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「美しいフロイライン、そのような隅でどうなさいました? 先ほどから貴女を見つめていたのですが、見るたびに私の心は貴女に惹かれていくようです。よろしければ私めにあなたの秘められた名前をお教え下さいませんか」
 ポエムな声をかけられて振り向いた は、嫌そうな表情を出さなかった自分を褒めたいと思った。
(げっ! フレーゲル男爵じゃないのこれ!)
 清楚な( 的には最も地味かつ機能的だった)装いと艶めく黒髪に視線を集めていた少女が壁際で一人物憂げにしているとあって、先ほどから の知らぬところで誰が声をかけるのかという水面下のバトルが繰り広げられていたのだった。暗黙の了解として、宮廷の序列順に声をかけるのがパーティ作法であり、令嬢とのお近づきを狙う者の中で最も権力をもったフレーゲルが、トップバッターの座を射止めたのだった。権力といっても彼自身にまつわるものではなく、ブラウンシュヴァイク公の血縁である故のものだったが。
「私はブラウンシュヴァイク公の甥であるフレーゲル男爵です」
 さり気なく俺偉いんだぞオーラを出しながら胸に手を当てお辞儀したフレーゲルを、 は令嬢的笑みを顔に張り付けながら、どうすべきか逡巡した。
 彼はおおよそ十代後半くらいに見えるのだが、補正込とはいえ十歳の子供に近づいてくるとは特別な嗜好があるのか疑ってしまった である。だがヘルプ機能によると、この声掛けに特におかしなことはないらしい。貴族令嬢のライフコースでは二十歳以前に嫁ぐことも珍しくないので、十代前半で『婚活』するのも普通だし、結婚相手として目されることもあり得るのだという。
(だけど…フレーゲルは嫌だ…)
「…お声をかけて頂いてありがとうございます。けれど、名乗るほどの者でも御座いませんので…」
 そう言って場を離れようとしたのだが、数分しか保つことができなかった礼儀をかなぐり捨てたフレーゲルに、 は右手を掴まれてしまった。
「俺がわざわざ声をかけて聞いたんだ、名乗らぬなど無礼だろう」
 先陣を切って話しかけた自分が相手の名も聞けなかったというのは、彼にとっては大きな屈辱だった。
  は知らなかったが、フレーゲルは貴族間でもある種の評判を得ている人物として有名であった。自らの気に入らぬことがあればすぐ腹を立て、婦人の嫌がる素振りも意に介さず執拗に声をかける要注意人物と、もっぱら悪評高かったのだ。
 その評判を知らずとも、作中でさんざん厭味たらしい態度を見ていたので、 にしても最もお近づきになりたくない部類の人間である。
 手を振り払ったりしたらますます激昂しそうだし、さりとて名乗ればねちねちと付き纏われそうだ。助けを求めるにしてもフレーゲルの性格を考えると、近場に居て是非助けてもらいたいフェルナーやシュトライトたち兵士では騒ぎが拡大して、彼らに迷惑がかかりそうで声をかけあぐねてしまう。周囲を見回しても、わざわざ厄介事に巻き込まれたくない、けれども顛末が気になる他の貴族子弟たちは遠巻きに此方を見物しているだけだった。
「さあ、何という名なのだ?」
 仮に名を知ることができたとしても、この様では好感など抱いてもらえるはずがないことに、フレーゲルは気付かないのだろうか。としても騒ぎは起こしたくないので、どうこの状況を切り抜けるべきか思い悩んでいたところ、周囲の人垣から一人、華美ではないもののセンスの光る装いをした金髪の少年( の精神的には彼は高校生くらいに見える)が進み出て、白馬の王子様よろしく救いの声をかけてきた。
「フレーゲル男爵、あまりそのように女性に乱暴な真似はするものではありませんよ」
「…ヴィーゼ家の」
 フレーゲルの顔が嫌そうに歪む。
 よっぽど苦手な相手なのだろうかと、 は二人の間に挟まれながら思った。
「貴殿には関係がないことだ。俺の勝手だろう」
