例外的令嬢の日常

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護るもの

18


 誘拐に巻き込まれるという散々な目に遭ってから、早半月が過ぎた。
  の頬は元の白さを取り戻し、娘の顔を見るたびヨハンナが泣き出すこともなくなり、宥めるために気力を消耗せずに済むのが有り難かった。食事の度に娘が受けた仕打ちに過剰過ぎる共感をしてしまうヨハンナの愛を存分に受け止めた は、可能ならば見える位置に二度と怪我はするまいと誓ったのだった。

  家へ戻ってからすぐ、 はコンラッドへローバッハ伯についてどう思っているのかと問うた。コンラッドが息子家族に用心させていたお陰で は助かったのだが、彼を警戒させた理由は何だったのか気になって仕方なかったのだ。
 事件の顛末を聞いたコンラッドは孫娘の率直な問いかけに、苦い表情とともに返した。
 我が人生に悔いあるとするならば、あの御仁と姻戚関係を結んだことだろう、と。
 ご多分に洩れず貴族的政略結婚の一環としてコンラッドはローバッハ家から妻を迎えたが、それはローバッハ家に対して大きな機会を与えてしまったのだという。
「機会?」
「我が 家を乗っ取るための機会だ。私の父はより貴い血と名家の看板を欲し、あちらは金と領地を欲していた訳だ。私も若く、あちらの思惑がこのように尾を引くものとなるとは思っていなかった。妻が病気で死んだとき、あの家は私が妻を殺したのではないかという申し立てまでした。事実無根で疑いはすぐに晴れたが、そうした陰謀の類は数限りなく仕掛けられてきた」
 幸いコンラッドにはそれらの陰謀を回避できるだけの実力と頭脳があった。ゆえに彼の目の届く範囲内は息子家族、領地ともに安全といえた。
(うわー、これも貴族特典ってやつね…)
  はコンラッドから過去の陰謀の数々を聞き、貴族の身の上につきまとう権力争いというものを実感した。こちらが何かしようと思っていなくても、誰かから狙われることもあるのが厄介なところだ。豊かな暮らしと引き換えの身の危険は、貴族ならではだろう。
 そのためローバッハ伯領へ赴く際には厳重な注意が必要だと、コンラッドは万感を込めて孫娘に告げたのだった。
「まあ、私の目の黒い内は好き勝手にさせたりはせぬよ」
 そして重くなった雰囲気を切り替えるよう、コンラッドは年季を感じさせる掌を孫娘の頭に乗せ、小さく笑みを浮かべて見せた。
「そういえば、お前が言っていた授業の件だが、明日から教師が来ることになっている。心して学べ」
(おお! ついに!)
  は小躍りしたくなるほど喜んだ。

