その日、ディートハルトは自分がまるで牧羊犬になったかのような気分を抱いた。
まだ規律というものに馴染みの薄い新入生達を、広い国立帝国博物館の中で連れ回すのが、幼年学校の最高学年で班長たる彼に課せられた任務だった。
幼年学校の生徒とはいえ、一年生といえばまだ十歳の子供たちである。それも普通の従順な者たちではなく、自己主張が前面に出がちな貴族子弟が多いから、規定の時間内に指定された展示物を見せて回るのも大仕事だった。展示物も子供の気を惹くために出来てはいないから、無機質な歴史の遺物を楽しめるのは、想像力豊かな者で史書を好む類の者だけだろう。
実際のところ、昼と出発の点呼に三四名の班員が揃うのであれば、展示物を見た見ないというのは関係なかった。学校側は生徒に王朝史を学習させたいのだが、真面目に歴史を学ぼうという者は強制せずとも熱心に展示を眺めるし、興味のない者は素通りする。
そうであれば、何も子羊たちを一生懸命並ばせて順路を巡らずとも、放し飼いにすればよいのである。その手順をどのように采配するかは、班長たちの判断に委ねられていた。前日に博物館の見取り図を渡され、指定の展示物をいかに効率良く観覧するかという順路の設定するようにも言われている。
労力をかけたくない気持ちは、ディートハルトにもあった。指定通過地点を書き込んだ館内図を班員に配布し、二度の点呼の時刻と場所を強調するのが、もっとも楽なのである。班員を自由に散開させ、あとは自分も気侭に歴史に触れるのもよいものだ。穴と染みだらけの古い本や服には興味が沸かないが、大昔の白兵戦で用いられたという武具や馬具には心惹かれる。
だがディートハルトはあえて苦労を買って、班員を自ら引き連れて展示物を見回ることに決めていた。幼い下級生達から目を離し、何か事故が起きればそれは班長である自らの責任である。判断能力が未発達な子供の群れを放置するにはディートハルトは悲観的すぎたし、騒動を起こしそうな心当たりがありすぎた。特に金髪と赤毛の二人組からは、目を離したくない。最悪の事態を想定するのは軍事行動でも基本なのだから、その基本を踏まえるのは軍人を志す自分としては最善に違いない。そうすると秩序を保つように後輩たちを監視するのが、後々を含め結局は楽なのではないかとディートハルトには思われた。
副班長のペーター・ゾーンと協力し、ゾーンは先頭、ディートハルトは列の最後尾を追うことになった。大方の展示室は出入り口が二カ所しかなかったので、順路から外れないようディートハルトが来た道を塞げば、向かう先は一カ所になって逃亡する羊もいないのではないかと、ゾーンと検討済みだった。
しかし何事も言うは易し、行うは難しである。下級生達は、急に手洗いに行きたいと言い出すし、移動中に隠れて列を離れようとする者もいるし、疲れたから座りたいと要求する者もいる。真新しい黒い制服の群れは、まだまだ集団行動の要点を欠いている。つまり謙虚さや忍耐が決定的に欠如している。
「思い通りに新入生諸君を動かすのは大変なものだな」
「そのようだ」
一時休憩で隣にやって来たゾーンの嘆息に、ディートハルトは心底から同意した。
これが二年生の集団なら、一年間の幼年学校生活で多少は規律を身につけているもので、右向け右と言えば向くし、駆け足といえば駆け出すように仕込まれているのである。むろん、ディートハルトたちもそのように号令ひとつで動くよう訓練されている。思い出したくもない有難い教練の数々の賜物である。
だが幼年学校生の自覚も訓練も乏しい少年達は、無秩序な羊の群れそのものだった。右へ向かわせたくとも、左や後ろへ向かおうとする者が何名も現れる。そのたびディートハルトは、羊を追う牧羊犬のごとく睨みを利かせて牽制しなければならない。十歳の身幅に比べて肩も背丈も随分と差があるから、威圧感には事欠かず、多くは無言の圧力で列は一応の秩序を取り戻す。
まったく気疲れさせられる。自分も五年前は同じ姿をしていたのだと思えば、あの頃の班長の苦労が忍ばれた。
もっとも、ディートハルトが新入生だった際に彼を指導してくれた上級生は、校外学習の折には冷笑を浮かべ奔放な班員を放置していたから、今の彼ほど気力を要することはなかったろう。集合時刻の点呼に間に合わなければ、罰として教科書一冊写し書きなどという有難い課題をくれたと記憶している。珍しい金銀妖瞳の上級生だったが、現在は士官学校を卒業するかしないかの年頃だろうと思うと、不意に身体だけでなく精神的にも幼かった自分の所業が連鎖的に蘇り、ディートハルトは眉根を顰めてしまった。