「周囲を御覧になればよろしい。貴殿は己が小さな淑女に乱暴な振舞いをするような性質だと、自分で喧伝しているようなものです」
 好意的とはいえない注目を浴びていることに気付いたのだろう、フレーゲルは盛大に舌打ちをして の腕を突き放した。
「あっ!」
「おっと」
 息苦しいコルセットの上に踵の高い靴でうまく体勢を整えられなかった が倒れこみそうになったところ、フレーゲルを留めた救いの主が腕を差し出して支えてくれた。フレーゲルは鼻を鳴らして踵を返すと、そのまま人垣の中へ消えていってしまった。 たちを囲んでいた者たちも、ひと段落ついた騒動に輪を崩して動き始め、談笑を再開していた。そのネタは今しがたの騒動であることは間違いなかっただろうが、ともかくいらぬ注目を浴びてしまったと は気疲れに溜息が出そうになった。それに加えて今の状況である。
(なんという乙女チックシチュエーション)
 嫌な奴に絡まれたところを助けてくれた上、今は彼の腕の中なのである。金ぴかフリフリの装束が多い中、彼の潔い程に装飾を削ぎ落とした盛装は、現代感覚を持つ にとって好感度大だ。
 そっと黒い衣装を辿ってその顔を見上げると、フレーゲルを追い払ってくれた彼の、菜の花のように明るく薄い金の髪色が眩しかった。
「大丈夫でしたか、フロイライン」
 自分が本当に十歳だったなら、これで恋に落ちない訳がないという程お膳立てされた場面だった。
 だが は単純に、かっこいいな、と思うだけで体を離し、姿勢を整えた。
 あちらの世界基準で高校生と二十過ぎ。犯罪のような気がしてしまう。
「ありがとうございました。本当に助かりました。あの手の人は本当に性質が悪いですね。あれで名前を知ったからといって、絶対に仲良くなりようがないのに」
 思わぬ災難に本音が零れてしまった である。
 異性に慣れぬ少女であれば間違いなく顔を赤らめるような場面で素っ気なく、しかも辛辣なことを言うものだから、彼は少し意外そうに、けれども気を害した風もなくにやりと笑った。
「いいや、大したことではないよ。貴女は見かけによらず面白い方ですね。僕はユリウス・フォン・ヴィーゼ。名前をお伺いしても?」
 見かけによらずというのは、彼が助けた少女は一見すると物静かな雰囲気を纏っていたからである。
 黒髪に黒い瞳はありふれた色であったが、緑の派手すぎない装いと相まって神秘的にも見えたし、人目のある場でも我先にと目立とうとしない自然体の振る舞いが、彼の眼を捉えたのだった。
(いや、落ち着きがある、かな。それにしても、話してみると印象が変わるな)
 人の第一印象とはあてにならないものだと、ユリウスは少女に対する考えを修正した。
 あのように儚げな様子ではフレーゲルを上手くあしらうこともできないだろうと口を挟んだのだが、この気の強さであれば不要な節介だったかもしれない。
「申し遅れました、私は ・フォン・ と申します。あのフレーゲル男爵を追い払うなんて、ユリウス様こそ凄い方ですね」
「まあ、僕は彼に嫌われている自信はあります」
「私も彼の嫌いな人物リストに、これで晴れて載れたかもしれません。一緒ですね」
  はユリウスと顔を見合せて笑った。
(面白い人かも)
 コンラッド以外に話の合う相手を見つけられていなかった は、短い時間の中でユリウスの性格に大いに興味を覚えていた。それは向こうも同じだったのだろう、人の少ない広間の隅に移動した二人は、飲み物片手に話の花を咲かせることになった。

「ユリウス様はまだ十四歳でいらしたのですか。外見も喋り方も大人びているから、てっきりもっと年上かと…私と四つ違いですね」
 この場合の「私」はもちろん の肉体年齢を指している。実際の年の差はあまり考えたくない。
 ユリウスは若葉色の瞳を、盛大に見開いた。思わず言葉遣いも崩れてしまうくらいの衝撃だ。
