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10



 木立の隙間を縫うように敷かれた小道を、ディートハルトは見えぬ影を求めて走る。
 子爵領を訪れたのも、ましてや当地の領主の館へ足を踏み入れるのも、彼にとっては初めてのことだった。枝分かれする道の行き先もわからず同じ場所を巡って、あたら足を空回りさせる羽目になった。
 雨勢はみるみるうちに増し、枝葉が天然の覆いとなる林でも視界が白く煙るくらいだ。道迷いに時間を浪費したディートハルトに、焦燥が募る。黒髪の少女の姿は、気配すら見当たらない。
 邸内とはいえ子爵家の敷地は広く、もしも・フォン・が小道から外れ道なき道へ踏み込んでいたなら、地理に明るくないディートハルトは追いようがない。だから、早く見つけなければと彼の心は急く。 
 もしかすると、入れ違いに子爵令嬢は屋敷に戻っているかもしれない。そうであればディートハルトはとんだ茶番を演じたことになるが、秤がさらに不幸へ傾くよりは胸が痛まぬことだろう。 
 ディートハルトは立ち止まって身体を折り、膝に手をつくと深く息を吐いた。もう十分以上は、雨の中を駆け回っている。秋口の雨露に濡れて身体は芯まで冷え、水分を含んだ衣服も、ぬかるみを踏んだ足も重くなり、息も乱れ始めていた。
(一度、屋敷へ戻るべきだろうか。それとも、既に)
 悪天の日、ひっそりとした林で失意の渦中にいるはずの少女が何事をなそうとするのか、彼には悪い心当たりしか浮かばない。
 脳裏をよぎる不吉な光景を、ディートハルトは顔を上げることでもって放逐した。現在の最優先事項は、・フォン・を見つけることだ。
(なぜ俺は、このように必死になっているのだろう)
 頭のどこか冷静な部分が、しごく真っ当な問いを立てる。
 言葉を交わしたことも、まみえた回数も片手で足る相手。・フォン・子爵令嬢。ディートハルトは、彼女のことを殆ど何も知らない。
 濡れ鼠となって彼女を探す苦労など、ディートハルトがわざわざ買って出なくとも良かった。子爵家の使用人や護衛に任せておけばよかった。
 けれどディートハルトは、銀河の中に佇む・フォン・を見つけた。広い宇宙、惑星オーディンの、帝国博物館の一室で、小さな星のごとき少女に触れた。
 その光を失うまいと思うのは、恐らく理屈ではないのだ。
(別に・フォン・のためじゃない)
 物言わぬ軍服姿の父のフォログラムや、常に威風堂々たる祖父、あの日、金色に染まった池から引き返して自分を抱き締めてくれた母、身分の違いを越えて友となれた級友達。
 自分に繋がる人々、自分を形作るものが、ディートハルトの背を押す。
 いま何もしなければ、自分はきっと後悔し、真っ直ぐ顔を上げることも躊躇するようになってしまう。俯いて木立に消えた少女の横顔が、虫食い穴のように心を蝕んでしまう。
 そう思うからこそ、自分は子爵令嬢を追い掛けるのだ。それだけで、充分に足る理由であろう。
 自らを誇らしく、ディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーであると名乗れるように。
 そのために、ディートハルトは雨中を駆け、手を延べようとするのだ。
 髪から滴り落ちる雫を袖口で拭い――その袖口もびしょ濡れだったが――額にかかる髪をかき上げ再び走り出しそうとしたところで、ディートハルトの耳に届く声があった。
「ひゃあ!」
 次いで枝葉が揺れ、何かが滑り落ちる音が雨の合間に響く。
 二時方向から聞こえた子供特有の高い声は、・フォン・のそれに違いないと、ディートハルトは疲れを吹き飛ばす勢いで足を踏み出した。
 刹那の声であっても、方角はわかる。それに、まだ生きている。そのことがディートハルトを鼓舞する。
 水溜まりを踏み、顔を打つ雨も、行く手を遮る枝も厭わず突き進む。
「フロイライン・! 返事を!」
 応えはない。雨に霞む景色に目を配り、少女の痕跡を探す。
 彼女が人目を避けたいと思っていたなら、声を張り上げたのは失策だったかもしれない。ディートハルトの姿を見て、・フォン・が驚きに声を漏らし、逃げ出した可能性もある。
 声の大きさからおおよそ目星をつけた地点へ至るも、そこには誰もいない。ただ鬱蒼と茂る樹木と、途絶えることのない雨だけが視界を埋め尽くしている。
 と、ディートハルトの青緑の瞳が、一点を注視する。濁った水溜まりに、ぷかりと浮かぶ黒靴。明らかに子供用、それも少女が履くような小さなリボンの付いた靴だ。
(もしや)
 拾い上げようとして、靴の真横の抉れた大地が目に入る。いままさに崩れたばかりというように、露出した根の間からぱらぱらと土がこぼれていた。
 はやる心を抑えて、慎重に足場を確かめながら地面の途切れた先をディートハルトは窺った。
 すぐ先に、ディートハルトの背丈ほどの段差があった。その下の地面は緩やかな斜面で、疎らに生えた木が空を覆って闇の密度を濃くしている。そして、ぱっと見には灌木のような黒い塊が、数メートルほど向こうに転がっていた。
 枯葉と泥に塗れた喪色のドレス。靴のない一方のつま先と仰向いた顔だけが、仄白く浮かび上がっている。微動だにしないのは、気を失っているためか、それとも怪我をしているためか遠目にはわからなかった。
 助けを呼ぶにも運ぶにも、まずは怪我の有無を確認すべきであると判断し、ディートハルトは小さな靴をその場に置いて段差を飛び降りた。濡葉に足をとられ危うく尻を打つところだったが、たたらを踏んで転倒は免れた。滑り落ちないよう枝や幹に手を掛けつつ重心を低くし、微動だにしない少女の元へ近寄った。
「フロイライン・?」
 膝をつきつつ名を呼ぶと、小さな唸り声が上がった。
「ん……」
 意識があるのだと安堵して顔を覗き込むと、あの日、銀河の中でディートハルトを見上げていた黒い瞳が何度か瞬き、そして唇が動いて呟いた。
「最悪……」
 現在の状況についての感想なのだろうが、ようやく探し当てた末の第一声に急に憤りが湧いたディートハルトである。
 雨の中をうろついて滑り落ちた原因を作ったのは、いったい誰だと思っている?
