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02


 幼年学校の寮では基本的に二人一部屋での生活を送るのだが、最高学年には個室が与えられるのが慣例となっていた。
 同室者への気兼ねも減って、就寝時間や自習時間、余暇といった部分での自由裁量が増えることも、幼年学校在校5年目の特権だった。
 とはいえ自由に比例して責任も増大し、特権の代償に五年生は下級生の監督という義務を負わねばならず、彼は目下、自分の班に組み込まれた目立つ二人組に少々頭を痛めていた。
 入学してまだ二ヶ月も経たぬというのに、豪奢な金髪と女神もかくやというほどの美貌をそなえたラインハルト・フォン・ミューゼルと、平民ながら一月遅れでの入学を許された赤毛のジークフリート・キルヒアイスは、前代未聞の速度で私闘をこなし続けていた。
 いずれ軍へ入隊する者の集まる学校であるから、貴族子弟といえど血気盛んな者も多いし、多少の私闘は校内の暗黙の了解となっていた。それをいじめとみるか、通過儀礼とみるかは意見の分かれるところだろうが、大方の新入生はその類の洗礼を受けるのが常であった。
 ディートハルト自身も入学早々に難癖をつけられたこともあるが、10歳の頃から体躯が標準よりも立派であったことや、実家が軍部では名門に属する伯爵家であったこともあり、それほどひどい目に遭わずに済んだ。そして幼年学校での最高学年に至った現在の彼は、言い返せぬ相手に暴力を振るって満足を得る悪しき習慣に染まることはなかった。彼が自班の二人組に関心を寄せるのは、下級生の監督を怠るべからずという義務感から生じたもので、彼らに抱く気持ちは主に私闘の後処理が面倒であるという、その一点に尽きていた。
 近ごろ皇帝フリードリヒ4世陛下の寵姫となったグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼを姉に持つミューゼルは、その外聞と華麗なる容姿、そして苛烈な性格に起因して方々に敵を作り、赤毛の相棒と共に日々誰彼となく喧嘩をしている。
 因縁をつけられやすい境遇にあるのは、同情してもよい。だがミューゼルは血気が盛んすぎるとも、ディートハルトは思わずにはいられなかった。妾妃に召し上げられた姉の話題を侮蔑的に口にした人間には、学年の上下を問わず鉄拳制裁を加えているというから恐れ入る。
 彼らが拳の応酬で勝とうが負けようが、ディートハルトは知ったことではなかった。
 だが私闘が表沙汰ともなれば、ミューゼルの皇帝の寵姫と目される女性の弟という立場ゆえに、当事者周辺に何らかの処罰が加わることもあり得たし、その咎が己に降りかかる可能性があることも、彼は承知していた。そのため、ミューゼルとキルヒアイスが騒動を引き起こすたびに怪我人を校医に内密に診て貰う手筈を整えたり、これ以上の喧嘩を吹っかけないよう同級生を牽制したりと、彼は些末事に時間と気力を費やさねばならなかった。
 それは様々な思惑が交差した結果の行動であって、決して注目の二人組への好意から成したものでもなかった。
 入学して二ヶ月しか経ぬとはいえ二人の優秀さは飛び抜けており、教練では全く手のかからぬ下級生だったので、いちいち服装の乱れや敬礼の仕方を指導しなくていいのは楽ではある。その減った分の手間が他の場面で三倍となって降りかかってこないのならば。
 寮の自室へ向かう道すがら、廊下の窓から何気なく見下ろした裏庭に、図らずも件の二人とさる貴族子弟たちの『決闘』と思しき場を発見してしまったディートハルトは、一瞬だけ暗緑色の瞳を閉じて息を吐いた。そして次の瞬間には瞼を上げ、階下へ降りるために階段に向かって踵を返していた。

「下賤な者はさっさとここから出て行くことだ。姉の威光を笠に着て、己がさも立派な人間となったように鼻高に振る舞うミューゼル、君は随分とお粗末な品性をお持ちのようだ。分を弁えたまえ」
 そう居丈高に告げるラインハルトと同学年の少年は、さる侯爵家の出だという。
 窓から漏れる薄明かりにも星の光のように煌めく金髪をかき上げたラインハルトは、普段と変わらぬ抑えた声音で言った。
