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08



 校長室の重厚な扉の奥には、同じように重厚な気配を漂わせた人物が居た。
 かの人を古めかしい大時計のよう、と表現したのは友人のゾーンであるが、幼年学校の長であるグレーベ中将の風采は、まさしく使い込まれたアンティーク家具のように年季と風格を感じさせた。
 その気質は伝統主義と生真面目の二言に集約され、改善や進歩より旧習を守ることに己の使命を見出す六十手前の老軍人であった。時間と規則厳守にもうるさく、ディートハルトは校長室へ入る前に二度ずつ各人の服装を点検したほどである。小さな乱れは大きな乱れへ繋がる。それが校長の口癖なのだ。
 ディートハルトらが並んで敬礼すると、校長のグレーベは机の上で組んだ両手を組み直しながら頷いた。
「このような時刻に寮外へ呼び出すのは規則に準じれば許されることではないが、本日は急を要する件があったので、特別に来てもらったのだ」
 退役を目前に控え幼年学校の校長となったグレーベは、自身の在任中に不祥事を起こすことは全く望んでいなかった。
 というのに、彼の手元に先刻飛び込んできた報は、幼年学校の生徒が校外で乱闘騒ぎに荷担していたというもので、公になれば自身の不名誉に直結しかねない事態であった。
 グレーベは並んだ三人の内、まだ子供らしさを大いに残した両名の顔を、内心の不満を込めて睨む。
 一方は赤毛の少年で、伝統ある幼年学校には不似合いな平民出身の生徒である。本来なら幼年学校へ入学を許されるような身分にもないが、少年の隣に並んだ金髪の少年の背後にある権力が、赤毛の少年の存在を認めさせたのである。
 金髪の少年は一応は貴族の範疇に含められる家柄であったが、ほんの少し足を動かせば平民になるような出自である。顔貌は美しいが軍人には似つかわしくなく、また彼の姉である皇帝の寵姫の存在が思い起こされ、グレーベはその顔を見るたび一層不愉快になるのだった。
 取るに足らぬ帝国騎士の家柄の者が、家臣にしようとでもいうのか平民の子供を連れて幼年学校へ入学するのを、物言わぬ、けれども雄弁な権力によってグレーベは許可させられたのだ。そして今もまた、その不可視の権力によってグレーベは己の信条を曲げねばならなかった。
 それゆえ多少の皮肉が口調に混じるのも無理はないと、彼は自身の大人げない行動を許容することにした。
「警察の方から憲兵本部経由で連絡があった。なんでも本日午後四時ごろにニーダーフェルトの街中で、乱闘騒ぎがあったと。その際に、幼年学校の制服を着たとびきり綺麗な顔をした金髪と赤毛の二人組も当の騒ぎに加わっていたとな」
 やはり、とディートハルトは表情には出さず思う。事前に心当たりを訊ねて良かった。心の準備はしておくにこしたことはない。
 ミューゼルとキルヒアイスの両名が、人助けという名目があれど街中で騒動に関わったのは事実に違いない。こうして夜に校長室まで呼び出されるとなれば、褒賞か罰則か、どちらかといえば後者であるように、彼には思われた。
「その件に、君たちは関与していた、そうだね?」
 校長の重々しい問いに、金髪と赤毛の二人の少年は示し合わせたよう同時に頷いた。
「Ja(ヤー)」
 潔く言い訳もしない様子に気勢が削がれたようで、校長は口を噤む。だが気を取り直すように咳払いをひとつして組んだ手を解き、一語ずつ念を押すがごとく、磨き上げられた机上を右手の中指でとんとんと叩いた。
「相手の方は、鼻骨骨折、肋骨骨折、重度の打撲を負ったそうだ。大した武勇だ」
「ありがとうございます」
 天使のごとき容貌の少年の勝ち気さは、筋金入りである。
 明らかな皮肉に、なお皮肉を返す少年の肝の据わった態度は、見ていてディートハルトも感心するしかない。
 不機嫌そうな校長は机を叩く中指を止めて僅かに頬を歪め、今度はディートハルトへ視線を向けて言った。
「武を誇るのは結構だが、幼年学校生は未来の帝国軍人として規律に沿った行動が求められている。幼年学校生が私闘を行えば、どのような罰則があるか知っているかね、ミュッケンベルガー班長?」
「停学、もしくは退学処分であります。しかしお聞き及びかと存じますが、ミューゼルとキルヒアイスは…」
 ディートハルトは更なる言葉を続けようとしたが、校長はそれを許さなかった。