できれば抹消したい過去が、現在の彼の羞恥心をくすぐる。
数年前まで平民という存在は、自分にとって野山のようなものだった。意思疎通出来るとも、また、する必要がある対象とも思っていなかった。蔑むなどという関心を向けることもない、そこにあるのが当然の風物のような気がした。
だが、それはなんと傲慢な考えだったろう。傍若無人と言われるのも無理ない物の考え方を十歳だった自分は常識とみなし、今は気軽に肩を並べる友人にもいくつか心ない言葉を投げつけたのである。
隣にいる級友へ視線を動かすと、丁度こちらを向いた鈍色の瞳とかち合った。
この平民出の友人とも付き合いが五年になるのだと思えば、今と昔の自分の隔たりには驚くばかりだ。目に見えぬ身体の内側も、すこしは進歩しているということだろうか。
「なあ、ミュッケンベルガー。覚えているか、俺がここで迷子になったこと」
ゾーンはどこか悪戯っぽい表情をして、長椅子の背もたれに左肘を置いて上半身を捻り、頷くディートハルトに座ったまま向き直った。
迷子という単語に、過去の情景が鮮やかに浮かんだ。
「覚えている」
ディートハルトも思わず口元を綻ばせ、応と返した。
「俺たちが一年生の時のことだろう」
国立帝国博物館での校外実習は、幼年学校一年生の伝統的な行事なのである。二人もいま現在の羊たち同様に、上級生に連れられて博物館見学をしたのだった。そしてその際、級友は収蔵品のさなかで迷子になった。
「お綺麗なロイエンタール班長は、俺たちと違って面倒を嫌って二人一組で自由行動させたんだったな。そこで……」
ディートハルトは、懐かしげに眼を細める友人の言葉尻を継いだ。
「俺たちが組まされた」
それは偶然のことだった。班長は二列に並んだ子供の何をしたものか、ほとんど無作為に組合せを決めて長時間の自由行動を言い渡した。身分や家柄でつるむ相手は自然と固定してくるものだが、金銀妖瞳の班長はお構いなしに平民と貴族もひとまとめにした。そしてディートハルトは、初めて平民の子供と会話を交わすことになった。
「今だから正直に言うが、ミュッケンベルガー伯爵家のご子息殿と一緒など本当に気詰まりでな。なんせ、組んだ最初の一言が、平民ならば俺についてこい、というのだからな」
何やら昔のことを持ち出されると、ディートハルトとしては顔を顰めるしかない。過去の自分の言動を思い起こせば、恥じらいの一つや二つ、それに居たたまれなさを覚えずにはいられないのだ。友人の目に胸と顎をそらす小賢しい貴族の少年がどのように映ったのか、簡単に想像がつく。
「ものも知らぬ頃のことだ。だが、失礼な物言いをしたと今ならば理解できる。すまない」
「いや、謝罪のために昔話を持ち出したわけではないのだ。俺は卿のその素直な部分が気に入っているがな」
ディートハルトの渋面を見ていたゾーンはなぜか急に大きく笑い出し、彼の肩を何度か叩いた。
「まあその頃はまだ伯爵家のご子息ということ以外に卿のことは知らなかったし、卿も接したことのない平民のことなど知らなかったという訳だな。俺は商い屋の息子だから、覚えた愛想で従順な振りして、先行する卿に気付かれぬよう離れた。それで卿の鼻をあかした気分で得意げになった。館内図など持たずに、どこに集合するかも覚えていなかったのにな。単なる反発心で衝動的に行動するところは、本当に子供っぽいと過去の自分ながら呆れる」
「お陰で俺は卿を半日探し回った挙げ句に、銀河帝国史をよく憶えることができた」
別段そのような苦労をせずとも、引率の班長や教官に級友が行方不明になったことを告げ、通信機で呼び出すなりしてもらえばよかったのだ。だが、当時のディートハルトは組んだ相手が迷子というのは貴族である自分の責任であるような気がして、何とか無様なことにならぬよう隠れてゾーンを発見しようと躍起になった。
「帝国史の四〇〇年前後は、俺もよく憶えているぞ。それはともかく、俺はお貴族様が迷子の平民を捜しに来てくれるとは思ってなくて、一緒に集合時刻に遅刻しても一言も言い訳せずに黙って罰を受けてくれて、毎日書き取りで隣に座って話をしてみると、卿が平民のことをよく知らない気の良い奴だということがわかった。だから卿のことを見直したわけだ。俺も人を見る目が曇っていた。卿のことを何も知らないまま、貴族だからと嫌っていたのだ」
