一陣吹き抜けた風が、森の梢を騒がせる。
灯りもない木立の中、エリザベートの手元の頼りない薄明りだけが彼らを照らしている。
誘拐を企てた二人は立ち上がった黒髪の少女の目に、ある種の憐れみが宿っているのを見た。
は切れた口の中の鉄錆くさい血を飲み込み、言葉を紡ぐ。
「こんなことして、タダで済むと思ってるの?」
「何だとぉ?」
の頭は怒りを通り越した激情のせいで、その心とは逆に冷えていた。
「もう少し、その無い脳みそ働かせて考えてみれば? メンバーの組み合わせからして貴方達、依頼されてエリザベートを誘拐したんでしょう。誰に頼まれたか知らないけど、本気で誘拐が成功してお金を貰って万々歳で終わると思ったの? エリザベートを無事返したとして、金を取られたブラウンシュヴァイク公が娘の無事を喜ぶだけで済ませると思う? 地の底まで追いかけてきて殺しそうな人柄だよ、あの人」
唐突にべらべら喋り出した少女に呆気に取られた誘拐犯達は、言葉を失う。エリザベートも今まで殆ど喋らなかった同じ人質の少女を、涙に濡れた顔を上げてみつめた。
「貴方達、この子を傷つけたり、殺そうとはしなかったものね。死なせるな、無傷で返せって言われてるんでしょう。そうすると、こうも考えられるわよ。誘拐の依頼者は、犯人を捕まえてブラウンシュヴァイク公に差し出して手柄を得ようとしてるのかも。迎えが来なかった? 嵌められたんじゃない? それに気付いたもう一人のお仲間、だから逃げたんじゃない?」
それは証拠も何もない思いつきではあった。だが、あながち的外れではなかろうと、
は思う。
大貴族の娘を攫おうという誘拐にしては、随分とお粗末な計画性しかなかったからだ。
「ブラウンシュヴァイク家の娘を攫って殺さないで返そうって犯人が、なんで覆面の一つもしてないの? そっちは元侍女なんでしょう? 身元なんてバレバレ。即刻家族にも手が回るはずよ。身元がばれても構わないと思ってる依頼者は、貴方達も殺すつもりなのよ」
更に想像を羽を伸ばせば、この誘拐依頼にはローバッハ伯が関与した可能性もありえた。
そう、ローバッハ邸の秘密通路を誘拐犯が知っているとあっては、疑惑の対象は狭くなる。もしもの時の逃げ道を、使用人などが知るはずがない。よほどローバッハ伯爵の身近な人物か、館の主自身が伝えなければ使えないルートだ。
抜け道を使わせて脱出ルートで待ち構えれば簡単に捕捉できるし、そこにブラウンシュヴァイク側の兵士はいない。犯人は射殺で口封じ、手柄はばっちり、金を渡す相手も死んで懐も痛まない。さらに使わせた通路と依頼者の秘密は闇に葬られる。
「まさか…」
少女の外見にそぐわぬ鋭い指摘に、悪事に身をやつす二人は明らかに狼狽の表情を見せた。
「嵌められた…?」
「そんなっ! このままじゃ私っ!」
男は
の発言に考え込むよう呟き、女は絶望に染まった表情で叫んだ。
慌てる二人を見つつ、危機に瀕しているのは私も同じだ、と
は思った。
偶然ではあるが、エリザベートと共に攫われたのはローバッハ伯爵家が虎視眈々とその領土を狙う
家の一人娘である。
これでローバッハ伯が自分を殺さぬ訳がないと、
の頭は計算している。
が不在となれば新たな子がカール夫妻にできない限り、縁続きのローバッハ家は容易に
家を吸収できる。
この考えに及んでいなかった先程までは、単純に誰かに発見してもらえれば助かるだろうと誘拐犯に唯々諾々と従っていたのだが、飛躍させた推理が正鵠を射ていた場合、
である
の命は風前の灯だった。
(今となっては、あの男が逃げて告げ口してくれそうなのが唯一の希望かも…)
ローバッハ伯が裏で手を引いていた場合、
が助かる道はただひとつ。
誰でもいいからとにかく、ローバッハ以外の兵士に捕まるか見つけてもらうしかない。もしくは、自ら逃げ出すかだった。だが後者の選択肢は多くの困難があった。エリザベートに逃亡の体力が残っているように見えず、彼女を見捨てればブラウンシュヴァイク公爵家が恐ろしかった。
ローバッハ伯邸の方角から小さく揺れる光が瞬き、ある程度近づいたところで消えてなくなったのを、丁度そちら向いて喋っている
だけが気付いていた。
まさしく、誘拐犯を追ってきた誰かだろう。
けれどそれが救い手なのか、はたまた死神の手なのか、今の
にはわからない。
