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「うう…」
 腕の中のエリザベートが微かに身動ぎ、 はタックルしたまま少女を下敷きにしていたことにようやく気付き、焦りを覚えた。
「あ、ごめん。大丈夫…だった?」
 咄嗟のことで加減なく引き倒したし、どこか打ちつけてないかと思ったのだが、エリザベートはびっくり眼で状況が理解不可能といった様子だ。
(や、やばい。これ私が加害者? 一応頭は庇ったんだけど…)
 あまりに反応がないものだから、やはりどこかで強く頭を打ちでもしたのかと冷や汗が吹き出したが、エリザベートはふっと息を吸い込んだかと思えば、盛大に声帯を震わせて泣き始めた。静かにぼろぼろ涙を零すのではない。自己の存在をあまねく知らしめようとするかの如く、激しい声音である。
 豪快な泣き方だと半分辟易、半分感心したが、まだ幼く無理もないと、 は抱きかかえたままエリザベートの濃い茶のブルネットを撫でた。少女は安心したのか、縋りつくように顔を補正済みの胸に擦りつけてくる。詰め物が良いクッションとなって気持ちよさそうだ。
様!」
 地面で仲良く寝転がっていた二人の元へ、ブラスター片手にヘルツ中尉が飛んできた。
「ご無事で…はございませんね。お顔が…救護兵! こちらへ!」
 一瞬だけヘルツの栗色の瞳に安堵の光が浮かんだが、呼び声に顔を向けた少女の右頬が赤黒く腫れ上がっているのを目の当たりにして、その表情はすぐに険しく強張った。
(どんだけ腫れてるんだか)
 鈍い痛みは感じるのだが、部位だけに自分で見ることもできない。だが一目で殴られたとわかる程度の痕跡なのだろう。ヨハンナとカールの反応を想像すると、今から頭が痛い である。
 正義のヒーローばりに良いタイミングで人質たちの危機を救ったヘルツは、片膝をついて紳士的に一言失礼を詫び、一塊となっている とエリザベートの上体を抱き起こして己の身体に凭れさせた。
「ありがとう、ヘルツ中尉」
 その礼は単に抱き起こしてくれたことに対するものだけではなかった。
  が男に殴られそうと見るや否や、真っ先に声を上げて男を撃ったのが眼前の青年だったのだ。
 正直、ちょっと意外に思った である。
 ヘルツ中尉と会ってからまだ24時間も経っていないというのに、血相を変えて救助にきてくれるとは思っていなかったのだ。
(そりゃ私がいないの気付いたら、 家からも誰か来てくれるとは思ってたけど)
 とはいえ自らの生命が存亡の危機に瀕していた時に、見知った顔が闇の中で見えたことは、本当に心強かった。少しだけ神様というものに感謝したくなった。そしてもちろんヘルツ中尉にもだ。だから最初に彼に告げるのは、感謝の言葉と決めていた。
「申し訳ございません」
 責任を感じているように頭を下げるヘルツに、 は居た堪れなくなった。誰が悪いといえば、面倒を起こした自分が悪い気がする。
「謝るのはこちらの方です。不用意にふらふらと一人で散歩してたから攫われたんです。悪いのは誘拐犯と、攫われる原因を作った私で、ヘルツ中尉じゃありませんから」
「ですが、小官が御側を離れなければ…」
「大広間の辺りに普通の護衛官は入れないんだから側も何もありません。気にしないでください」
 厳然たる階級の存在する場でパーティの賓客以外はお呼びでないと、ヘルツを始めとした各貴族の随行員は別室待機が基本だった。だが の言う普通じゃない護衛は違う。その普通じゃない護衛とは、もちろんブラウンシュヴァイクご一行様である。有名門閥貴族だけに敵も多いのだろう、会場の警備はローバッハ伯家の配置に加え、ブラウンシュヴァイク家の随員も警備網に補充されていた。しかし幾重にも巡らされた警備も侍女によって手引きされた犯行には役立たなかったようである。
 苛烈な性質を兼ね備えた主の大切な娘が攫われ、その随行員たちはさぞや肝を冷やしただろう。エリザベートに怪我の一つでもあれば、全員の首が飛びそうだ。現に顔を青くしたシュトライトが先程から、囚われの身となっていたエリザベートがもう一方の人質となっていた黒髪の少女にしがみついたまま泣き続けるのを、困惑と顔にでかでかと書いた表情で見ていた。
 気付けば、先程まで泣いていたエリザベートが涙に濡れた瞳でこちらを見つめていた。
「そなた…名を申せ」
(強烈に上から目線なんですけどー)
 初めてまともに自分に向って掛けられた言葉であったが、その口ぶりに は目眩を感じた。母ヨハンナと初対面した時にも凄いと思ったが、エリザベートの口調は、 よりも幼い年ごろの女の子としては( の世界的に)一般という形容を全く受け付けない部類だ。恐るべし、銀河帝国の門閥貴族教育というべきだろう。
  はカルチャーショックを押し隠し、慇懃に名を告げる。
・フォン・ と申します」
?」
「ここローバッハの隣に位置する星系を治める子爵家でございます、エリザベート様」
 貴族でも中央の中央に位置する大貴族の娘が辺境貴族の名など知らぬ様子であったのを、シュトライトがフォローする。
「さようか。であれば、わらわを助けるのも当然のことじゃ。とはいえ名は覚えてやろう。 であったか。感謝せよ」
「それは…恐悦至極と存じます」
 乾いた笑いと謙譲語しか浮かばない である。自己の利益に基づいてエリザベートを助けたのだから、礼を言われるようなことでもないかもしれない。しかし、助けたことに変わりはないので、こちらが感謝するのはお門違いではないかと、庶民的感性の は思うのだ。しかし は濃い茶の髪の少女の名を覚える発言がいかに重大な出来事であったかを、後々知ることになる。彼女の発言はあまりに上から目線であったため には正常な意味疎通ができなかったが、つまりは『お友達になりましょう』発言だったのである。後日もろもろの騒動に巻き込まれたとき、 はあんな言い方ではわからないと本気でぼやいた。
「わらわはもう立てぬ。そち、運べ」
 幼い少女の命令に、シュトライトは黙々と従った。彼は賢明だった。貴族的感性による『分をわきまえる臣下』というものを既に身に沁みて理解していたので、否応なく赤いドレスを纏った主君の娘を抱えあげた。
 育ちの違いというものを見せつけられて脱力しそうな は、会話が終わるや否や、頬に冷えてぶよぶよした蒟蒻のようなものを押し当てられ目を白黒させた。その物体を押し当てた人物を見て、 は声(喜びであります)を上げそうになった。
「生憎、本業の救護兵はあちらにかかりきりですので、今はこれで応急処置を。すぐにこちらにも来るよう言ってありますので」
(フェルナー!)