「君、十歳なの!? 僕もてっきり君はもっと歳をとっているかと…いや、失礼、これは失言でしたね」
「構いません。化粧の上にドレスの中にも詰めものを入れていますから、間違われるのも当然です」
 その詰めものが入った場所を見てしまわない程度には、ユリウスは礼儀正しかった。
「本当に 嬢は面白い方だ。普通の十歳の令嬢はそのような物言いをしないものです。僕も子供らしくないと言われて育ったが、君は僕が十歳の時よりはるかに落ち着いているように見える」
「それでは私は普通ではないのでしょう。普通が刺繍やダンスに興味を抱く部類を指すのでしたら、ですけど」
(その通り普通じゃないからなー、それにしても、いつ元に戻るんだか)
 思わず遠くにありて故郷を思ってしまった である。
「普通じゃない貴女は、どのようなことに興味を抱いているのです?」
 首を傾げて尋ねる彼は、単純に好奇心から問いかけたようだった。
 どこまで素を晒してしまうべきか、 は一瞬ためらいを覚えた。
(うーん、素直に言っても大丈夫かな…)
 とはいえ相手も別に が政治経済に関心を持っていると知ったからといって、どうということもないだろうと、 は隠さず話すことにした。短い間であるが話してみると、彼はどちらかというと貴族的価値観とは違った信条を持っていて、柔軟な思考ができそうな人物に感じられたからだ。
「今は帝国内の経済構造と市場制度について、ですね。政治にも関心がありますけれど、やはり経済を知りたいと思っています」
 再びユリウスは盛大な驚きを表現せずにはいられなかった。
 本来の彼であればこのように感情を直接的に露出させることなどありえないのだが、小さな黒髪の少女を前にすると、その対人防壁も簡単に突き崩されてしまうようだった。
「意外すぎて言葉も出ないという状況を初めて味わった気がしますよ。十歳の貴族令嬢からそんな言葉が飛び出してくるなんて…」
「先ほども話した通り、普通ではありませんので。そういうユリウス様も、普通とは違っていらっしゃるように思えます」
  からしてみれば、フレーゲルが簡単に引き下がったこともそうだし、政治経済に興味を抱いているといって馬鹿にしない貴族子弟は珍しいように思えた。仮にローバッハ家のヘルムートなんかに同じことを言おうものなら、女なのにそんなことを、と散々罵倒されるような気がする。
 ユリウスは見上げてくる黒い瞳に、肩をすくめてみせた。
「ヴィーゼ家はどちらかというと、実業で名を上げた家だからそう思われるのかもしれませんね。正直、こういう場は苦手で仕方がないのです。少々、自分の趣味とは違っているので」
「左様でしたか。そういえば、先日読んだ『銀河帝国経済構造』にもヴィーゼという名があった気が…確か、帝国内でも有数のコンツェルンで軍需から娯楽産業まで手広くなさっている、あのヴィーゼ家?」
 実業のヴィーゼ家という言葉に、 の頭の中を掠めるものがあった。記憶の糸を手繰るように思い出そうと努力すれば、おぼろげな内容が口から出ていた。何しろあの本は結構分厚いので、全ての内容をしっかり覚えている訳ではない。幸いヴィーゼの名が本の終わりのあたりに記述があり、まだ記憶が新しいから脳内に留まっていたのだ。
「ああ、そのヴィーゼ家です。よくご存知のようだ」
(なるほど)
  は先ほどフレーゲルが大した反撃もせずに去ったことに納得した。
 ヴィーゼ家は有数のコンツェルン、つまり財閥の一族で、門閥貴族のように皇帝に縁を作って外戚として権力を振るうのではなく、主に経済の場面で力を持っている家なのだ。だからこそ貴族的権力図からいえば、ヴィーゼはヴラウンシュヴァイクやリッテンハイムに比肩するほど力を持った家名に違いない。
(帝国貴族にも、優秀そうなのいるじゃん)
 あちらで原作を読んでいるときには貴族の横暴や無能っぷりが強調されていたが、中にはやはりヒルデガルド・フォン・マリーンドルフやこのユリウス・フォン・ヴィーゼのように優秀な人材が育っているのだ。