「このまま脱出ポイントまで行っても、狙い撃ちされるというのが私の予想。手柄を狙う依頼主が用意した兵士に待ち伏せられているか、仮に私の想像が外れてたとしても、逃げたお仲間がこのルートを告げ口してないわけがない。自分が逃亡するのに警備を分散するために貴方達を餌に利用しないわけがないわよ」
時間を稼ぐように
は喋りながら、幹に身体を預けるようにして背後の死角をなくす。少なくとも、後ろから撃たれて殺されることがないように。
誘拐犯達が貴族という階級によって苦しめられている、広大な銀河帝国の中の被害者の一部であることはわかった。かといって、
は大人しく彼らに共にむざむざ殺されるかもしれない可能性など、選ぼうという気にはなれない。けれど今できることは、誘拐犯達がこれ以上先へ進めないよう気を引くだけだ。そして、すぐそこまで迫っているはずの追手が、ローバッハ側の人間でない可能性に賭けるしかなかった。
こうして攫われた少女の中身が、もし年齢通り十歳の幼い
のままだったらどうなっていただろうかと、
は思う。
は
がどんな性格をしていたのか、殆ど知らない。ただゼルマや両親の接し方を見ていて、大人しく可愛らしい子供だったのだろうと思った。そして、とても愛されて育ったのだろうと、そう思った。
だから考える。
なぜ私だったのだろう、と。
なぜ私でなければならなかったのだろう、と。
こうして今ここに存在し、何かを感じ、考え、喋ることができるのは、
ではなく、
だった。
平平凡凡に安穏と育ってきた人間である
が違う世界に吹っ飛ばされて子爵令嬢となり、挙句に誘拐されて犯人たちの叫びを聞いて感じたのは、我ながらもう少し違う感想はないかとも思うが、馬鹿馬鹿しい、ということだった。
伊達に平和ボケした国で二十ン年生きていない。
すごく悩んだこともあるけれど、命が関わるような悩みでもなかった。
も、
の周囲の人間も、あの世界では自分の幸せを追いかけて生きていた。戦争なんてないし、上の身分なんてものがあったとして、彼らが
に危害を与えようものならしっかりと法律で裁かれるように、
の世界はできていた。
だから思うのだ。身分や属性なんかで他人を見下したり、決めつけたりするのは、本当に馬鹿馬鹿しいと。
そして、私がこんなにも悩まなければならない状況なんて、馬鹿馬鹿しいと、そう思ったのだ。
(正直なんで私だったのかわかんないです、神様)
訳のわからぬ運命の悪戯で、子爵令嬢となって二週間。
随分と短い気もするが、目の前にある現実が切実な実感として認識できる状況で、その現実を見ぬ振りして違う世界の人間だからと思考停止するのが困難であると知るには、充分な時間だった。
生命の危機に瀕し、そしてこの世界に生きる人々の想いを叩きつけられた
は、己がいま現在、子爵令嬢であることをとにかく受け入れようと決めた。
それは、この世界に積極的に関与していこうという決心でもあった。中身は
のままであっても、とにかく自分が変だと思う事柄には、余所者だからと眺めるばかりでなく、変だと言ってしまおうというのだ。
目の前の誘拐犯達を、
は哀れに思う。
彼らの悪事に及んだ背景には、情状酌量の余地はある。まっとうに生きることがままならず、悪事に手を染めたのだ。
(けど、こんなところで死んでなんかやらない)
どこの世界で生きようが、やりたいことはまだ尽きていない。今はとにかく死にたくないと、
は思った。
誘拐犯達の背後の茂みから覗いた顔に、
はにやりと笑う。
神様は、どうやら自分を見放してはいないらしい。
いきなり満面の笑みを浮かべた人質の少女を、犯人の二人はぎょっとしたように見る。
「さっきからべらべらと喋り出したと思ったら、なに笑ってやがる。俺達が慌てるのが、そんなに楽しいのか!?」
なぜ私だったのだろうと、なぜ私でなければならなかったのだろうと、考える。
けれどそんなこと、神様にしかわからない。だから。
「楽しいわ。とっても」
黒髪の少女の言葉を嘲りと取った男が再び殴りつけようとでもするように、右手で銃を突き付けたまま左手を振り上げ近づいてくる。
そこは丁度、エリザベートの持つハンドライトの光が真っ向から当たる場所だ。
の左手、おおよそ五歩くらい離れた位置にいるエリザベートと、こちらに銃口を向ける女。
考えてもわからないなら、自分はできることをやるだけだ。
貴族令嬢という地位だって利用して、できることを、したいことを、やってやろう。
(私は、私の好きなようにやらせてもらう!)