「なるほど、先祖や家柄の歴史を笠に着て、己がさも立派な人間となったように鼻高に振る舞う君も、随分とお粗末な品性の持ち主のようだ」
 さしたる能力もないくせになぜ堂々としていられるのかと、ラインハルトはいつも思う。
 ラインハルトを裏庭に呼び出したこの同級生は、昼間の体術の教練で自分に勝ちを譲らなかったラインハルトを、目の敵にしているのだった。自分の方が身分が上なのだから、下であるお前が負けるのは当然であると叫ばれたラインハルトとしては、鼻で笑うしかなかった。
 華麗な少年に言われた言葉をようやく呑み込んだ侯爵家出身の同級生は、顔を赤くして拳を振り上げた。
「下劣な下級貴族が! 身分相応の礼儀を知れ!」
「悔しければ、自分の力で僕に勝ってみろ。そうすれば、僕は君に言われずとも敬意を表してあげようとも」
 ラインハルトは一歩下がって、難なく暴力的な挨拶を避ける。
「くそっ、くそっ、くそっ! おいっ!」
 その声に導かれて、上級生と思しき数人が場に乱入する。恐らく、侯爵家の少年の子飼いであるのだろう。
 背後と脇を囲まれてしまうと、いかにラインハルトといえども一発や二発は殴られることを覚悟しなければならなかった。それに体躯の差もある。成長期を迎えて背も筋肉もある上級生に対するラインハルトは、彼らからみてみれば小鳥のように痩せた無力な存在に見えることだろう。
 子飼いの二人が、一斉に殴りかかってきた。今現在の背後にも一人いるから、そちらへ下がるわけにはいかず、横合いから同時に攻めてくるために一方を向けば、もう一方に背を向けることになる。さぞ殴りやすいことだろう。
 しかし、ラインハルトは負ける気がしなかった。
「ラインハルト様!」
 彼には、頼みとする友がいる。一人では困難でも、二人いれば手の打ちようは幾らでもあるし、背も守って貰えるのだ。
 殴りかかってきた左手の上級生に向かって勢いつけて右足を蹴り出し、その腹に膝の一撃を叩き込む。
「こいつっ!」
 ラインハルトの背に飛びかかろうとしていたもう一人は、茂みから飛び出してきた赤毛の少年の体当たりを食らって、無様に転がった。胸を強打したらしく、激しく咳き込んでいる。
「これで終わりか?」
「ラインハルト様、あまり焚きつけないで下さい。面倒が増えます」
 余裕たっぷりに笑うラインハルトを、キルヒアイスは窘めた。もしもの時のために控えておいて正解だったと、苛烈な性格の友人を持つ彼は思う。友人を守ることも出来るし、あまり派手な事態とならぬよう抑えることも出来る。
「役に立たぬではないか! お前たち、起きろっ、くそっ」
「ふん、自分で殴りかかってくればいいじゃないか。昼間のように負けるのが怖いのか」
 無傷の三人目と今にも憤死しそうな侯爵家の同級生に、赤毛と金髪の二人の少年は対峙した。
「くそっ、お前なんか父上に言いつければ直ぐにヴァルハラへ送ることだって出来るんだ! それだけじゃない、お前の姉であるあの卑しい女だって宮廷から追いやって…」
「今の言葉を取り消せ」
 それまで不敵な笑いを浮かべていた金髪の少年の表情が一変する。
 ラインハルトにとって、姉こそ神聖不可侵の領域なのである。何者にも踏みにじられてはならないし、もしもそうした者がいたのなら、すぐに罰を与えねばならぬのである。傍にいたキルヒアイスの顔も、静かな怒りに強ばっていた。隣家の優しかった年上の少女を貶す者には、彼とて慈悲を与える術を持たないのだ。二人にとってアンネローゼは大切な心の拠り所であったし、ほんの一言の中傷ですら許し難いと思ってしまうほどの潔癖さを、十歳の二人は内に抱えているのだった。
 隙を突いたつもりか、子飼いの三人目がラインハルトを殴り飛ばそうとしたが、気配を察知したキルヒアイスが素早く動き、足をひっかけてしたたかに転倒させた。肩先を打ち付けて呻く彼の他に残ったのは一人、ラインハルトに体術で叶うはずのない侯爵家の少年である。そして因果応報を一応は知る彼は、次なる標的として自らが痛めつけられることを正確に予期していた。
 ラインハルトが許せぬ言葉を発した少年に報いを与えるために一歩を踏み出したとき、その場に新たな闖入者が登場した。