 だが自分の心境を口に出すことを、ディートハルトはしなかった。この程度で堪忍袋の緒が切れるようでは、幼年学校で班長などしていられない。
「フロイライン・、痛いところはないか」
 焦点を合わせるように瞼を上下させ、ようやくディートハルトの顔を直視した子爵令嬢は、驚いた顔をした。翻訳すると、なぜあなたがここに、といったところだろう。自分でも不思議な気持ちであるから、よくわかる。
「……放っておいてください」
 ディートハルトの問いかけに、少女はちらと視線をやって一瞬かなしげな表情を見せた後、ぷいと横を向いてしまった。
 以前に会った際の愛想や葬儀の時の静かな顔が嘘のように、・フォン・嬢はディートハルトを拒絶していた。
(両親を亡くしたばかりで、このようになるのも仕方がないのかもしれない)
 黒髪の少女の態度に、今度は憤りよりも同情心が浮かんだ。
 とはいえ、気温も上がらぬ秋雨に子供を放置することもできないし、目を離して馬鹿げた行為をこれから行わないとも限らない。
「頭も打っていないな」
「ない。だから、どっかへ行って。一人にしてよ」
 再度の問いかけに・フォン・は態度をさらに硬化させ、寝返りを打つように背を向けてしまった。まるで子供が癇癪を起こしたようだ。
(実際、その通りなのだろうな。十歳はまだ立派な子供だ)
 ハンカチは、先刻ヴェストパーレ男爵夫人に渡して持ち合わせがない。仕方なくディートハルトは胸元のスカーフを解き、水気を絞って折り畳み、泥まみれの少女の顔を拭ってやった。
 手足を縮めて横たわる子爵令嬢は、びくりと肩を揺らして顔だけ振り返った。
「なに!?」
「泥だらけだ」
「そんなの、どうだっていいもん!」
 毛を逆立てた猫のように刺々しい口調にも、ディートハルトはめげなかった。幼年学校では授業での知識以外にも培われるものは多いことを、ディートハルトは自ら証明した気分だった。
 額に張り付いた枯葉を取ってやりながら、諭すように言う。
「大雨の林の中で寝転がって、なんになる?」
「……今は誰とも話がしたくない」
 恐らく自分でも無意味なことをしていると理解はしているのだろう、答には躊躇うような間があった。そして黒の瞳に浮かぶのは、自嘲の色だ。
「わかった。黙ろう」
 沈黙ならば得意だ。ディートハルトは汚れたスカーフをポケットに押し込んで、無言で・フォン・の身体に手を掛け、次には右肩に担ぎ上げて立ち上がった。このような時には、祖父譲りの丈夫な体躯が役に立つ。
「ちょ、ちょっと。黙ろうって言ったじゃない」
 黒髪の少女の重みは耐えられない程ではないが、人ひとりの負荷であるし、足元も濡れていてバランスを崩せば共に腐葉土に突っ込むことになりそうだった。
 何もしないとは言っていない。暴れないで欲しいと伝えたかったが、前言を撤回するのも面倒である。
 活きの良すぎる足と胴をしっかりと抑えると、子爵令嬢はディートハルトの背で叫ぶしかないようだった。
「放っておいてって言ったのに! それになんでディートハルト様がここにいるの!」
 ディートハルトは口を開かぬまま、間近にある段差をどのように登るべきか思案していた。
 思考に時間はかからなかった。背丈ほどの高さであれば、少女の身体を先に上の地面に乗せ、その後に自分が登ればいい。幸い、張り出した木の幹や根など足掛かりは沢山ある。
「もう、なんとか言ってよ! おろして、放して!」
 ディートハルトは少女の言に従った。段差の上に、・フォン・を下ろしたのである。そして自分は腕の力と数カ所の足場を頼りに、さっさと土壁をよじ登った。
 だがその間に、少女は憤怒の態で立ち上がり、脱兎のごとく駆け出してしまった。
 祖父グレゴールの言葉が、唐突に彼の脳裏に蘇る。
「退屈しなくて済むかもしれないが、ミューゼルよりも暴れ馬なのではないか?」
 取り残されていた黒い靴を拾って握りしめ、ディートハルトは溜息を吐く間も惜しんで後を追った。
 ・フォン・嬢は全力疾走のつもりだったろうが、雨に濡れたドレスはさぞや重く邪魔なのだろう、ディートハルトが追いつくのは容易かった。
「ついてこないでよ!」