 物体は氷嚢の役割を持つもので、もう一方の人質となっていた 家の令嬢の腫れ上がった頬を見かねて彼が持ってきたらしかった。
「エリザベート様よりよほど重傷であらせられるのに、申し訳ありません」
 令嬢の頬は見る者が顔を顰めずにはいられない暴行を受けた痕跡があるというのに、ブラウンシュヴァイク家に仕える救護兵は、こちらが先だといって殆ど怪我をしている様子の見られないエリザベートを優先して診察しているのだ。しかも令嬢は間違いなく巻き込まれた側だというのにと、フェルナーは融通のきかない救護兵から氷嚢だけでもと受取り、座りこんだままの少女の許へ参じたのだった。
「いいえ、私は大丈夫です。ありがとうございます」
 冷静な声で応じた黒髪の少女を、フェルナーは意外さを感じて見やった。
 何しろ誘拐という非常事態に巻き込まれた挙句に犯人に殴られているというのに、この落ち着きぶりは年相応の反応からはかけ離れているように、フェルナーには思われたのだった。
 そのような内心など知らぬ は、目前のシャープな細面のフェルナーを見てそれまで持っていた印象を変えていた。
(というか、意外にフェルナーいい人だったのね)
 オーベルシュタインの下で権謀術数の手伝いをしていたり、ブラウンシュヴァイク公爵を見限ってラインハルト麾下に下ったりと、どちらかというとふてぶてしい合理的タイプかと思いきや、しっかり優しさも兼ね備えているあたり、もてそうだな、などと想像してしまった である。
「貴官は先ほどの…」
 氷嚢をフェルナーから引き受けて主の娘へ押し当てながら、ヘルツは心遣いをくれた士官が先ほど共に誘拐犯の女の凶行を防いだ相手だということに気付いた。素早く階級章へ目をやり、ヘルツはそれが己と同じものと知った。
「ありがとうございました。貴官のお陰で 様を助けることができました」
「いや、私の助けなどなくとも卿なら助けられただろう」
 互いを認め合う空気を醸し出す二人の間に割り込むよう、早く名前呼びたいという己の欲求に従い、 は口を挟んだ。
「お名前を伺っても?」
「ああ、申し遅れました。ブラウンシュヴァイク公爵家に仕えておりますアントン・フェルナー中尉であります」
「私は ・フォン・ です」
「小官は 家私兵団所属のマティアス・フォン・ヘルツ中尉です」
 自己紹介を終えたところで、この二人ならばわかるだろうと、 は先ほどから気になっていた疑問を訊ねた。
「そういえば、なぜメルカッツ提督がここに?」
「ああ、それは…」
 ヘルツが口を開いた矢先、一度落ち着きを見せた捕り物現場に再び騒ぎの嵐が訪れた。
「そやつを殺せ!」
 高い音程を持つ子供特有の声が聞こえる。それが己のものでないことを は勿論わかっていた。
 その場に彼女以外の子供は、一人しかいないのだ。
 救護兵による診察を終えたエリザベートは、シュトライトに指示して誘拐犯である女の元へ足を向けさせた。シュトライトは指示された移動目的地点に対しては、眉根を寄せる以外になかった。苛烈な主君の気性もまた、その娘へと遺伝していることを彼は知悉していたので、次にエリザベートが言い出すことをほぼ正確に予測していたのだ。しかしここで彼が命令を拒んだとしても、少女は別の兵士に言いつけて同じことを命ずる。シュトライトは内心の溜息を表に出さず、小さな少女を運び、唯々諾々と元侍女の前に降ろした。
「お前、さきほどはよくもわらわを…!」
 拘束されている女は顔を上げる気力もなく項垂れている。その傍で、エリザベートは女を指差し喚いていた。
「誰か、こやつを今すぐ!」
「お待たせしました、頬を見せて下さい。ああ、ひどいですね…」
 ようやくやってきて診察しようという救護兵を、 は手を上げて拒否した。
「後でお願い」
 もう立ち上がりたくないと思うのだが、エリザベートの狂気が、犯人たちの犯行動機を知ってしまった今の には辛い。
 立とうとする意図を汲んだヘルツが、疲労によろめく を軽々と持ち上げて支えてくれた。だが はそれ以上の助力を断り、ひとり自分の足で大地を踏み締めた。放り投げた靴はどこへ行ってしまったのか、さっぱり見つからなかった。仮に見つかったとしても、散々足を痛めつけられた靴を、もう一度履こうという気にはならなかった は、地面の冷気を感じながら裸足のままで歩き始めた。



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