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09




 皆が黒い服を着ていた。頭上を大人達の声が行き交う。
 名誉ある戦死。家名に恥じぬ戦い振り。わが祖国と皇帝陛下の御為に身命を捧げた忠義の騎士。
 身なりは立派だが、腹が太鼓のように突き出た男が喋っている。
 とはいえ、宇宙戦のさなかに死んだとなれば、身体のひとつも残っていまい。あの箱には何が入っているのか。愛用の遺品が相場なのだろうね。ご子息もまだ幼いというのに、不運な方だ。
 大人達の視線が、自分の方へ降りてくる。
 お母上をよくお助けするんだよ、お父上の分まで。いずれはお父上のような立派な軍人におなりになるのかしら。ミュッケンベルガー伯爵一門の男子とはいえ、分家筋の子なんですもの。ヴィルヘルミナ様は嫁ぐ先を間違ったのだわ、家督を持たない、それも従兄との婚姻になど何の利もないのに。若い身空で未亡人。生家へ戻るのでしょうね。それにしても雨。裾に泥がはねるのが嫌だわ。ああ、気が滅入ること。
 冷たい雨に、手がかじかんでいた。寒い。灰色の世界。変な形の石がいくつも並んでいる。鳴り止まない鐘の音もうるさい。
 大人達の囁き声は嫌いだった。それが母に関することであるときには、特に。
 早く帰りたい。ここにはいたくない。何も楽しいことがない。けれど、母がいる。一人で帰りたくない。
 父と同じ軍服姿の大人も沢山いる。父は、あの中のどこかにいるのだろうか?
 泣き出しそうな気配を察したのか、母が自分の手を握りしめた。
 柔らかな感触の黒い手袋がはめられた手。見上げた母の顔は、黒紗のヴェールに遮られている。
 母も、そして自分も黒服だ。これはなぜなんだろう?
 これはあなたがお持ちなさい。
 白い花で編まれたリースを手渡された。爪の先ほどの丸い小花がいくつも連なっている。ゆうべ、母が作っていたものだ。
 右手は母と繋ぎ、左手には花輪を持ち、黒い箱の前に連れられて立った。
 何かが始まり、白い顎髭の老人が意味の分からない言葉をずっと吐き出していた。
 足は動き回りたがったが、人が大勢いる場所では静かにしていなければならないと、母と父が教えてくれた。だから自分は、静かにできる子でなければ。
 ずいぶん長い間、我慢した気がする。老人が黙った。けれどそれは終わりではなく、自分は母に導かれ、人の列より前に出された。
 さあ、父上に花をお渡しして。最後のお別れなのよ、ディートハルト。
 びっくりして、自分は母に問うた。
 母上、なんでお別れなのですか? 父上は、宇宙へ行くからと、このまえお別れを申し上げたばかりです。次にはお迎えのご挨拶じゃないんですか?
 お別れなのよ。もう会えないのよ。母は膝をついて目線を下ろし、自分の頬を優しく撫でた。
 なんで? お帰りって申し上げていないのに? 父上はまたどこかへ行ってしまわれたのですか? 知らない間に?
 自分が何か言えば言うほど、母の顔は曇っていく。悲しませようと思ったわけではないのに。ただ、わからず訊ねただけなのに。
 あの方は、ヴァルハラへ召されてしまったの。あなたのお父上は、もう帰ってこないのよ。神の御庭に招かれた。
 宇宙に行かれたのでは、なかったのですか? 船に乗ると仰ってた。
 父上は船に乗って、ずっと遠くへ行かれたの。そして宇宙を彷徨う星の欠片になった。もう会えなくなってしまったわ。もう見えず、声も届かない場所に、あの方は。
 母の瞳から、丸い雫がいくつもこぼれ落ちた。
 わからない。なぜ父はもう帰ってこないのか。なぜ母は泣いているのか。
 なんで、父上はお別れのご挨拶をしてくれなかったのですか?
