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07



 翌日が休日ということもあって、ディートハルトを生贄とする祭は食堂から彼の私室へと祭壇を移し、深夜まで続けられた。
 夜の点呼で一旦は攻撃は途切れ、おのおのが自室に引き上げて寝支度をする間、ディートハルトは自分がようやく詮索から解放されたのだと安堵したものである。
 しかし、敵侵攻の激しさと貪欲さは彼の予測を上回っていた。普段ならば夜には寮監の巡回があって秘密集会など不可能なのだが、休日の前には暗黙の了解として夜更かしがある程度まで認められていたので、それ幸いと友人達は点呼後にディートハルトの私室を急襲し、ベッドやソファ、果ては机にまで陣取って彼を包囲した。用意の良いことに枕や毛布は持参していて、祭が朝方までの長丁場となりそうな気配を伺わせる。そうして各自が腰を落ち着かせると、他の生徒たちがいた食堂では憚る話題を、ディートハルトに次々と投擲したのだった。
 十五歳といえば、年頃の男子として好奇の話題は尽きないものだ。そして好奇の赴くところが上品であることは少なく、狭い一室でディートハルトたちは自分と女性との肌の感触の違いや、男が生み出しえない香りの良さ、ドレスに隠された肢体の曲線などについて想像を巡らせ、論を戦わせた。
 話の途中、当然ながらその日ディートハルトが出会った子爵令嬢へも言が及んだが、周囲の攻撃にディートハルトは・フォン・嬢をこのように形容するに留めた。
「小さかった」
 ディートハルトとしては、黒髪の令嬢の背丈が自分の胸ほどにも足らなかったことや、引き寄せた身体の軽さばかりが印象に残って、それ以外に評する言葉を持たなかった。思い返してみると、彼女の黒い瞳はまん丸に彼を見上げていて、それなりに愛嬌があったようにも感じるが、努力して掘り起こした記憶がその程度なのである。
(それよりも、星が綺麗だったな)
 どちらかといえばディートハルトの瞼の裏には展示室の超新星や銀河の光景が先に浮かび、その中に少女が佇んでいた、という具合にしか思い出せなかった。
 淡い星の光に縁取られた黒髪は薄暗い宇宙に同化し、けれどもその黒に映った星が煌めいて彼女を彩り、床面に映る星雲の渦が少女を取り巻いて輝いていた。そう思うと、・フォン・嬢には星が似合うようだと、ディートハルトの鈍い感性が漠然とした表現を捻出したものの、言葉にしようとするとあの場の雰囲気は何一つ伝わらない気がする。
 押し黙った無骨な友人に気遣ったのか、ゾーンが話の調子を盛り上げるよう口を挟んだ。
「だが、当の子爵令嬢はまだ十歳と言うじゃないか。ミュッケンベルガーも言うように、まだまだ色々とお小さいのだろうな」
 すると、わっと笑いが弾け、友人達が口々に好き勝手に放言を始める。
「発展途上だな」
「さすがに十歳では食指が動かんな」
「やはり女性には、相応の豊満さが求められるべきだと俺は思うのだが、その種の豊かさは十歳では望めぬからな。いや、貴族の世では十歳でも婚姻を交わすことがあると知ってはいるが、さすがにそういう相手と見なすのは難しいと俺なんぞは思うのだが。幼すぎては、恋の夢も見られまい。その辺りはどうなのだ、ミュッケンベルガー」
 恋。それは甘美な響きを伴う単語である。
 ディートハルトは、それが貴族の責務と言われるならば、十歳の令嬢とも婚姻してみせることも厭わないだろう。十代半ばにもならずの婚約や婚姻など、貴族社会ではありふれた話だ。別に奇異でもなんでもなく、家と家との結束を強める目的で幼い子供同士の婚姻は普通に行われるのだった。
 しかし、恋をしろと言われればディートハルトは参ってしまう。そもそも、恋とは何かがわからない。
「俺よりも、恋と言えば、ゾーン、マウアー嬢はどうなった」
 不自然にならぬよう、だが機を逸さずディートハルトは話題の中心を友人へと明け渡した。下手な逃げ口上ではあったが、ゾーンは何もかも心得たようにディートハルトへ素早く視線をくれた後、自らへ注意を惹きつけるよう声高にマウアー嬢に関わる進捗を発表した。