「よい、ミュッケンベルガー班長、私は私闘に関する校則について訊ねたのだ。それ以上の発言は慎みたまえ」
「…失礼いたしました」
 出過ぎたことを言わんとする大きな体躯の少年に、グレーベは更に不愉快になった。
 グレーベが本心で何を思おうとも、この朽葉色の髪の少年が庇おうとも、答は既に決まっているのだ。
 ベーネミュンデ侯爵夫人が生家にもたらした繁栄と、彼女の一声で多くの貴族が失脚した幾多の事例をグレーベは知っている。
 ミューゼルの姉が後宮へ入ったのはつい先日のことだが、すでに伯爵夫人の号が下賜されることも決まっていると聞く。皇帝の妾妃が虎の威を借る狐であっても、機嫌を損ねるのは得策ではないのだ。
 まったく、ラインハルト・フォン・ミューゼルが皇帝の寵姫の弟という身分でなかったら、格好の理由にかこつけて、この問題児を今すぐこの由緒正しい幼年学校から追い出してやるものを。
 それに幼年学校の生徒が市街地で暴力沙汰を起こしたとなれば、校長の責任問題にも繋がる。事を荒立てるよりは穏便に済ます方が何かと面倒が少ないに違いなく、グレーベは歯噛みしつつも不本意な言葉を口にせねばならなかった。
「君たちが、暴漢に襲われた者を助けんと乱闘に加わったことは、私も聞いた。そうであれば酌量の余地もある。本来なら停学か退学に相当する案件だが、厳罰に処すつもりはない――持つべきものは美しい姉ということだな」
 処罰がないと安堵したのも束の間、ディートハルトは校長の一言に息を詰まらせた。
 金髪の少年が、なにゆえ毎晩のように校内で私闘を行っているのか、その理由はディートハルトも嫌と言うほど理解している。
 さすがに校長に殴りかかったりはすまいと、祈る気持ちでディートハルトは傍らへ視線を滑らせた。
 ラインハルト・フォン・ミューゼル少年は賢明だった。室内灯にも色褪せぬ金色の輝きを放つ少年は艶やかに微笑んで、礼まで述べてみせた。
「ありがとうございます、グレーベ校長」
 ディートハルトは、一瞬だけ瞑目した。
 ああ、彼は決して校長が校外での乱闘を見て見ぬ振りしたことに礼を言ったのではないのだ。
 ディートハルトは、恐らく自身の予想が確実に現実のものとなると確信していた。ラインハルト・フォン・ミューゼルは、いつか必ず校長の不用意な一言に対する復讐を果たすだろう。
 校長は鼻白んで手を払い、さっさと消えろとばかりに退室を促した。
「もういい、君たちも今後は校外で乱闘騒ぎなど起こさぬように気を付けたまえ。いつでも私の手が事を覆い隠すなど思わぬことだ」
 とりあえずは特別なペナルティはなさそうだと胸を撫で下ろし帰ろうとしたディートハルトだったが、彼にはまだ安息が訪れそうになかった。
「ああ、ミュッケンベルガー班長。君には別の用件がある。残りなさい」
 そして楽しいとは全く思えぬ雰囲気の中に取り残されたディートハルトは、自分の手の及ばぬところで運命の歯車は回っていることを、再び痛感させられたのだった。


 ディートハルトはこれまでに何度も恒星間航行を経験したことがあるが、航行の中でも離陸する瞬間が最も好きだった。
 重力制御装置によって艦内はほぼ常に1Gに保たれているが、離陸の際には船体の上昇によって生じる重力負荷が加わり、身体には見えざる圧力がかかる。
 自分が確かに惑星の重力に繋がれているのだという実感と、その重力の楔から逃れて空へと上り、大気圏を越えて星の海に出でるのだという高揚感。
 船外の景色を映すモニタには緑と街並みが連なり、高度が上がるにつれ徐々に街は小さく、白く霞む雲の彼方へ埋もれてゆく。
 阻むものもない空を、船は悠々と飛び上がる。空と宇宙の境界は曖昧で、船の外部はいまだ大気に包まれていると思いきや、気付けば大地は既に遥か下方にあった。
 大気圏を完全に脱したのだろう、身体にはもう何の違和感もなく、まるで地上にいる時と同じように感じられる。あの星に自分がさっきまで居たのだと、遠ざかる惑星オーディンの姿を追いながらディートハルトはモニタに浮かぶ青い球体を見やる。
 宇宙に上がれば、帝都オーディンも、幼年学校の敷地も、そして自分の頭を悩ませる幾つかの事柄も些細なことのように感じられる、とまではいかないものの、それなりに気分が晴れる気もする。
 問題児の少年達と共に校長室に呼び出された翌日、ディートハルトは幼年学校を離れ、辺境子爵領までの途上にあった。
