は犯人たる「おやじ」と言える年頃の男と腕を組まされ、元侍女の女はエリザベートを支えるように歩いていた。どちらも一見、仲が良さそうに連れ立っているだけに見えるのだが、ドレスや服のフリルに隠れて、実は腰元にブラスターが押し当てられている。そうしてひと気のない廊下をしばし歩き入った部屋で、
は置かれた状況も忘れて少々感動した。
(…秘密通路…貴族の館の醍醐味だね)
傍目にはわからないように仕掛けされた壁の一部が開き、豪華な装飾の向こう側に通路が現れる。中は薄暗く湿ったトンネルのようで、感覚的には五分ほどだったろう、暗い道を抜け石段を上ると、ローバッハ邸の敷地のどこかに出たようだった。
は不思議に思った。秘密通路などという隠れた逃げ道を、なぜ誘拐犯達が知りえたのかということである。しかしそれ以上考える間もなく、追い立てられるよう歩かされた。
足元は踝まで草に埋まり、暗闇の中を乏しい灯りで歩いているため、ドレスの裾は低木の枝先に絡み、転がる石には何度も足を取られた。
(ドレスにヒールでトレッキングって新手の拷問に使えるよ…)
何しろ息苦しいほどに締められたコルセットに腹を圧迫されている上、足首を捻りそうなヒールではこの散歩も全く健康には寄与していないに違いない。唯一、ダイエットには有効かもしれないなどと、己の本来の肉体の贅肉を思い出した
は思う。
「ちんたらすんなっ! 早く歩け!」
「ひいっ!」
小さな明かりが揺れて転がる。
苛立ちの声を上げる口の悪い中年男はブラスターの銃口を、ぐりぐりと
の背に押しつけたのだが、鋭い声に驚いたエリザベートは持たされたハンドライトを取り落としてしまったようだった。
「どんくさい子。早く拾いなさい」
「っ…はい…」
「私が指示するように動きなさい!」
今までかしずかれていた相手に命令されたのが屈辱的だったからだろう、エリザベートは唇を噛みつつ明るさの抑えられた光を拾い上げる。それだけで喚き出したりしないのは、もちろん命が危機に脅かされていたからだった。
ローバッハ邸の建物から出た後、
は誘拐犯たちに連れられ、身を潜めて鬱蒼と茂る木立の中を進んでいた。パーティへ向かう途中、地上車で走ったローバッハ家敷地脇のどこまでも続いていた鉄柵を思い浮かべ、
はとにかくこの拷問に近い散歩がまだ終わりそうにないと溜息をつかずにはいられなかった。ここから逃げ出そうというのなら、とにかく敷地の端までは行かなければならないだろう。どれほどかかるのかと、気が遠くなる思いだ。
どこへ向かっているのかという問いの答は、秘密通路を使って館を抜け出した後、二人の誘拐犯の会話ですぐに知れた。
「プランBの脱出ルートだ。南端の森の奥、柵を破ってあるらしい」
(それ、絶対に使わない方がいいよ…)
これがストックホルム症候群というものだろうか、
は誘拐犯達に哀れみに近いものを感じてしまう。
(常識的に考えて、さっきの男が裏切って告げ口してるに決まってるじゃん)
部屋を出る時に見えた目つきの鋭い男の笑いは、
には嘲りや皮肉の笑いにしか見えなかった。
あの若い男は逃亡を第一目標にしているのだ。裏切った仲間を囮にしてその騒ぎに乗じて逃亡を企むだろうことなんて、単純な計算をすればすぐにわかるというものだ。とはいえ、囚われの身になっている者からしてみれば、誘拐犯がドツボに嵌ってくれるのは勿論ありがたいことこの上なかったので、
は黙って男に連れられるまま歩き続けていた。
(フェルナーやシュトライトなら、その辺も見破りそうだけど…あの男捕まるかな…)
何しろ冷静で頭の切れる男のようだったから、囮の上に二重三重と策を巡らせて悠々と逃げ出す姿が目に浮かぶようだった。
誘拐犯三人組はなぜこの組み合わせで結成されたのだろうと、
はふと思う。
逃亡を選んだ男が頭の切れる纏め役だとして、残りの二人は目つきの悪い男に従っていた風には見えなかった。しきりに金と言っていたから、三人は金目当てでこの仕事だけ手を組んでいる線が濃厚のようだと、
は推理する。とすれば、金を出す財布の主としてこの誘拐劇の黒幕がどこかにいるはずだった。
(……リッテンハイム? うーん、さすがにわからないな)
原作の中ではブラウンシュヴァイクとリッテンハイムが門閥貴族の二大巨頭として君臨していたが、今はその十年前に当たるのだ。
も知らない勢力が存在して、ブラウンシュヴァイクと権力闘争をしているのかもしれなかった。その辺は、宮廷勢力図をよく知らねば解明は難しい。
しかし色々と考えてみると、このまま歩いているのはやばいような気がする、と
は思い直す。ばらばらに散らばったパズルのピースが、一つずつ当てはまり、形を取り始めていた。