 静かにせねばという父母の教えを破って、大声をあげて泣いた。
 次に戻ったら、お馬に乗せてくれると仰ったのに。父上。
 何よりも、そのことが自分にとっては嫌だった。
 一列に並んだ軍人が、何もないはずの灰色の空に向けて銃を撃った。一度、二度、三度。
(約束を破った、父上)
 薄闇の狭間に、ディートハルトは居た。
 まばたきごとに目の前にあったはずの光景は掻き消え、残ったのはカーテンの防御をくぐり抜けた微光にうっすら浮かぶ、比翼の描かれた天蓋だけだった。自分は、夢を見ていたのだ。
 指先を伸ばして眦が濡れてはいないことを確認したが、胸に重たく残る不定形の感情は拭えなかった。
 奇妙に生々しい余韻に、ディートハルトは寝返りを打ち、仄かに柑橘らしき芳香のするリネンに顔を埋める。夢の続きが見られはしないだろうかと瞼を閉ざしながら、どこかで驚いている自分もいた。
(父上の葬式のことを、俺はこんなに憶えていたのか)
 記憶にないと思っていた光景が、つい一瞬前まで鮮明に再現されていた。
 父の訃報に接した当時の幼さゆえに、これまでずっと、父のことも、そして父の葬式の日の記憶も朧なのだと信じていた。
 ディートハルトの思い描く父は、肖像画や立体フォログラムの凛々しい軍服姿のそれだ。彼にとっての父は、友人達が鬱陶しいとか、話し難いと語る相手との関係よりも常に良好で、そして遠いものだった。墓参で語りかけることはあれども、馬に乗せてくれるという交わしたはずの約束も、泣き叫んだことも、ずっと忘れていた。母が言ったとおり、父は遠くへ去ったのだ。あの頃よりも更に手の届かぬ、時の彼方という過去へ。
 だが今頃になって父を想起したのは、半日前に参列したばかりの葬礼の光景に、記憶の底がかき混ぜられた結果だろう。我ながら単純な頭のつくりだと、感心する。
(けれど、思えば似た光景だったのだ)
 黒の喪服に身を包んだ人々。肌寒い雨が静かに降りそそぐ墓地。暗雲が覆う空にいつまでも響き渡る、弔いの鐘の音。
 式の合間、噂話に興じる者がいるのも、かつてと同じだった。
「事故ですって。ローバッハ伯爵領で。ああ、おかわいそうに。ご令嬢はまだ幼いのに。爵位はどうなさるのかしら」
「ご令嬢しかいらっしゃらないのでしたら、婿をお取りになるのかしら」
「きっと軍人だろう、卿がお選びになるさ。この豊かな領地を手に入れるのは、果たして誰かな」
「あのご令嬢はブラウンシュヴァイク公爵家とも近しいらしいが、それよりも、あそこにおられるのはリヒテンラーデ侯爵ではないか。子爵夫人は絶縁状態であったが、そういえばリヒテンラーデ一門のお方であったからな。鷲の如き侯爵閣下も、新たな領地を増やす好機とみて羽を伸ばしてきなさったか」
「貴卿の家には年頃の男子が二人いたか。下のご令息と娶されるおつもりですかな」
「いえいえ、貴方様こそ、さほど子爵夫妻と生前にご縁があったわけでもなく、ここにいらしているのが私には不思議に思えますが、そうそう、少々事業の方でお困りのことがあるのでしたなあ」
 聞くに堪えぬ事ばかり、人は噂したがるものだ。
 ディートハルトは、在りし日に自分がそうであったように棺の前に立つ、亡き子爵夫妻の肉親たちへ視線を転じた。
 杖を手にした老いた英雄の傍で、小振りな花輪をふたつ持った少女。彼女には、その手を握る母も父も、もはやいないのだ。
(泣かないのだろうか)
 つい一週間ほど前に、帝国博物館で見つけた小さな星。あの日に彼女の頬にあった、泣き痕は見つけられなかった。
 吸い込まれるように、ディートハルトは再び夢の世界へ落ちていた。
 煌めく水面が見える。光を反射し、穏やかな風に揺れる池。
 黒い喪服を纏ったままの母がいる。
(ああ、これは父の葬式の後のことだ)
 先程とは違い、不思議なことにこの夢でディートハルトは自身が夢を見ているのだと認識していた。
 昼下がりから夕刻まで同じ場所にいたため、幼い自分は既に飽いている。早く帰りたいのに、母上は何をしているのだろう?