「彼女とは、明日会うことになった」
 少々の興奮を伴ったどよめきが小さな部屋に響く。
「なんだと、連絡も交わせぬと数日前に言っていたじゃないか、ゾーン」
 ゾーンが人差し指を口元にあて、友人達に静聴を求めた後は彼の独壇場だった。
「実はな、どこから仕入れたものか、このディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーがフロイライン・マウアーの連絡先を、昨日の朝食の席で不意に差し出したのだ。無造作に二つ折りにしたメモを、こいつはいかめつらしい顔をして、やる、としか言わぬから、俺はまたなにか厄介事かと辟易しつつ紙を開いてみれば……まあ、話を訊くとミュッケンベルガーの知己のフロイラインがマウアー嬢に頼まれ、この男経由で俺とマウアー嬢の間を取り持ってくれたという具合なのだが」
 それから鈍色髪の友人は、明日の会戦で勝利を挙げるべく様々な計略を用意していること、何より胸が弾んでいてもたってもいられぬと喜色満面に語った。
 興味深くゾーンの対フロイライン・マウアー戦術案に耳を傾けつつも、ディートハルトには少しだけ友が眩しく思われる。
 人を好きになるとは、どのような心地がするのだろう。心の神殿にまだ誰も住まわせたことのないディートハルトには、推察の及ばぬことだった。
 夜は更け、ひとりふたりと眠りに落ち、話し声も途切れがちになった。ソファやベッドを占拠したまま眠りこける友人達を見回しつつ、ディートハルトも自身が眠りの神ヒュプノスに手招かれていることを自覚する。
「ミュッケンベルガー、眠るならベッドへ戻れ。ここは卿の部屋だぞ。まったく、奴らも少しは遠慮して自分が床に寝ろというのだ」
「構わない、俺はどこでも……」
 夢うつつにゾーンの声が聞こえるも、ディートハルトは床の固さに構わず眠気の慰撫に身を任せた。
 

 翌朝の寝覚めは、爽快さからは程遠かった。
「起床! 起床!!」
 スピーカーが喚く声に、小さな居室で微睡んでいた全員が慌てて飛び起きた。五年間の成果ここに極まれりである。どのような状況でも起床点呼がかかると眠気の欠片を吹き飛ばして立ち上がる習慣が、幼年学校にいると身についてしまうのだ。たとえ軋む骨が寝場所の不満を大いに上げていても、圧倒的に睡眠時間が不足していたとしても、である。
 休日であっても起床と朝食時間は変わらないので、現在時刻は〇六〇〇――午前六時だった。
 友人達は自身の寝乱れた格好もそのままにディートハルトのベッドを綺麗に直し、それぞれ自室へと枕と毛布を抱えて戻っていった。十分後、ディートハルトが身支度を終えて階段で顔を合わせると、既に幼年学校五年生としての模範的容儀を整えていた。
 朝食を終えると、外出予定の自班の下級生達が整列して点検を待っている。ズボンに皺がないか、靴磨きは行われているか、寝癖はないか、きれいなハンカチは持っているか、そういった細々とした項目をディートハルトは確認し、不備があれば指摘して改善させる必要があった。並んだ中にはミューゼルとキルヒアイスもいたが、二人はいつも万全の態勢で点検を受けに来るものだとディートハルトは感心することがあった。よっぽど文句を付けられたくないのだろう。良い心がけである。
 実のところ、不備など上級生の思惑ひとつで作りだし、指導することもできる。とはいえディートハルトは無駄な苦労は嫌いなので、実際に何もなければお墨付きを与えて休日の喜びへさっさと追い出していた。外出を心待ちにしているのは、誰しも同じである。
 容儀点検を終えたディートハルトは、友人達と共に街へくり出した。目的地は幼年学校に程近い、ニーダーフェルトである。大方の貴族子弟は平民の多い街に足を踏み入れないと言われているが、ディートハルトは友人らのお陰で“普通”の街で遊ぶことも多かったのである。