(あの教育じゃほんの一握りしか成長しそうにないけど)
 子供は環境次第でどのようにも育つ可能性を持っている。
 この先、政治経済に加えて教育に関しても学ぶべきかと思考を飛ばしていたところ、優美な音楽が響き出して は現実に引き戻された。
 音の出所を見れば、小編成の弦楽団が軽やかな三拍子を奏でている。
嬢、よろしければ一曲いかがですか?」
 ユリウスに微笑みながら右手を差し出され、 は焦らずにはいられなかった。
「あの、私は普通じゃないのでダンスも上手くありませんし…」
「僕もです。一緒ですね」
 頭一つ分以上は身長差のあるユリウスは、こちらの顔を覗き込むように見ている。
 ここで手を取らなければ、ユリウスに恥をかかせてしまうような罪悪感があり、 は緊張した面持ちで小さな手をユリウスの掌に重ねた。
(一応、 なら踊れるんだけど、私はどうなんだろ)
 知識の共有は出来るが、体の動かし方を共有ができるかはわからないヘルプ機能である。
 恐る恐る場の中心に進み出て、 はユリウスのリードの下、音楽に合わせてくるくる回り始めた。
「…人間、やればできるものですね」
 意外に滑らかなステップを踏めたことに、 は思わず呟いた。
「はは、謙遜の割に大分踊れるじゃないですか」
 踊る前は足を踏んでしまうのではないかと戦々恐々としていたのだが、思い通りに足が動くとなると、今度は俄然楽しくなってきた。愛と勇気が友達なロマンチック夢物語はあまり好きな部類ではなかったが、体を動かすことは元来嫌いじゃない である。
 何組もの男女が足捌きを披露する場を囲むように見ている観客の中に、カールとヨハンナを見つけた。
(すっごい嬉しそうなんだけど)
 後であれはどこの誰だと根ほり葉ほり聞かれることになりそうだと は思いながら、ターンをひとつ。
 柔らかく背を押され、軽やかに舞うことができる。
 自分も上手ではないといいつつ、これはかなりの腕前に属するのではないかとユリウスにちらと視線を投げかけると、よく手入れされた緩やかに波打つ金髪を舞う動きに合わせて揺らしながら、ユリウスは快活な笑みを浮かべて へ告げた。
嬢、できればまたこうしてお話する機会を、僕に与えてくれませんか?」
 照れたようにこちらを見下ろすユリウスの草色の瞳。
(うっ…もしや? いやいや、ただ友達が欲しいだけ…かも? どっちかというとユリウスの感覚は一般人っぽいし、単に普通じゃない貴族令嬢に興味を持っただけだよね。うん)
 間違いなく楽しい会話相手となりそうなユリウスを無下にすることなど、知的欲求に飢えた にはできそうになかった。
(だって、財閥の息子…絶対いい教師とかつけてもらって、経済ネタ知ってるし!)
 それに加え、彼を親しい相手として両親に紹介すれば、この先降ってきそうな見合いやパーティ攻撃などは回避できるかもしれない。
 ただ再度話がしたいと言われただけなのだから、その言葉通り、話をすればいいのだ。難しいことはないではないか。
 相当に身勝手な動機から、 はユリウスに肯定の言葉を返す。
「喜んで、お話の相手を務めさせて頂きます。できれば今ユリウス様がなさっている勉強のカリキュラムについてお話を伺いたいです」
 会って欲しいというのは、つまりはデートの申し込みであったのに、この少女は全く雰囲気のないことを返してくるものだと、どこまでもロマンスに縁遠い性格の令嬢に、ユリウスは笑わずにはいられなかった。
 この先はどうなるかわからないが、ともかく良い友人にはなれるだろう、そう思ったユリウスだった。
 二人はその後、数曲ほど円舞曲を共に過ごし、再会を約して別れた。
 しかし、まだまだパーティの終わりは見えず、宴の夜は更けていく。


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