 虚ろに水面を眺める母は、たゆたう池に向かって二歩進み、そして三歩目に振り返ってこちらを見た。
 だがどこかで違和感を感じてもいた。母からは表情が抜け落ちていた。
 池の縁に立つ母が、か細い声で呟く。どうして、あの方と一緒にいられないのかしら。こんなにも、苦しい気持ちになるなんて。
 自分は母に駆け寄って、手を握りしめた。早く帰りたい気持ちもあったし、表情のない母が恐ろしくもあった。
 早く帰りましょう、母上。
 ディートハルト、父上にお会いしたい?
(あの時の俺は、何かを察していたのだろうか)
 家の寝台に居れば会えます。父上は、寝てる間に来てくれるんです。昨日は一緒に馬に乗ったのです。母上も夢で会いませんでしたか? 母上と一緒に寝たら、三人で会えないですか?
 握りしめた筈の母の手が、自分の手を強く握りかえしていた。
 父上と一緒じゃないけれど、お馬に乗りたいです、母上。父上は、母上と一緒にたくさん遊びなさいって仰っていました。まだまだ楽しいことはいっぱいあるって。
 母は何も言わず、ディートハルトを抱き締めて泣いた。
 全ては夢だった。幻の父と共に馬に乗ったのか、今はもう何が真実かは判らない。
 夢はいつしか現実へと戻り、ディートハルトは再び羽を交わす鳥たちの居る天蓋を見上げている。
 今のディートハルトに判るのは、恐らく母が父の後を追おうと迷っていたこと、それを踏みとどまったことだけである。
(そして、・フォン・も)
 ディートハルトは夢の続きを諦め目を開いた。夢どころか、眠気すら薄れてしまっていた。
 窓の外では鳥が囀り始めている。寝台脇に置いた個人用の携帯通信機で時刻を表示してみると、まだ午前四時の半ばを過ぎたばかりである。
 伸ばした首と手を力無く枕に落とし、ディートハルトは思案に暮れた。
 どうも自分は・フォン・という少女のことが気にかかるらしいと、ディートハルトは自覚していた。
 おそらく、自分の置かれた現在の状況にも要因があるはずだった。ディートハルトが横臥する寝台は、子爵家の邸内の一室に存在しているのだから。
 成り行きで意図せぬ方向へ状況が転がっていくことも時にはあるのだと、ディートハルトはこの二日で身をもって知ったところである。
 もともと葬儀後には、ディートハルトは辺境に長く滞在するつもりはなかった。
子爵領は緑豊かで過ごしやすい風土の惑星であるが、授業も欠席したままであるし、物見遊山に耽ろうとも、ましてや子爵家にひとり遺された令嬢と懇意になる努力をしようとも思えなかったディートハルトである。物事には時機というものがあり、また貴族ゆえのしがらみから顔を背けたいと思うが故だった。
 ふつう葬儀は墓地で営まれ、祈りと花を捧げる儀式を終えると、歓談のための席で軽食が用意されるのが通例であった。そこで遺族を慰めたり、故人の思い出話を語るだけ、とはいかないのが貴族の世では常である。特に今回は爵位を保持していた子爵夫妻がヴァルハラへ迎えられ、家督の行方に注目が集まっていた。葬儀後の席が和気藹々とした雰囲気になろうはずもないことは重々承知であったが、それに出席するまでがディートハルトの今回の任務である。
 墓地では、かつてパランティアの英雄と呼ばれた卿や、両親をあまりにも早く見送ることになった少女の放つ厳かな空気に、声を掛けそびれてしまった。だがミュッケンベルガー伯爵家からの献花だけでなく、口頭で弔意を伝えることこそ祖父グレゴールの望むところなのだからと、ディートハルトは子爵邸で設けられた慣れぬ場の空気を否応なく吸わなければならなかった。
