか」
「ええ、どうしたんでしょう。格好からして貴族のご令嬢のようですが…」
 小声のやり取りではあったが、他に音のない部屋の中では にも二人の会話が漏れ聞こえた。
(話し掛けてくる…よね)
 出来れば無視して通過してくれないだろうかと は都合の良い想像をしたが、そのように自らの望みばかり叶うほど、現実は当然ながら甘くはない。
 星を見ようと立ち入った部屋で困惑の対象を見つけてしまったラインハルトとキルヒアイスは、一目で身分が高いことが窺い知れる服装の少女に声をかけるべきかどうか、対応を決めかねていた。
 ラインハルトにとって貴族など先祖の七光りに縋る権力の寄生虫以外の何物でもない存在ではあったが、一応はそのような先入観を排除して人を見る目も彼は兼ね備えていた。困っているか弱い少女を見ればその少女が唾棄すべき貴族の一員だとしても、心配する位の思い遣りは、正義感の些か強すぎるきらいのある少年でも持っているのだった。
 同じくキルヒアイスも、ラインハルトより更に他人には優しい振る舞いをする性質であったので、二人は結局わずかな言葉の応酬を交わした後、泣き伏しているように見える少女へと声をかけたのだった。
「失礼ですが、フロイライン、どうかなさいましたか。御気分が優れないのでしょうか」
 幼さに似つかぬ礼儀正しい言葉遣いでご機嫌伺いを述べ、 の傍らに膝をついたのはラインハルトであった。
 貴族が身分を重視し、平民を愚にもつかぬ者と蔑む意識があることを彼らは既に見知っていたので、一応は帝国騎士の出である俺が話すべきだろうと、ラインハルトは思考したのだった。貴族子弟の多い幼年学校では、ミューゼル姉弟の嘆願もあって入学の許されたキルヒアイスに対する陰口は、例を挙げると切りがないほど多様性に富んでおり、入学以前よりも身分差の壁を彼らは実感していたのである。
「おれ、いや、私はラインハルト・フォン・ミューゼルと申します。何かお困りであれば、お力添え出来ることもあるかと存じます。どなたか人を呼びましょうか」
 丁寧な気遣いを貰っても、 は顔を隠すようハンカチを目元にあて、面を背けたままだった。
(ありがとう、ラインハルト君。でも今は困る!)
 涙は、気付けば止まっていた。そしてそれと入れ替わるよう、 の思考は高速で選択を計算し始めていた。
 ここは出来る限り接触を避けるべきだろう。今後の方針のひとつも決まっていない状態では、名乗ることも、そして仲良くなることも得策かどうかはわからない。今の として 子爵家との、さらにブラウンシュヴァイク家との関わりもある。敵対することになる双方の間でのバランスを、慎重に見極めたいところだ。
 意図すれば知り合う機会は幾つでも得られるはずである。しかるべき時に、しかるべき形で出会いを演出すればよい。
 そう思案した は、出来るだけ冷淡な口調で、顔も上げずに言ったのだった。
「お気遣いなく。供が間もなく参りますので」
 ぴしゃりと短い言葉で心配を撥ね付けられたラインハルトは、当然のことながら機嫌を斜めにした。いまだ幼い彼は、その感情を押し隠す術に長けておらず、女神が贔屓したくなるような華麗な顔に怒気の色を載せ、鼻白んだ。
 傍らで見ていたキルヒアイスは、次には言葉に感情を顕すのではないかとひやりとしたが、幸い彼の懸念は当たらなかった。
「……それは、差し出がましいことを申して失礼いたしました」
 表情は歪んでいたものの、情操の起伏がやや激しいラインハルトにしては押さえた口調と言葉だった。だが顔を伏せた にも、ラインハルトの声が憮然とした低気圧を孕んでいることが感じられ、内心で罪悪感に駆られていた。
(ごめんよ、せっかく声をかけてくれたのに)
「行こう、キルヒアイス」
「え、ええ」
 立ち上がり、蹲る令嬢を一瞥した金髪の少年は、赤毛の友人を促した。
 さっさとここから離れようというラインハルトの意図を汲み取ったキルヒアイスは、首肯して足早に部屋を出て行く背に従った。
 ラインハルト様の気遣いをあのように払いのけた貴族の令嬢は、結局のところなぜあのように一人で泣いていたのだろうか。
 そうは思ったものの、キルヒアイスは友の機嫌を上昇させるという目前の必要に気を取られ、思考はすぐさま少女から離れていき、一瞬見掛けた顔立ちすらも忘れ去ってしまったのだった。


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