ヴィジホンの画面から祖父が消えた後、ディートハルトは嘆息しつつ傍にあった椅子に腰を下ろした。
厄介な任務が生じたものだ、というのが正直な感想だった。祖父の友人の孫娘となれば、これまでの縁談よりはるかに気を遣う。あの雰囲気では話を出したのもこちらからなのだろう。
(
・フォン・
。どこかで耳にした気もするが…)
面識はないが、聞き覚えのある名だと思う。祖父から伝達された新たな見合い相手の情報を並べてみると、ディートハルトは割合すぐに心当たりを引き当てることができた。
彼が貴族令嬢の名を話題にすることは、そう多くない。ディートハルトはその手の異性の噂話(どこの家のだれが可愛いか、適齢期なのかといった話だ)には関心が薄かったし、幼年学校の友人には平民階級の者もいて、自然、会話の主題は階級に左右されない関心事になる。つまりは教練のことや、軍で名だたる提督の噂、近頃は今度の従卒の配属先などについて語らうことが普通だった。
情報の源が学友以外にあるとすれば、彼に女性の名をもたらす人物は限られていた。家族か、さもなくば数少ない学校外の知り合いだ。
ディートハルトは、さきほど口にした名を思い浮かべる。
(メルカッツ…)
とはいっても、それは彼がいずれ従卒として仕える予定の壮年の高級将校を指しているのはない。彼の脳裏にあるのは、甘いチョコレート色の髪を持つ幼い少女だった。メルカッツ少将の末娘の、テレジア・フォン・メルカッツ嬢である。
先月の夏の長期休暇で帰省した際に、ディートハルトはあるパーティでテレジアと顔を合わせていた。そこで彼女は、ブラウンシュヴァイク公爵家の幼いエリザベート嬢の誘拐事件の顛末をディートハルトに語ってくれた。大声で喧伝するに相応しい話ではないが、自分だけがよく知る話は他人に伝えたくなるものなのだということは、母ミーナを見ている彼はよく理解している。
だがそこで話相手に寡黙な質のディートハルトを選ぶあたり、テレジアは気が利いている方だろう。彼は当の伝聞の話に大した関心もなく、今の今まで忘れていたのだから。
テレジアは、
・フォン・
について、何と語っていただろうか。
(確か、ブラウンシュヴァイク公爵家の娘と一緒に拐かされた上に殴られた割に、泣いてもいなかったことに驚いた、だったか)
他にも黒髪黒目であるとか、自分より随分と落ち着いた雰囲気であるといった所感を述べていたようにも思うが、政治や経済、はてには軍学まで嗜むというのだから、お淑やかで物静かという印象にはそぐわないのだろう。かといって
なる少女がどのような為人なのか、ディートハルトには全く見当もつかなかった。
どうすべきか思案すれば、答は単純明快だった。
わからないのなら、更に詳しく訊けばいい。伝手はあるのだ。
見合いというのは気の重い任務ではあるが、話の合いそうな女性というのは希少だ。それはこれまで積み重ねた経験によって悟るところだった。少なくとも流行の髪型やドレスの形を世辞混じりに褒めなくとも、カントやブッフバルトの戦術論を話し合えばいいと思えば随分と気が楽なものだ。
彼は立ち上がり、ヴィジホンの操作盤の前でしばし自らの思いつきに躊躇した。なにやら自らの軽薄さが気恥ずかしく思えたのだ。まだ口約束でしかない見合い話に、何を浮かれているのだろう。
ディートハルトは結局、頭を振ってシャワーでも浴びようと踵を返した。だが着替えを用意している間に鳴ったヴィジホンが通信画面の前に彼を呼び戻すのは、すぐのことだった。
発信元を確認し、ディートハルトはオーディン神の悪戯に驚く。くつろげていた制服の首元を留めなおして通話ボタンを押すと、チョコレート色の髪を持つ少女が画面に現れた。
「ご機嫌よう、ディートハルト様。夜分遅くに申し訳ありません、テレジア・フォン・メルカッツです。少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「ご機嫌うるわしく、フロイライン・メルカッツ。構いません。何か御用でしたでしょうか」
ディートハルトの内心の動揺には気付かなかったらしいテレジアは、突然の連絡の非礼を詫びた後、用件を話し始めた。
幾つかの修辞や暗喩を翻訳すると、おおよその通信の目的はこのようなものだった。
「つまり、俺の同期のペーター・ゾーンに、貴女のご友人であるフロイライン・マウアーの連絡先をお伝えすればいいのですね?」
「お手間をかけさせてごめんなさい。彼女には幼年学校に通っているお知り合いがいなくて、けれどどうしてもゾーン様とお話したいと、そのパーティ以降、毎日、気もそぞろなご様子ですの」
ゾーンの実家は裕福な商家で、平民ながら貴族の社交場にも出入りしており、どこぞの宴席でテレジアと同じ女学校に通うマウアー嬢のダンスの相手を務めたのだという。少女は少年を気に入り再び連絡を取りたいと願ったものの、マウアー男爵は娘の幼い憧れを取り合わなかったという。そこで、こうして友人の友人を介した連絡が行われることになったのだ。
ディートハルトは、どのような結果になろうとも自分は関知しないと明言した上で、伝令役になることを了承した。実はゾーンがマウアー嬢の可憐さについて長々と語り尽くす傍に、彼は居合わせたことがあったのだ。厄介事は回避したいが、他人の幸せの邪魔をするほどディートハルトの心は狭くない。