 ただ、オーディン市内に家族の住むディートハルトは、しばしば母や祖父のために家へ戻ったし、貴族ゆえに避けられないパーティにも顔を出していて、幼年学校の友人達と街中で遊ぶ機会の方がどちらかというと稀ではあった。
「今日は家へ戻らぬのか?」
 共に街へ出ると言うと、級友達にそう訊ねられた。
「祖父は昨日の内にイゼルローン方面での演習へ進発なさった。母も数日前からヴェストゼー星系のブリューメンメアへ花を見に行かれた」
 帝国軍上級大将である祖父グレゴールは既に数百光年離れた宇宙で艦隊を操っているだろうし、母は家族不在の屋敷に残ることを嫌ってしばしば遠方へ恒星間航行をも厭わず旅立つので、ディートハルトは今日のところは家へ戻る用事がなかったのである。
「そうか、では本日は未来の伯爵閣下に立ち食いの良さを教えてしんぜよう!」
 ディートハルトは友人らと共に、休日の開放感を味わった。何をするわけでもなく、学校の敷地外を昼間に散歩するだけでも気分が良いものだった。
 途中、思い立って本屋へ立ち寄り、図書館で一度読んだものの手元に置いておきたかった戦記小説を購入した。
「最近の流行りって何なのかな? 学術や実用じゃなくて、物語が読みたいのだけれど」
「それでしたら、こちらの棚に……」
(この声は?)
 ふと、昨日出会った子爵令嬢によく似た声が耳に入り、ディートハルトは思わず周囲へ視線を走らせた。七時の方角に黒髪の少女の後ろ姿を発見したが、水色のワンピースや二つに結った髪型は貴族のものではありえない。よくよく考えればこんな街中を貴族の令嬢がうろつくはずもなかった。・フォン・嬢が風変わりにも政治経済といった学問を修めていても、その他は深窓の令嬢と変わらぬ性質であろうと、ディートハルトはすぐに意識を切り替えて、待たせていた友人の元へ戻った。
 束の間の休日には、太陽は普段より速度を早めて日没を急いでいるのではないか。そう思われるほどあっという間に一日が終わり、門限を迎えてディートハルトは友人達と幼年学校へと戻らねばならなかった。
 そうして、ディートハルトの一日は平穏に終わる。とはいかなかった。
 その一報がもたらされたのは、夕食後に寮内の談話室で友人達と歓談していた時だった。ゾーンが本日の逢瀬における戦果を揚揚と報告し、皆が興味津々に年相応の好奇心を満たしていたところだった。
 廊下を進んできた規則正しい靴音が、談話室の側で止むと同時に、扉が開かれた。
 一番最初に気付いたのは、出口が見える形で場を囲んでいたゾーンである。話の途中に口を唖然と開けたゾーンは、突如立ち上がって直立不動となり、敬礼をしたのである。いぶかしがって背後を振り返った者は、一瞬前のゾーンと同様の動作を繰り返した。友の視線を追って、そこに教官の姿をみとめたディートハルトも、無論、横にならえである。
 さきほどまで賑やかにざわめいていた談話室内が、水を打ったように静まりかえった。
「ミュッケンベルガー班長」
「はっ」
 自分の名が呼ばれ、ディートハルトの胸に一瞬にして緊張が拡散した。何があったのだろう、自分は何か失敗をしでかしただろうか。
 基本的に寮監以外の教官は、生徒達がくつろぐ時間帯には姿を現さないものだ。その慣例が破られることは、すなわち急を要する報告なり案件があるということだが、これまでその手の伝達事項が朗報であったためしはない。
 初老の教官は、柔らかさなど一片も含まない冷徹な声で彼に告げた。
「二十分後の二〇一五に、ミューゼルとキルヒアイスを伴って校長室へ出頭せよ」
「二〇一五、ミューゼルとキルヒアイスを伴って校長室へ参ります!」
「よろしい」
 ディートハルトが了解の意を示すために復唱すると、教官は頷き、軍靴を響かせて踵を返し扉の向こうへ消えていった。直後、複数の視線がディートハルトに憐憫混じりに向けられた。
 腕を下ろして重い溜息をつくディートハルトの傍で、友人達が彼の内心を代弁する。
「またか…」
「まただな、ミュッケンベルガー」
 同情するような、けれどもそれでいて面白がるような調子のゾーンがディートハルトの肩を慰めるように叩くが、言い返す気力もない。