「ミューゼル! キルヒアイス!」
 張りのある声が、憤りから好戦的になっていた二人の名を呼んだ。近頃は望んでいたわけではないのだが、聞き慣れてしまった声である。
 背筋を伸ばして早足で向かってくる上級生に、ラインハルトはそっぽを向いて舌打ちした。キルヒアイスはその意味を知っている。面倒な奴が来た、というのだ。
 上背のあるラインハルトとキルヒアイスの監督担当である上級生――ディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーは、現場の状況には一言も触れず、厳しい顔つきを崩さず規則を問うてきた。
「夕食を済ませた後にすべきことは何だ」
 シャワーを浴びること、予習復習を行うこと、ベッドを整えること、寝支度を整えること、である。そして2130時の点呼を受け、就寝するのが『規則』であった。
 もちろん問う方も、問われた方も互いに知っていることだ。つまりミュッケンベルガー上級生は、さっさとここから失せて部屋へ戻れと言っているのだと、ラインハルトとキルヒアイスは端的な質問を意訳して理解したし、事実その意味でディートハルトは問題児二人に言葉を投げたのである。
 一瞬の睨み合いが、アイスブルーと暗緑色の視線の間で行われた。ディートハルトがキルヒアイスへ目を向けないのは、キルヒアイスはミューゼルの意向に必ず沿うことを、彼は知っていたからだ。
 ラインハルトは唇を噛み締めた。近くで震える弱虫を鋭く睨み付け、次は必ずひどい目に遭うぞ、という警告を飛ばす。
「馬鹿なことをして姉上に何かしてみろ、お前を宇宙の果てまで追ってでも…」
「ひっ」
「ミューゼル」
 言葉なかばであったが、同級生が目に怯えを宿したことを確認して、ラインハルトは名を呼ぶ上級生を振り返った。
「ご指導ありがとうございます。すぐさま部屋に戻って、シャワーを浴び、予習復習を行います」
「…行け」
 ディートハルトは裏庭から寮へと続く道を、顎で示した。
 ラインハルトとキルヒアイスは敬礼を残して、素早くその場を辞した。
 痛む身体を押さえて呻く三、四年生の少年たちと、ミューゼルに因縁をつけて返り討ちに遭った少年を振り返ったディートハルトは、冷めた目でその様子を見下ろした。
 人数と体躯で勝っていたというのに下級生にやられるなど不甲斐ないとも思うし、震える貴い出自の少年に対しては貴族としての誇りもないのかという嫌悪を、彼は抱いた。
 身分を盾に自らの性質を自省しない貴族こそ、ディートハルトにとっては卑しい者のように感じられた。そして気に食わぬ相手を暴力をもってねじ伏せようとする人間には、言語という知性を持たぬのかと問い質したくもなったし、自らの手ではなく他人の手で殴ろうとする点も、ディートハルトは浅ましいと思った。
(矜持を持たないのか、侯爵家の男子とあろう者が)
 ディートハルトは貴族としての誇りを自覚すればするほど、貴族とは何なのかわからなくなった。
 無論、政治的な思惑を知れば知るほど何事も綺麗事だけで済まないことは、彼にも覚えがあることだ。
 現に自分の貴族としての矜持についての考えや意見を、彼はここで口にすることしない。それは口にしても同意や理解を得られないからという訳ではなくて、侯爵家の少年の反感をわざわざ自ら買うことはないという計算が、ディートハルトには存在するからである。ミュッケンベルガー伯爵家や家族に迷惑をかけるだけの矜持など自己陶酔の価値しかないと、十五歳となった彼は知っているのだ。そして同時に、ラインハルト・フォン・ミューゼルの矜持の保ち方は、己のそれとは違っていることを痛感せざるをえないのだった。
 ミューゼルもいま少しの自重をもって己の矜持を守るようになればよいと、ディートハルトは騒ぎ始めた侯爵家の少年の面倒事をいなしながら、半ば諦めながらオーディンに祈った。
 だがディートハルトは、祈りは気休めでしかないことを既に悟ってもいた。だから、彼の気苦労は続くに違いなかった。

 


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