 そうして始まった授業により、パーティから戻ってからの の日常はなかなかに充実していた。
 以前コンラッドと約束したとおり、政治や経済に精通する家庭教師によるマンツーマンのレッスンは手応えがあり、本や資料を読み漁る毎日だ。もともと興味があることを調べるのが苦にならない性格なので、わからないことを訊ける相手がいて、探すためのテキストがあるという状況は にとっては幸福の二文字に相応しい環境だった。
 家庭教師たちは最初、授業以前に会話が成立するのかと危ぶんだらしいが、外見とは違って中身はれっきとした成人という ・フォン・ 嬢に対してそれは杞憂というものだった。 としては些か「ずる」をしている気がしないでもないが、あちらの世界での経験という土台の上に勉強しているとあって、教師からは 子爵家令嬢の才智は神童のごとく、と太鼓判をもらう程である。とはいえ違う社会のあれこれを一から学ぼうというのだから、 自身の好奇心と努力あっての優秀という看板であるし、その辺は自らの精神年齢に胡坐をかいているという訳ではなかった。
 素晴らしい教育環境を用意してくれたコンラッドといえば、領地経営の実践の一環として週に一度、 子爵領を統括する統治府(あちらの世界で言う県庁とか市庁みたいなもの?)へ幼い孫娘を伴って登庁している。生の領地運営を間近に見れるとあって、 としては色々な興味が尽きない時間である。まだまだ知識が不足しているため、かっこよく政策提言などするべくもないが、勉学を重ねて領地の経営実態をつかんだ暁には、何かできることはないだろうかと考えている最中だ。
 誘拐されたときに決心したとおり、何の因果かわからないが子爵令嬢となってしまったのだから、身分権力財力、使えるものは使って好きにやってやろうという気になっていたので、さしあたり手近な場所へ関与しようと思っている訳だった。別に自分が選ばれた人間だとか、滅茶苦茶優秀だとかは思っていない。だが、少なくとも現子爵カールよりは熱心に経営云々を学んでいるし、領地持ちの貴族としては切っても切れない関係にある土地は豊かになってほしかった。
(っていっても、なんだかんだ好きでやってるだけだけどさ)
 要は好奇心に突き動かされて自分が子爵領の運営に関わりたいと思っている、その自己満足に尽きるのではあったが。
 そんな訳で近頃の ・フォン・ 嬢のスケジュールは、カール曰く令嬢には不要な実学の授業でほぼ占められている。その他のスケジュールの何パーセントかは、ヨハンナたっての懇願によって令嬢的教育に費やされていた。 も人前で恥は掻きたくないので、ある種生きる上で必要な知識と割り切ってダンスや楽器のレッスンを受けている。あちらの世界でも役に立ったかどうかもわからない授業を沢山受けていたことだし、それに比べれば傾ける労力はさほど大きくはなかった。そのあちらの知識といえば、好きで勉強していた政治経済や社会科学関係が現在活用されているのは勿論だったが、意外なところで物理や高等数学という日常生活では利用していなかった類の知識が、記憶の畑から急ピッチで掘り起こされている最中だった。
 なぜかといえば。
「えーっと、つまり長距離レール・キャノンの発射角は船体に対して仰角俯角ともに20度が限界で、発射口を中心0度と仮定して左右には35度まで、ということですね。これで進行方向三時、距離5.6光秒で俯角60度に敵が現れた際に初弾を打ち込むまでの所要時間が…最速約60秒?」
「右舷の砲塔に限ればそうだ、左舷の発射可能角まではさらに120秒だな。回頭には時間がかかる。故に、敵に対して常に正面から迎え撃つ態勢を整えるのが戦の常套であるし、敵側面や後背からの攻撃は大変有利な状況と言える。1分あればレール・キャノン3発分の先制攻撃ができる。装甲の厚い戦艦でも沈められるだけの攻撃だ」
「6時方向、真後ろから現れた際の初弾発射にはおよそ5分かかるので、後ろを取ればやり放題という訳ですね」
  はねだって勉強部屋に設置してもらった三次元ホログラム投影機(こういうとき、貴族で良かったと思います)の仮想シミュレーションを見つつ、手元の演算機を操り頭をフル回転させていた。
「そうだ。宇宙戦は通常、一隻で戦う訳ではなく艦隊を組んでの戦闘となる。そのため回頭するといっても艦列を整えなければ、自軍同士でぶつかり合って自滅するだけだ。優秀な指揮官というのは、各船の能力を把握するのは勿論、いかに的確な判断をするか、そしてそれをいかに素早く伝達し、実際に艦隊を運用できるかという部分が長じている者を言うのだ」
 およそ貴族令嬢には実学以上に不要とも言える軍学を教えているのは、 家前当主であり元銀河帝国軍中将のコンラッド・フォン・ である。その身体には覇気が、そして瞳には喜びが満ちており、この授業に相当の気合いを入れていることが伺えた。
(こんなはずじゃ…なかったのにな…)
 複雑な計算式を展開させながら、 は心の中でこっそり溜息をついた。
 銀河英雄伝説は一種の軍記物とも言え読者の時分には戦闘シーンに胸躍らせたものだが、自分が艦隊を指揮したいなどとは全く思っていなかった である。それが何の因果か、その世界で政治経済を学ぶだけでなく、軍事教育も受けさせられる羽目に陥っているのだから、人生とは不思議なものである。
 うっかり戦艦と突撃艦の差は何だとか、艦隊指揮に必要な知識は何なのかと、好奇心に駆られて訊ねたのがそもそもの間違いだった。
(訊くならヘルツ大尉あたりにしときゃよかった…)
 後悔とは、常に後悔するような事柄をやらかした後にしかできないものである。
 元軍人で時間もたっぷりある人だからと祖父コンラッドに質問をすれば、彼は目を爛々と輝かせて孫娘に問うたのだった。軍事に興味があるのか、と。
 銀河帝国は自由惑星同盟と戦争の真っ只中にあり、政治経済だって軍事関係に多大なエネルギーを注いでいる。その意味で、 は軍事に全く興味がないわけではなかった。軍隊が出征すれば食料が必要となり、市場の食料価格は上がるだろうし、その逆も然りである。大きな経済的需要をもつ因子として、軍事分野は無視できない。
 ゆえに はコンラッドの質問を深く考えたりせず、勿論だ、と答えた。
 双方の想定する軍事に関する知識には、大きな隔たりがあったことを、 は日常に追加された新たな授業項目によって知ることになった。
 なんとコンラッドは孫娘に対して、士官学校で教えたりする軍事理論の基礎を教え始めたのだった。組織体制や艦の種別から始まり、ミサイルや砲撃性能の差異、機動力の優劣、艦隊戦の定石、さらに地上戦の部隊編制、突入の際の注意点などに至るまで、ずらっと並んだこれから教える項目として渡された一覧を見て、 は目眩を覚えた。
(コンラッドお祖父さん、指揮官だったもんね…)
 後方の補給計画などには興味があったが、軍事といって宇宙艦隊を指揮するための知識を教わるとは思ってもみなかった だったが、どうしてもこの授業を不要なものとして拒否できなかった。なぜなら、コンラッドがあまりに嬉しげに教えてくれるからである。息子カールは軍事に全く興味がなく、孫娘が自分の得意分野を教えてくれと言ってきてハッスルしているのだろうと、 は孝行の一環として諦めて軍事教育も結局は有り難く受けることにした。世の中、知っておいて損になることはないはずである。
(できれば活用する時がなきゃいいけど)
 庶民的感覚で言えば、戦争などないのが一番の幸せ、ということは間違いないと信じている であった。



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