振り下ろされる男の手を避けるように、左へ飛び出す。
「
様!」
闇夜を貫く幾筋ものビーム光。静かだった森が騒がしい足音に蹂躙される。
「ぐっ」
短い男の叫び声。何かが地面に落ちる音。目を焼く眩い光が、急展開を迎えた舞台を照らしだす。
は飛び出した勢いのまま袖の中に隠していた豪華な櫛を取り出し、眩しさに怯んだ女のエリザベートを抱える手に突き出した。痛みに怯んだ女の腕が弱まった隙を逃さず、
はエリザベートの身体に体当たりをかまして諸共、地面に倒れこむ。
「このっ!」
思い出したようにブラスターを人質たちに向けた女は、けれど再び空間を走った二本の光条に手にしたブラスターを吹き飛ばされ、凶器を取り落とした。
が伏した頭を巡らせてビームの発射地点を見れば、ヘルツ中尉とフェルナーがいた。二人は互いに顔を見合わせ、にやりと笑い合う。その笑いを言語化したなら、お前なかなかやるじゃないか、といったところだろう。
「確保せよ!」
そう指示を飛ばす声は渋いメルカッツおじ様の声ではないかと、場違いに暢気なことを
は考えた。
わらわらと襲いかかる兵士たちに、誘拐犯の二人は殆ど抵抗すらできずに取り押さえられる。
そう、運命の女神が微笑んだ相手は、
だった。
先ほど彼女が暗闇の中で見つけた顔は、マティアス・フォン・ヘルツ中尉のものだったのだ。
最も先に誘拐犯と人質ご一行様に追いついたのは、カールとヨハンナに言われて
を探していた
家のヘルツ中尉と、主の怒りを恐れたブラウンシュヴァイク家の随行員達だった。メルカッツが捜索隊全体の指揮をとることになったのは、重なった偶然によるものだという。
とはいえその辺の事情をまだ知らぬ
といえば、コルセットのせいで深い呼吸ができないのに激しく動いたため、息も絶え絶えだった。
(助かった…けど、くるしー!)
けれどとにかく自分もエリザベートも無事だったと、
は胸を撫で下ろした。
腕の中のエリザベートが死ぬ=ブラウンシュヴァイク公爵お怒り=
家終わりであるからして、
はエリザベートを決死の覚悟で助けたのだ。
(はは、何やってんだろ、私)
別にエリザベートが死んでも、
は全く困らない。だが、
家は困るだろう。そう思うと、子爵令嬢であることを受け入れた今の
は飛び出さずにはいられなかった。
人を攻撃するなんて、慣れないことをするもんじゃないと思う。
現に、心臓は人を傷つけた罪悪感で一杯だ。
けれど死にたくないし、
は家族思いの女よりも身近な人間たちの方が大事だった。
誰もここでどうやって生きていけなんて、教えてはくれない。
だからそう、この数奇なチャンスが終わる日まで、好きなようにやるしかない。
(私は、私のやりたいようにやる)
慌て顔でヘルツが飛んでくるまで
はエリザベートを抱えたまま、誰も知ることのない清水の舞台から飛び降りる級の一大決心を果たした余韻を味わっていた。