「次にお会いしたときには、何かお礼をさせて下さいな。もしくは、どなたかと連絡を取りたいというお話があれば、私に仰って下さいまし。ディートハルト様は女学校でも人気がおありなんですよ」
それはきっと祖父の威光ゆえだとディートハルトは思ったが、彼はテレジアの発言の後半部分に対しては丁重な礼を述べるに留まった。そして前半部分に対しては、返礼を強請るもつもりはなかったが、渡りに船とばかりにその名を切り出したのだった。
「
・フォン・
を、ご存知ですか?」
「ええ、もちろん。先日、ローバッハ伯爵領のパーティで知り合ったということと、あの折の事件のお話もディートハルト様にお話致しましたわよね。彼女がどうかなさいました?」
問うテレジアの瞳が、好奇心に輝いている。
「少し、彼女についてお話を伺いたくて。何でも、政治や経済を学ばれる方だとか」
「どなたから、そのお話をお聞きになったのですか?」
事情はぼかしたいところだが、咄嗟に良い嘘が思いつかず、ディートハルトは結局ありのままに話した。けれど、この判断は間違いだったと彼はすぐに気付いた。
「…祖父からです。珍しいご令嬢がいらっしゃるのだと、気にかかりまして」
「まあ」
ディートハルトの事情は伏せたいという目論見は、想像力豊かな少女の前にあっさりと破られてしまったのである。
「まさか、ディートハルト様。
様との縁談が持ち上がっておられるのでは?」
なぜそれを、とは言わなかったが、彼の微妙に動いた表情で悟ったらしいテレジアは、楽しげに両手を打ち合わせて笑った。
「素敵。ええ、
様はきっとディートハルト様と気が合うと思いますわ」
「……なぜ、そう思われる?」
「それは、縁談と言ったことに関してですか? それとも、気が合うと言ったこと?」
「出来れば、両方についてお話を伺いたい」
ディートハルトはなぜか気を付けの姿勢のまま、テレジアの説明を聞いた。曰く、これまで彼が口にした歳頃の女性の名は、大体が縁談の相手であったという。言われてみると、普段は異性と縁のない生活をしているのだから、そうなってしまっていても不思議はないだろう。さらに、学友ではなく祖父から
という名がもたらされたのなら、見合い話の確率はさらに高まると彼女は思ったそうだ。
「それに士官学校で
様がシミュレーションをなさったというお話も、ちょうどさきほどお父様から伺ったばかりでしたから。ミュッケンベルガー閣下もいらしたというお話でしたし、そうなるとディートハルト様に
様の御名が伝わるのは、そういうことしかありませんでしょう?」
ぐうの音も出ないディートハルトは、降参してその通りであることを白状した。テレジアは上機嫌で言葉を続ける。
「気が合うと申しましたのは、
様は私よりも二つ下なのですけれど、とてもそうは見えない大人びた方ですから、騒がしい雰囲気があまり得意ではないディートハルト様とも落ち着いてお話できるのではないかと思いましたの。
様もどちらかといえば、流行とかそういったお話はお好きじゃないようですし、普段はどうお過ごしになるかお伺いしたら、毎日、殿方がなさるような勉学をなさるのですって。変わった方です」
テレジアの声音に、いやらしさはなかった。本当に心底、
嬢の風変わりな生活に感心しているようだ。
他にも、件の少女が料理に興味があり厨房にも出入りしていることや、護衛や使用人とも気軽に話をすること、ヴィーゼ家の嫡男と仲が良いことなどの情報を聞いた。毒を食らわば皿までとばかりに花の好みを聞くと、大ぶりで派手なものは避けた方が良いという助言をもらった。
気が付けば随分と長く話していて、テレジアが誰かに呼ばれたように振り返ったところで、
子爵家の令嬢に関する情報交換は終わりとなった。
通信を終える前に、ディートハルトはテレジアに念を押すことを忘れなかった。
「まだそういう話があるという段階なので、くれぐれも…」
「ええ、他言致しません。けれど、うまくいくといいですわね」
通信の本題であったフロイライン・マウアーの連絡先をもらって挨拶を交わし、ディートハルトは通話を終えるボタンを押した。
溜息が出る。祖父とのやり取りよりも、気疲れしてしまったようだ。
だが、何はともあれ
・フォン・
に関する情報は、いくらか手に入れることが出来た。
けれどディートハルトは、はたと気付く。男顔負けの学問をすることも、士官学校レベルのシミュレーションをこなせることもわかったが、結局は会話してみなければ人柄も何もわかるものではない。
いったい情報を手にして、俺は何をしようというのか。
「花を…贈らねば」
それから?
「挨拶を添える」
どのような?
考えに行き詰まり、ディートハルトは中断したままだったシャワーを浴びるという行動を完了することにした。文面に関しては、気の利く文章を書く友人に頼もうとタオルを用意しつつ決める。そこまで思考が至れば、彼は晴れやかな気分になった。少なくとも課題が一つは消えたのだと。
そんな彼が、気が早いのは祖父譲りだということを指摘されるのは、まだ先のことだった。