 席次は自由のようでいて、実際は位階や年齢によって微妙に色分けされるものだ。ディートハルトはミュッケンベルガー伯爵継嗣として子爵位に相当する儀礼称号を持つが、祖父ほどの年の差がある他の子爵閣下たちと肩を並べるのも気重で、誰もいない端の席に腰を下ろした。
 その後、しばらくして彼に相席を求めた者が居た。見知った相手ではなかったが、席を同じくすれば多少の話もする。
 年頃の近いヴェストパーレ男爵夫人は、爵位の行方よりも幼い子爵令嬢への同情が大きいようで、しきりに自身と同じ黒髪の少女の話題を口にしていた。
「私も先年、彼女と同じような立場にありましたから、お気持ちを考えると辛いことも多くおありだろうと胸が痛くて。本当に、人の弱った時につけこもうとする禿鷹のような人たちも沢山いらっしゃるから。誰もカール様やヨハンナ様のこと、本当は悼んでないのじゃないかしら」
 聞けば、彼女は絵画と詩作を嗜む関係で亡き子爵夫妻との交友があったのだという。
「カール様はご自身も画家として名高い方ですけれど、積極的に芸術家の支援もなさっていて、私も同じようなことができないかとお話を伺ったり、ヨハンナ様とは少し歳が離れていますけれど、本当にお姉様のようにお慕い申し上げておりました。ここ半年ほど多忙でヴィジホンでお話する程度でしたけれど、本当にこんなことになると知っていれば、無理をしてでもこちらへ足を運んだというのに……」
 堪えきれぬというようにヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナは涙を零したが、ディートハルトはハンカチを差し出しその場を離れるしかなかった。
 祖父の名代として葬儀に参列したディートハルトは、故人との縁が薄い。正直な所、悲しみに暮れるといった心境ではない。その自分が、故人の死を嘆く相手に何を言えるのだろう?
 元の席へ戻るわけも行かず、ディートハルトは歓談のために人々の集った部屋から、バルコニーへ逃れた。
 雨が降っていたためだろう、窓の外にはディートハルトの他に誰もいない。窓硝子一枚のことだが、彼にとっては興味薄の話題に興じる、下卑た声を遮断できるのは有難いことだった。
 上階の庇の下、雨があたらず、室内からも見えない位置の手摺りにもたれ、いっとき気分転換をするだけのつもりだった。
 しかし、彼は視界に黒い影を発見してしまったのだった。喪服に身を包んだ少女が、霞雨にまぎれて覚束ない足取りで木立のほうへ歩いて行くのを。
「お嬢様! どちらへ行かれたのです、お嬢様! 雨も降っているのに……どうしましょう、どうしましょう」
 侍女のものらしき困惑声が、二階の窓から漏れ聞こえた。すぐに、男性の声が応じる。おそらく使用人なのだろう。
「どうしたのだね、ゼルマ」
「あなた。先程まで自室で休んでおられたはずのお嬢様が、おられないの。邸内はすべて探したのに見当たらないし、門番はお嬢様の姿は見ていないと。庭先にいるのかしら、どこへいってしまわれたのかしら。ねえ、どうしましょう。カール様とヨハンナ様を亡くされて塞ぎがちであられたから、まさか、そのようなことはないですよね」
「今日は邸内にもお客様が沢山おられる。何者かに拐かされた、ということもあるかもしれぬ。至急、護衛の者と大旦那様にお話せねば」
 ディートハルトは逡巡した。件の令嬢はつい今しがた目の先を横切って行った。
 その事実を伝えるだけで、果たしてよいものか? 両親を失ったばかりの少女が、何事かを求めて人のいない木立へ踏み行ったのでは?
 思考が帰結するや否や、そうすべき義務は皆無であったが、ディートハルトは手摺りを飛び越えて庭先へ着地すると同時に駆け出していた。


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