 なぜかといえば、つい昨日亡くなった、子爵夫妻の葬儀に参列するためであった。
 ニーダーフェルトでのミューゼルとキルヒアイスの騒動はお咎めなしと告げられた後、校長室に残されたディートハルトは一枚の書類とともに公務による欠席を認める旨を言い渡された。
 私室を空けていたため事情は後になって呑み込めたのだが、祖父グレゴールから連絡があり、祖父の代わりに葬儀へ顔を出すようディートハルトは言いつけられたのである。
 親友の息子夫婦の不慮の事故に胸を痛める祖父グレゴールは、上級大将としての軍務で大規模な訓練航海でしばらくオーディンから数百光年の彼方である。そこで名代を立てることになったが、代役にもっとも相応しい母は旅行でこれもすぐにオーディンへ戻れず、祖父との血縁と子爵領との距離が最も近い位置にいたディートハルトにお役目が降ってきたのである。
「手紙も花も、これで用意する必要がなくなったな、ミュッケンベルガー」
 昨夜、急ぎ荷造りをする彼の傍で、椅子に座ったゾーンが公欠届をひらりと振りながら言った。
 面白がる風の友人に、ディートハルトの口から思わず愚痴が漏れる。
「直接会って御両親を亡くしたばかりの相手に何か言わねばならぬほうが、よほど気が重い。それに十日も学校を空ける。勉強も遅れるし、課題も山積みだ」
「優秀な卿なら大丈夫だ。授業内容は通信で送ってやる。この窮屈な学校から逃れて息抜きできるんだ、そう難しい顔をするな。それに考えようによっては、これも件のご令嬢に気に入られるチャンスだぞ」
「ゾーン、これは公務だ」
「未来の相手選びも、卿の立場なら公務の一環だと俺は思うんだがな」
 ディートハルトの渋い顔にゾーンは風向きを察したのだろう、肩を竦めて立ち上がった。
「出発は早朝なのだろう。当分のお別れだな。旅の無事を祈る」
 おどけた仕草で崩れた敬礼をしたゾーンはさらに就寝の挨拶を告げ、そのまま部屋を出ようとしたところで、気付いたように振り返った。
「そうだ、ミューゼルとキルヒアイスには喧嘩沙汰の罰として、卿の代わりに毎朝厩舎で卿の馬の、ファルケといったか、彼女の世話をさせておく。それで構わないだろう?」
「……ファルケの方が心配だ」
「大丈夫だ、ミューゼルはともかくキルヒアイスは朱に交わって問題を起こしているだけで、基本的に優しい奴だからな。ファルケの世話もうまくやるさ」
 思い出すと美しい鹿毛の牝馬のことが気懸かりで仕方なかったが、惑星オーディンと自分の間にはすでに数光年の距離が横たわっている。
 ディートハルトは観念しろと自身に言い聞かせ、モニタの静かな宇宙を眺めた。
 光の当たる昼の部分から裏側へ回り込んだのだろう、明るく輝いていた惑星は宇宙の闇に覆い隠されてついに見えなくなり、いまや黒い宇宙だけが画面を占拠していた。
 時折、光が瞬くたび、ディートハルトは星図を脳裏に描いて星の名を探した。ひとつ、ふたつと名を思い浮かべる内に、船は惑星オーディンから遠ざかりつつあった。
 星の合間にあの日に見た光景を探している自分を、ディートハルトは見つけた。
 映像に過ぎない銀河など幾度となく目にしたのに、印象深く思われるのはあの場に居た少女のせいだろうか? 
 これから会うことになるだろう、両親を突如として失った少女に何を言うべきか、ディートハルトは逡巡する。
 ディートハルトがまだ三つだった時、父は宇宙に彷徨う星の欠片になった。そのように、母は詩的に父の死を表現してみせた。父を戦争で亡くしたのはほんの幼い頃で、死という概念さえも理解していなかったから、肉親を失う痛みもよく分からない。
 儀礼的なお悔やみの言葉とやらを告げたとしたら、目元を赤くしたまま、大丈夫だ、何事もないのだと笑うのだろうか。
 それは少し心が痛むと思いながらも、ディートハルトは頭を振って想像の翼が広がるのを押し止め、携えてきた学校の課題を机に広げることにした。
 そうはいっても、自分に何が出来るというのだろう? まず真っ先に考えるべきは、祖父の名代として立派に振る舞えるか否かではないか?
 子爵領へ向かう船の中、ディートハルトはそう結論して、星の中に佇む少女のことを頭から追い出した。



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