「平民の侍女風情が!」
それは異様な光景だった。
いまだ幼く美しいドレスを纏った少女が激昂し、抵抗できない女を小さな掌で力の限り打擲を加えているのだ。女を抑えている兵士も困惑気味だったが、自分が手を放してブラウンシュヴァイク公の娘が怪我したとあっては我が身も危ないと、少女の為すがままにするしかなかった。
公爵に仕えるシュトライトもフェルナーも心情的には小さな暴君の振る舞いに眉を顰めたが、八つ当たりされるのが目に見え制止することを躊躇していた。
そこへ、ふらりともう一人の小さな背丈の少女が現れ、異様の原因へと歩み寄っていった。
(こういうの、あんまり向いてないんだよな)
どうしようか、説教をかまそうか。それとも一発殴ろうか?
止めようとエリザベートの傍へ来たはいいが、よい解決策が浮かばない
である。しかし、やはり放ってはおけないのだ。
「やめなさい」
我ながら諦めまじりの声だな、と思う。言って行動を止めるほど、エリザベートが素直で穏やかな性質ならば、このように声を荒げはしないだろう。
先ほどの涙に濡れた可愛い顔がどこにいったと思うほど鬼の形相で振り返ったエリザベートを、
は悲しく思った。この子供は自分が見下されたと言って怒るが、自分が彼女を見下していることに微塵も気付いていないのだ。
「なんじゃ! こ奴はわらわを…! わらわを…!」
やはり言葉では聞き入れそうにないと、
は喚く少女の暴れる腕を宥めるように掴む。
その様子を、周囲は固唾をのんで見守っていた。この世にブラウンシュヴァイクの権勢に劣るものはないと言われた家門のエリザベートに意見出来るような者は、その場には他に誰一人としていない。それを、同じ人質となってたとはいえ一介の令嬢が留めようというのだ。
そして、
はつい先ほど誘拐犯に向かって浮かべたものと同じ、人の悪いにやりとした笑みを浮かべた。
説教なんて柄じゃない。ついでに暴力反対。となれば取れる道は多くない。
「ばかもの」
「ば、ばか…?」
「悪い子にはお仕置きでーす! こうだ!」
「や、やめよ、何を…ばかっ…やめ…あは…くすぐっ…いや、もう…」
その場に居た全ての者は、一人残らず呆気に取られた。あまりに想像を絶する光景に、誰ひとりとして動きえた者はいなかった。
それまでの重苦しい空気はどこへやら、夜闇に覆われた森に少女たちの場違いに戯れる声が響き渡る。
「いや、やめ…う、うわ…そこは…あは…」
「やめぬ! 待てー!」
強制的に加えられる身を捩らずにはいられない感覚から逃げようとするエリザベートは勿論、逃げる少女を追いかけ押さえつけ、あらゆるくすぐったいポイントを責め続ける
も、息切れしながら次第に堪えきれないように盛大に笑いだしていた。
どのように反応すればいいのかわからず動く者もいない中、笑い合う少女たち。
フェルナーは、子爵家の少女はなんと怖いもの知らずなのかと、些か感心した。
何を始めるのかと思いきや、黒髪の少女は全力かつ容赦ない手つきでブラウンシュヴァイク家の息女をくすぐり始めたのだ。未だかつて、エリザベートにそのようなことを仕出かした人間を、彼は知らなかった。
フェルナーの考える怖いものとは、大貴族であるブラウンシュヴァイク公爵家という意味だけではない。
公爵家の長たるオットー・フォン・ブラウンシュヴァイクの妻は、現皇帝の娘であるアマーリエ。そしてその娘のエリザベートは皇帝の外孫にあたり、御位に最も近いとも言える血筋だった。外孫は他に一人、リッテンハイム侯爵家にサビーネという少女がおり、この両者がゴールデンバウム王朝皇帝の直系子孫の中で次なる玉座を争っていた。