 必死の形相で叫び、走り続ける少女の背を眺めながら、本当に無傷の様子でよかったとディートハルトは思う。
 だがここからが問題だった。このように癇癪めいた令嬢を連れ戻すには、どんな手立てが有効か。理屈が通用しない感情的な状態であるが、強引に連れ戻すのは気が咎める。相手は子供で、しかも両親を亡くしたばかりの傷心である。いっそ本当に放りだして、気が済むまで一人にしておく方が良いのだろうか。
(それもいいのかもしれない)
 自死の危険などという想像は、既に吹き飛んでいた。そのつもりがあったなら、少女は今しがた通り過ぎた池にでも飛び込んでいたはずだ。
「落ち着け、フロイライン・
 もう追い掛けないから走らないでくれ、と続けようとしたところで黒髪の少女は何かに躓いたらしく、ディートハルトが腕を伸ばす間もなく、水溜まりに盛大な飛沫をあげながら突っ伏した。
 慌てて駆け寄り、俯せに倒れた黒髪の少女を抱き起こす。予想通り彼女の顔も服も泥だらけで、汚れていない場所を探す方が難しいほどだ。
 ディートハルトは再びスカーフをポケットから取りだし顔を拭おうとして、子爵令嬢の黒い瞳に雨ではない雫が溜まっていることに気付いた。
「どこか、痛いのか」
 訊ねて、愚問だと思った。痛いに決まっている。聡明なはずの少女が逃げ回り感情的になるのは、きっと胸が痛んで仕方がないからだ。
 眉根を寄せたディートハルトの腕の中で、子爵令嬢はもう暴れたりせず、嵐が凪いだように静かに言った。
「私……馬鹿かも」
 これが親を亡くしたばかりの年下の少女ではなく友人のゾーン相手であれば、ディートハルトは迷いなく即その通りだと頷いただろう。
 だが、ひとり殻に籠もりたくなる幼子の心境を思いやって、ディートハルトは柔らかな口調で告げるに留めた。
「追い掛けて悪かった。一人になりたいのなら、俺は邪魔しないでおく。だがこんな雨の降る寂しい場所ではなく、屋敷のベッドに戻る方がいいと俺は思う」
 雨は身体を冷やすから。皆が心配している、そう言うと、子爵令嬢はくしゃりと顔を歪めた。
(泣きそうだ)
 ディートハルトは、女性の涙が来ると、気構えた。
「……泣きそう」
「わかった。心の準備はできている。泣けばいい」
「なにそれ、変なの」
 口の端を持ち上げて笑ったのも束の間、みるみるうちに・フォン・の瞳の堤防が決壊した。
 少女は何か言おうとしたが、言葉にならないようだった。途切れ途切れに謝罪と、戻れない、会えないといった嘆きが聞こえるくらいだった。
 そうするのが自然に思えて、ディートハルトは涙を零す子爵令嬢の頭を胸に抱き寄せて、しゃくりあげる背を撫でた。かける言葉など、あろうはずもない。
 ディートハルトは、・フォン・ではない。だから彼女の心情を真実、理解できるとも思えない。心の中の嵐を静められるのは、ただひとり、その心の持ち主しかいないのだ。
 気の済むまで泣くことのできるよう、ディートハルトは沈黙を保ち見守った。
 どれほどそのままでいたのか、遠く屋敷の方角から子爵令嬢を呼ぶ声が近付いていた。携帯通信機で居場所を知らせる前に、あちらが発見してくれそうだった。
(俺がいなくなったことも、周知なのだろうか)
 この状況を釈明するのは骨が折れそうだが、毒を食らわば皿までの境地である。秘かに覚悟を決めていると、泣き止んだらしい子爵令嬢が、まだ揺れる声音でディートハルトに謝罪した。
「ご、ごめんなさい、ディート、ハルト様。せっかく、助けて下さったのに、逃げ出して、それに……」
「構わない」
 口ごもる相手に対して口調が強すぎたかも知れないと気付き、ディートハルトは言い直した。
「俺が好んでしたことだ」
 子爵令嬢は、それ以上なにも言わなかった。いや、言えなかった。
 ぐう、という大きな腹の鳴る音が二人の間で上がったからである。もちろん、ディートハルトの腹の音ではない。
(どんな時でも腹は減る、ということだな)
 生きている、そうディートハルトは安堵を感じ、思わず笑ってしまったのだった。


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