が頭の中で陰謀劇の裏側を思い描いている間も、元侍女の女のエリザベートに対する攻撃は止まない。
「言われたことも満足に理解できないの? これだから貴族ってのは嫌なのよ。拾ったら早く立ち上がるのよ!」
それは強烈な憎悪の滲んだ声だった。
「は、はい…いたいっ…」
女はエリザベートの髪を乱暴に掴みあげ、引っ張り上げる。
「おい、煩いぞ。見つかっちまう。黙れよ」
「ふんっ、わかってるわよ…それより、本当にこっちであってるんでしょうね?」
二人は取り出した携帯用の小さな情報端末を取り出し、話し合っている。
視線も人質である
とエリザベートから放されていたが、銃口はしっかりこっちを向いているため、仮に逃げようとして走り出してもすぐに撃たれそうだった。それ以前に、ドレスとヒールでは俊敏な動きは望むべくもなく、もう一人の人質も走れそうにないくらい疲れ切っている様子だ。
振り払うようにして髪を放された反動で、エリザベートはよろけて
の方へ倒れこんで来た。エリザベートの手とは違って、
は後ろ手に縛られた振りをしたままだ。手を出すこともできず、
は彼女のその幼さにしてはやや重めの身体を、踏ん張って身体全体で受け止めた。
「…大丈夫?」
同じ人質となって、初めて
はエリザベートへと話しかけた。だがごく小さく呟いた幼い少女の声を、
の耳は捉えてしまった。その瞳には昏い光が揺らいでいる。
「あのおんな…お母様とお父様にいいつけて殺してやる…」
(……お父上に似て過激でいらっしゃる)
幸い、本当に低い音量での復讐宣言だったので、誘拐犯達には聞こえなかったようだ。
ルートを確認し終えた二人は、再び
とエリザベートを引き連れて一層と森の奥へと進んで行った。
それから半時は歩いただろうか、歩き続けていた四人のうち次第にエリザベートの足が鈍り、ついに膝をついてぐずり始めた。
「もう…歩けない…足痛い…」
その感想は
も同じだった。口に出さないのは、単に忍耐力の年季の差というものである。
「立ちなさい!」
銃口を泣き伏す少女の頭につき付け、女は激昂する。苛立ちを抑えない中年男は、女に対してお前に責任があるといわんばかりの声を上げた。
「おい、早く歩かせろ! 何ならお前が抱えて歩けよ」
「嫌よ! あんたが抱えていってよ」
「嫌だね。小うるさいガキは嫌いなんだ」
結局、言い争っても埒が明かないと思ったように、女はエリザベートを半ば引き摺るように抱えて歩き出す。進行速度が大幅に遅くなった歩みの中、中年男は傍らの黒髪の少女を思い出したように視線をやった。
「そういえばお前はやけに静かだな。震えて声も出せないってか。腹ん中で誰か助けてってお祈りでもしてんのか?」
(やっぱ哀れみよりも、腹が立つな)
「はい」
反論するのも面倒だったので、
は幾分震えているように見えるよう努力しながら頷いた。途端に、中年男は馬鹿にした表情を浮かべ、
を小突く。
「やっぱりガキでも貴族だな。ない頭使ってちょっとは自分でどうにかしようって考えてみろよ。お前、どこの家のガキだ」
それが別に家に送り届けようという親切心から発した言葉でないことは、
にもわかっている。ついでに身代金でもせしめようというのだろう。
価値観は全く違うがお人好しで脳天気な二人の顔が思い出され、
はなんだか正直に家名を名乗るのが憚られた。迷惑をかけるのが心苦しいと、そう思ってしまったのである。そして、そんな気持ちを抱くようになっていたことに、
は自ら驚いた。
(結構、私も馴染んじゃってるな…)
黙りこくった人質の一方を見てどう思ったのかはわからないが、中年男はさらに言い募る。
「どうせ唸るほど金があるんだろ。ちょっとばかし俺らに分けてくれたって、どうってことねえはずだ」
その質問は、
にとっては大して深い意味のないものだった。単純に、その金を何に使うのだろうか、という疑問から発したものだった。
「…何でそんなにお金が欲しいの?」
お前は馬鹿かと言わんばかりに蔑んでいた表情の中、怒りが男の目に急激に宿った。
「お前らのせいに決まってるだろ! この貴族のガキが!」
突然の暴挙を、
は避けることができなかった。
手の甲でしたたかに右頬を打たれた
は、吹き飛ばされて傍の木の根元に倒れこむ。
痛みに呻きつつ目を開くと、森の奥に幽かに揺らぐ光が遠い視界の隅を掠めていた。
「お前らのせいで、俺達は食えなくてこんなことしてんだよ! 何で金が欲しいだ? 俺達の金まきあげて贅沢してのうのうと暮らしてんのはどこのどいつだ!」
さすがの私もショックを受けずにはいられない、そう思いつつも、
の頭の片隅が自分を冷笑しているようだった。
(殴ったなあ、パパにも殴られたことないのにってか?)