実のところ今上帝であるフリードリヒ四世には皇太子ルードヴィヒがおり、相続上は彼が第一皇位継承権の持ち主であった。しかしルードヴィヒは余命幾ばくもないと侍医が保証せざるをえないほど病弱で、さらに彼を担ぐ後ろ盾の権勢は、ブラウンシュヴァイク公爵家やリッテンハイム侯爵家のそれと比ではない。加えて外戚たる両貴族は、ルードヴィヒ皇太子に早急に現世から退場してもらうことに余念がなく、いずれ憐れなフリードリヒ四世陛下の子息は儚い生涯を終えるだろうと目されていた。
それゆえエリザベートはゆくゆくは至尊の冠を戴く可能性もあり、ブラウンシュヴァイク公爵家の至宝のごとく蝶よ花よと大切に育てられてきたのだった。
フェルナーはブラウンシュヴァイク公爵家に仕官して、まださほど時が経っていない。だがその短い歳月でも、エリザベートにまつわる逸話は数多く耳にしてきた。エリザベートの手に少量の茶を零した侍女が鞭打たれた、目を離した隙に転んだ際の付き人が首になった、そういう話は枚挙に暇がない。エリザベートに接する人間は常に平身低頭し、幼い少女の機嫌を伺っている。そのように接せられて出来上がる人間のなんと傲慢なことなのだろうかと、フェルナーは初めてエリザベートを見た時に思った。
しかし、いま目の前で繰り広げられる光景には、傲慢さよりも年相応の可愛らしさが浮かんだ顔つきをした少女がいる。自分たちは主の娘だからと頭を下げ、エリザベートと気軽に接することなどできやしない。それはエリザベートの友人たちも同じだったのだろう、大貴族の娘としてしかエリザベートを見ない少女たちには、主君の娘にこのように無邪気な表情をさせることなど叶わなかったのだ。
はこの辺でもう充分だろうと、ようやく手の動きをストップさせ、エリザベートへと微笑みかける。
「あは、あははは…」
「どうです、私の技。おかしいでしょ!」
「うぬはっ、うぬは、本当におかしいぞ! わらわは…わらわは怒っているというに!」
「まあまあ、命も助かったし、そんなに怒ることもないですよ。そんなこと気にしてても誰も幸せにならないんだから、とにかく私たち二人とも無事だったということで、お茶でも飲みません? 私、温かなフォリア産のシトロン茶が飲みたいんですよね」
「むっ…フォリアの茶はわらわも好きだが…しかし…」
「それに土まみれで一刻も早く湯を浴びたいと思われませんか? こんなところでこんなことしている場合じゃありません、エリザベート様。淑女たるもの常に身だしなみには気をつけねばなりませんよね、やっぱり」
先程までの激昂が気がつけば嘘のように霧散してしまったエリザベートは、目の前の少女が笑いながら喋る内容を聞いていると、確かにこの場でこんなことをしているのも無駄かもしれないと感じ始めていた。目の前の少し年上の殴られて顔を腫らした少女は、そんなこと物ともせず笑っている。
「エリザベート様が御自ら手を煩わせずとも、どなたかが彼らをしっかり罰して下さいますよ。だからこのようなことせずに、暖かな場所へ参りましょう」
「…たしかに、そうかもしれぬ」
言われてみると、詰らないことに時を割くよりは、一刻も早く心地よい場所へ向かいたいと思えてきたエリザベートである。先程までの昂る気持ちを失ったエリザベートは、すでに用済みとばかりに、震えて俯く誘拐犯の元侍女からぷいと顔を背けた。
顔には出さなかったが、心の底から胸を撫で下ろした
である。
(まだまだ小さいから、口先だけでなんとかなってよかった)
心の中でぺろっと舌を出しながら、
はともかく再び勘気を起こされてはならぬとばかりに、己よりも小さな手を握り締めた。
「ほら、御髪も一度洗って整えてもらいませんと、エリザベート様の本当の美しさというものが曇ってしまいます。埃を落としたら、フォリアのお茶にぴったりのお菓子、家から持ってきてるんです。一緒に食べましょうよ、ね?」
「うむ。食べる」
(子供には餌付けだよねー。他のものに興味を向けてやればいいのさ!)