ディートハルトは微妙な気分で、どんな顔をすべきか迷った。平民を無意識に蔑んでいた過去の自分への羞恥と、だが彼に新たな機会を与えてくれた友人への感謝とが混ぜ合わさって、うまく応じることができない。
短くはない幼年学校生活で、ディートハルトにとっての楽しさは常に友人と共にあった気がする。厳しい訓練や勉強も一緒にしたし、夜間に寮の屋上へのぼっていたことがばれて二人して食事抜きになったこともある。その際は、他の友人達が隠し持った菓子など、こっそり分け与えてくれた。一人でいたなら、判らなかった事が沢山あった。
ディートハルトはペーター・ゾーンの鈍色の瞳を見合わせ、名状しがたい互いの心を垣間見た。だがそれ以上、口にすることがなくとも隣に座って視線を交わせば通じることがあるのだった。
休憩も終わりに近付き、二人はそれぞれ新入生の一群を整列させ、点呼をかけることにした。
そこでディートハルトは声変わり前の甲高い点呼の声を聞きながら、目をひく金髪と赤毛が見えないことにふと気付く。
「ミュッケンベルガー」
点呼で抜けた番号を数えたゾーンが、緊張した声で彼の名を呼ぶ。
「二人足りない」
「いつもの、だな? ゾーン」
いつもの二人といえば、ディートハルトとゾーンの間ではミューゼルとキルヒアイスを意味している。抽象的な代名詞でも充分なほど、彼らは特別扱いなのだ。問題児という意味で。
周囲の新入生から聞き取りをし、二人が休憩用の長椅子が並ぶ一角を離れて五分ほどとわかった。ならばそれほど遠くまで行ったとは思いがたい。用足しにしても戻ってもおかしくない頃合いで、もっとも単純かつ破れば何かしらの罰が必ずある時間厳守の規則を破るには、何かしらの事情があると思えた。企図せずであれば事件があったのだろうし、企図したものであればそれも事件である。
ディートハルトは暫く思案し、ゾーンにはそのまま見学を続けるよう頼んだ。
「教官への報告は?」
「次の休憩は1230時の昼食で、全班が一旦集まるだろう。その際に教官もいらっしゃる。それまで俺が二人を連れて戻らなければ報告だ」
「また面倒にならなければよいがな。連座で懲罰はこりごりだ」
天井を一瞬仰いで嘆息したゾーンは、次には了解、と挙手し、整列してこちらを伺う下級生達を引き連れ展示の順路へと向かっていった。そしてディートハルトは焦る心を抑えて踵を返し、足早に二人組が消えたと証言された通路へ歩き出した。
幸いディートハルトは、ミューゼルとキルヒアイスは割合すぐに捕獲することができた。
平日の昼間で博物館内に人影は疎らで、金髪と赤毛の組合せは目立つ色である。宇宙関係の展示が並ぶ一角で左右を見回していると、視界の隅を目的の色が掠め、顔を向ければちょうど二人が奥まった一室から会話しつつ出てくるところだった。
ディートハルトは駆け出しはしなかったが、それと殆ど同じ速度で接近すると、二人の面前へ立ちはだかった。一瞬ぎょっとしたような二人の一方は、すぐにひどく不機嫌そうに、そしてもう一方は緊張した面持ちで直立不動の姿勢をとった。
叱りつけたい気分はあったが、何か問題が起こった場合、ディートハルトはまず相手から事情を聴取することから始めるのが常だった。そうすることで、相手が隠し事や嘘を言うような挙動を見せれば不審や後ろめたいことがあると見当をつけることができたし、あらぬ誤解も避けることができると思うからだった。
休憩時間内に戻らなかったのはなぜか、と問えば、赤髪のキルヒアイスが進み出て、人助けをしていたという。どこぞの貴族令嬢が体調を崩して座り込んでいるので、人を呼びに行くところだったらしい。
不審な点は幾つもある。ならばなぜ、令嬢の側に一人残さず二人共が部屋を出てきたのか。そもそも展示室内で蹲る相手を発見できたのは、意図して見学順路や休憩場所を離れた上でのことではないのか。
ディートハルトは、けれども疑問をその場では口にせず、二人へ班への合流を指示するに留めた。罰ならば帰校後に与えればよい。それよりも、要救助者に対応する方が先である。
さらに別の方向へ彷徨わぬよう念を押し、ディートハルトは下級生二人に来た道を戻らせた。これで更に行方不明になった暁には、二度と自由行動したくないと必ず後悔させてやると宣言しておく。
敬礼で応じたミューゼルとキルヒアイスの背をしばし見送り、ディートハルトはお困りの令嬢が居るという薄暗い星の部屋へと足を踏み入れた。
そしてディートハルトは、・フォン・と出会ったのだった。