じんわりとした熱が顔全体に広がっていく。揺らされた脳に視界がぐるぐると回り、気付けばなぜか演技ではなく身体が震えていた。
だが
は、男の暴力に恐怖を抱いたのではなかった。
ただ、今の
には頬を打たれた痛みより、男の言葉が痛かった。
「俺だって普通に暮らしてえよ。だがな、貧乏な農民は今年の不作でこんなことしなけりゃ明日の飯にも困るんだよ。兵役終わって生き延びたと思えば、相変わらず上の奴らの言いなりで扱き使われて奪われてってのは変わんねぇ」
さきほど女がエリザベートにしたのと同じよう、男は
の頭をマメだらけの手で掴みあげた。
仰け反らされた首が痛んだ。美しく整えられた髪はほつれて無残な様になっているだろうと、まだ
の冷静な部分が考えている。
「俺にも娘がいるよ。でもお前みたいなきれいな服着てパーティで遊ばせてやることなんざできねぇ。お前らのせいでな!」
だからこそだろう、男はそれ以上の乱暴を幼い少女に振るうことを躊躇うように、掴んだ手を離した。
(ああ、やだ、こういうの…)
不可抗力で子爵令嬢をやっている
にしてみれば、それは理不尽な仕打ちだった。なぜ自分が男に殴られ頭を掴まれ、罵倒されなければいけないのかと、頭のどこかで感じている。自分は別時代の別世界から来たんだと、叫び出したい気分に駆られる。
けれど、なりたくてなった訳ではないが、今の
は肉体としては紛れもなく子爵令嬢なのだ。この二週間、確かに自分は温かいベッドで寝て、美味しいものを食べ、くだらない教養教育を受け、働かなくてもいいような安穏とした生活を送っていた。帰り方などわからないと、置かれた立場を考えずただ楽しもうと思った。
(私もお貴族様を笑えないや)
鬱憤を晴らすように、元侍女の女も
に向かって嘲り混じりに吐き捨てる。
「私だって、貴族に殴られた弟が半身不随にならなけりゃ、こんなことしてないわ。けど、まとまった金が必要なのよ!」
彼らが単に欲に目が眩んだために誘拐を行った訳ではないと、
は知った。
その背後には、貴族によって苦しめられる平民の姿がある。二人だけではないだろう、もっと大勢の平民階級の者たちが同様の目に遭っているはずだった。彼らはただ、己の取り得る手段を取っただけなのだろう。ラインハルトは姉を奪われて皇帝を追い落とすことを選んだ。同じよう、彼らは貴族の子供を誘拐することを選んだ。単に事の規模が違うだけだ。
は巻き込まれただけで誘拐対象ではなかったはずだが、貴族の一員であることにはエリザベートと変わりがない。
(けど…)
倒れた衝撃でほとんど落ちかけていた後ろ手の縄を、
は手首を捻って完全に解いた。
地面に肘をつき、上半身を起こす。きれいな緑色のドレスが、今や土にまみれてどろどろになっていた。
足を締め付ける拷問のヒールを脱いで放り投げ、立ち上がる。素足の裏に下生えの草がちくちくと突き刺し、くすぐったいと思った。
「お前…いつの間に!」
男は慌てて下ろしていたブラスターの銃口を、少女に向ける。女の方も、エリザベートの首を腕で締めるように拘束しつつ、右手の凶器の照準をもう一方の人質へと合わせた。
俯いていた少女の瞳が挑むように二人に向けられ、夜闇の中で小さく煌めいた。