仲良く手を繋ぎ、とにかく屋敷へと戻ればいいのだろうかと左右を見回す。さほど離れていない場所に控えていたシュトライトへと目を留め、
はエリザベートに気付かれぬよう、小さく頷いて合図した。己の出番を察したシュトライトが足早に二人の令嬢へと近づき、
の無言の要請を引き継ぐ。
「エリザベート様、地上車を待たせております。そちらまでは、小官がお運びいたします。どうぞこちらへ」
「そちも一緒に…」
大人しくシュトライトへと抱えられたエリザベートが言いかけたのを、
は己の頬を指差して言う。
「ここで手当てを受けてから参ります。お先にどうぞ。すぐに参りますから」
(いい加減、ヘルツ中尉の視線が痛いし)
先程から、びしばしと治療を受けろ光線を受けている
は、
の両親に会う気の重さも手伝い、ともかく先に少しでも怪我をどうにかしようと、共に屋敷へ戻ることを辞退した。
怪我のことを出されては我儘も言えぬ少女は、渋々といった様子で頷く。
「必ず、すぐ来るのじゃ」
「はい、エリザベート様」
しっかり目を見て頷いて見せれば、嘘を言っていないと信じたエリザベートは、そのままシュトライトによって運び去られたのだった。
小さな少女の顔が闇に紛れて見えなくなるまで笑顔で見送った後、
は万感の思いを込めて息を吐きだした。
(あー、慣れないことはするもんじゃないわ)
子供の相手は得意というわけではないのだが、とにかく騒動が治まってよかったと安堵した
は、しかしそのままヘルツ中尉によって抱えあげられ、否応なく救護兵の治療を受けることになった。
「早く治療を受ければ、その分、治りも早いのですよ」
反論を許さぬ断固とした笑顔とともに言われ、その通りだとしか言えない
は、そのままヘルツの腕の中で大人しく手当てを受けた。
お姫様抱っこというのは随分気恥ずかしいものがある。
(まあ子供だから…いっか)
それ以上、深く考えるほど余力がなかった
である。
頬にガーゼを張られながら傍らを見れば、可笑しそうな表情のフェルナーがいる。
「…どうかなさいました? フェルナー中尉」
「いえ、面白い…いや失礼、フロイライン・
はとても聡明で楽しく、よい心映えの方なのだと感心しておりました」
「…それはどうも」
さも愉快だと言わんばかりのフェルナーに、疲労困憊の
はうまい切り返しも思いつかず、憮然と礼を返すに留まった。だが続く言葉には苦笑を返すしかなかった。
「願わくば、私もフロイラインのような忠誠に値する人物を主と仰ぎたいものです」
その言葉はどこをどう取っても、今のブラウンシュヴァイク公爵が忠誠に値しないと言っているように聞こえる。
(なんという危険発言…寝返りの芽はこんな時からあったのね)
これから十年後、フェルナーはブラウンシュヴァイク家を見捨ててラインハルトの陣営に走るのだ。部下の進言を取り入れず忠誠心を軽んじるブラウンシュヴァイク公は、己の忠誠心を捧げるに値しないと言って。
「もちろん、私のお仕えするブラウンシュヴァイク公爵も忠誠に値するだけのものをお持ちですがね」
それが人柄ではなく、名門の家名や権勢に対するものであることは、言われずとも彼の皮肉気な表情からわかる
だった。
「フェルナー中尉なら、どのような方の下でも己の心のままに動くことができるでしょうね。いずれは…」
(はっ!)
うっかり先のことを喋りそうになった
は、己の仕出かそうとしたことに気付き、疲労に緩んだ口を慌てて引き締めた。
(やばいやばい。これ喋ったらやばい)
何しろまだラインハルトは世に出ておらず、全く名も知られていない状態である。
そんな中、あなたはラインハルトに仕えることになるのだと言っても、通じる訳がない。それはまあいいとして、将来、なぜあの時、未来のことがわかったのだとフェルナーに追及されることになったらたまったものではない。
その確信めいた言葉の意図するところは何かという問いを、ちょうど現れた新たな人物の声にさえぎられ、フェルナーは投げかけることができなかった。
だが少女のやけに悟ったような瞳の光を、灰色の髪をもつ青年士官は、後々まで忘れることはなかったのだった。