「班員の夜の点呼は請け負う」
「…頼む」
 ディートハルトはゾーンの申し出に頷いて、友人達に見送られながら談話室を後にした。
 今度は何をやったのかと、ディートハルトは足早に一年生の部屋が並ぶ寮の一階へと降りていく。寮監に呼び出されるなら例のごとく校内での私闘であろうと予想がつくが、校長室へ呼びつけられたとなれば問題はその程度では済まないものだろう。
 大股で廊下を進む五年生のディートハルトの威容を、入学まもない小柄な少年達はぎょっとして眺めている。視線のアーチを潜り抜け、彼は第一の目標地点へ談話室を出て三分後に到達した。
「ミューゼル、キルヒアイス!」
 ノックと共に大声で名を呼び、彼は十秒を数えて扉を開けた。下の学年を監督する立場の班長は、班員達の私室へ無言で入室しても咎められない。指導の名目の下、私室内のチェックをいついかなる時も自由に行う権利が彼には与えられている。ゆえに、わざわざ到来を告げ、さらに若干の猶予を与えるというのは幼年学校の班長の中では慈悲深い方に分類された。
 テーブルでくつろいでいたと思しきキルヒアイスが、首もとの襟を急いで留めている。ミューゼルは食べかけのクッキーを慌てて飲み下しながら勢いよく立ち上がった。その反動で傾いた椅子は、ディートハルトが部屋に足を踏み入れると同時に均衡を崩して倒れ、盛大な音をたてた。
 班員の憩いの時間を急襲した班長は騒音に眉をしかめたが、敬礼する二人に視線をやった後、こう告げた。
「今より十五分後に校長室へ出頭する。一分で服装を点検。用意、はじめ!」
 問題児二人は、言われるままに斜めになっていた上着を引っ張って直したり、靴紐を結び直したりしている。その間に、ディートハルトは背後の開いたままの扉から騒動を覗き見しようとする少年達を睨んで追い払い、話が漏れ聞こえぬよう戸を引いて閉ざした。
「両名、点検完了しました、確認お願い致します、班長!」
 二人の周囲をぐるりと周り、ミューゼルに対して制服の中心線のずれを指摘した後、ディートハルトは元の位置に戻って言う。
「休め」
 ディートハルトは自身も教本の模範のように正確な休めの姿勢を取って、幼い班員達の正面に立った。
 ミューゼルとキルヒアイスの顔には、疑問と緊張が渦巻いていた。まるで教官に不意をつかれた先刻の自分を見ているようだ。
「ここから校長室までは七分ほどだ。二〇〇五に出る。ところで、貴君らはこの呼び出しの心当たりはあるか? 寮監ではなく、校長の招きを受けるような何かの心当たりが? 発言するのは一人でよいから、三〇秒考えて一分以内で簡潔に説明してほしい」
 しばし蒼氷色と青の瞳が見合わせられた後、三〇秒経たぬ内に金髪の少年が一歩踏み出して言った。
「恐らく、本日の夕刻に我々がニーダーフェルトにて、人助けのために喧嘩の仲裁をしたことに関しての呼び出しかと思われます」
「どのような人を、どのように助けたのだ?」
「助けたのは、同じ年頃の少女です。暴漢に殴られかかっていたので、お守りせねばと暴漢を転ばせただけであります」
「……そうか、真実、人を助けただけなのだな?」
「はい!」
 勢いよく返事をする二人の拳に視線を走らせたところ、腫れている様子はない。人を殴ったというわけではないのだろう。そしてディートハルトは、ミューゼルとキルヒアイスが無根拠に他人を殴りつけて喜ぶ性格ではないだろうと、短い付き合いながら思っている。問題児の問題の大部分は、貴族子弟の言いがかりに端を発していることを彼は知っていた。
 だが、それ以上の詮索をするには、時間が足りなかった。
 ディートハルトは二人についてくるよう言って、校長室へ向かった。道すがら、ディートハルトは背後の二人へ振り返らずに告げた。
「恥じることがないなら、胸を張って立てばいい。詳細はわからないが、庇えると思えば庇ってやる」
 それが精一杯の、ディートハルトなりの心遣いだった。


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