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01


 一日の教練を終えたディートハルトは、さして美味しくもない、けれども育ち盛りの身体には待ち兼ねた至福である食事を黙々と済ませた。
(先週の水曜も、同じ献立だったな)
 新たな年度に変わってから、幼年学校の寮の食事は徐々に彩り乏しく質素になりつつあった。サラダからチーズやハムが消え、腸詰め肉のヴルストは細身となり、付け合わせのパンの質も落ちたと、共に食事をする友人も口々に言うので、彼だけがそう感じているのではなかった。
 ちらりと目にした監督教官用の品目は以前と同じよう豪華であったから、生徒分のみが変化したのだろう。
 予算が削減されたという話は聞かないから、糧食管理担当者が何かしら不正でも行っているとしか思えない、そう彼が思案し始めたのは先々週のことで、食堂関係者の下働きに袖の下を握らせ、仕入れ量と帳簿の齟齬の存在を耳打ちしてもらったのが、昨夜のことだった。
(嘆かわしいことだ)
 銀河帝国の中枢たる帝都オーディンの幼年学校でもこのような実状なのだから、監視の届きにくい辺境や貴族の私領では、どのような無茶がまかり通っているのだろうかと、彼は祖国の腐敗を嘆いた。
 日々食事は貧しくなっていくばかりというのは、苦痛である。そうでなくとも彼の身体は血筋であるのか、同年代の友人達に比べて大きく逞しくなりつつあり、まったく気付けば直ぐに空腹感を覚えてしまうのだった。
 けれども彼は外見上は、ちらともそんな素振りを見せずに名門ミュッケンベルガー伯爵家の面目を保っていたし、他の貴族子弟がしばしば行うよう授業の合間に実家から差し入れさせた豪華な間食を平らげるといった卑しい真似もしなかった。
(示しがつかない)
 そのように、ディートハルトは感じるのだった。
 他人に分け与えるでもなく、己ばかり満腹になる行為など、矜持に悖る。いずれ彼が属することになる軍では、士官として多くの兵士を指導する立場にならねばならないのに、威厳のない上官に誰が喜んで従おうとするだろう。
 ディートハルトは自身の生まれもあって、己を厳しく律する傾向を持っていた。
 そうした性質から彼はいつの間にか自然と貴族子弟の閥から外れ、幾人かの同様の見解を胸に秘める友人と普段の学校生活を送っていた。その友人達の多くが下級貴族や幼年学校には珍しい平民階級の出身に偏っている事実は、五年前の己であったら天地がひっくり返っても信じはしなかっただろう。
 身近にいた彼の周囲の人々――彼の母や祖父は、貴族の出自であるという事実に対して過剰ともいえる価値観を彼に植え込んでいたのである。幼年学校へ入学する前の彼は、貴族の序列が人間性の優劣と比例すると信じている節があったし、話したこともない平民という種の人間は別世界――どちらかというと見下していた縁遠い粗野な世界――に生きる者のように感じていたのだった。
 幼い彼は祖国への忠誠を語る祖父の背中を追って、いつしか同種の誇りを胸に宿していた。祖父グレゴール・フォン・ミュッケンベルガーは有能な人物であり、帝国軍でも上級大将として提督の列に名を連ねている。戦死した父も秀でた軍人であったと、母には寝物語に何度も聞かされた。
 彼らが無碍に平民を蔑視しているとは、ディートハルトは思わない。そうではなくディートハルトが教えられた貴族として誇りには、様々な分野で優れた能力を持つ者という意味も含まれていた。平民たちを導くために、貴族は整えられた豊かな生活の中で平民たちより高度な教育を受け、才能を開花させるのだ。それが貴族の本分であると祖父や母は彼に語り、ディートハルトはそれを本気で信じていた。
 けれども閉鎖的ながらも一応は多様な身分から構成された幼年学校に所属してみると、己が頑迷は偏見に囚われていることに気付かざるをえなかった。
 彼は己が貴族であることの矜持を知っていたが、それに伴う高貴なる義務を果たすべきであることも知っていたし、自らが優秀であらねばならないという自負もあった。
 卑劣な性格をした者は好むところではない。すると、自然、目に入ったのはそれ以外の『真っ当な』性質の者たちであり、その内の多くがたまたま下級貴族や平民出身だったのだ。彼以外の貴族子弟の多くは、怠惰で、無能で、傲慢だった。気遣いを知らず、節制も自律も弁えない者が多くいた。もちろん、平民だろうが下級貴族出身だろうが同様の傾向を持つ者はいたし、身分の高い貴族を妬み嫉みで蹴落とそうと画策し、難癖をつける者はいる。そして身分の高い者の中にも高潔な人格者は存在する。ディートハルトは己が認めた友人たちの出自を見て、世の高位の貴族全てが愚劣であるという考えには至るはずもなかった。
 つまりその事実が彼に教えてくれたのは、身分が人間性を保証することは全くないという真理だった。
 祖父には幼年学校時代から現在にかけて半世紀にならんとする友誼を育む相手がいたが、ディートハルトは爵家出身で深く付き合いのある同期生や上級生、または下級生がいない。そのかわり、階級の壁を取り払った先には幾人も存在していた、それだけである。
 厳格な階級意識の持ち主である母や祖父は、彼の交友関係には渋い顔をしていたものの、ディートハルトに対する信頼と愛情は人一倍の二人であるから、気の合う友人を見つけたと言う彼に、無理に『見合った』同年代の貴族の男子をあてがったりはしなかった。社交の場ではある種の性質で評判のフレーゲル男爵やローバッハ伯家のヘルムートともそれなりに会話を交し、そつなく振る舞ってもいる。好悪を表に出さないなら下級貴族や、平民の友人がいるのも認めうると祖父たちは考えているらしかった。
 彼は渋みの強すぎる食後の紅茶を含みながら、友人たちの会話に耳を傾けていた。彼が口数の少ない質であると周囲は理解しているから、しばし思案に耽っていても話は途切れず続いている。
「聞いてくれ、先の休みに父に連れられて行ったパーティで、俺は運命の女性に出会った!」
「また始まった」
「何ヶ月か前にも同じことを言っていなかったか、ペーター・ゾーン。卿には一体、何人の運命の女性がいるのだ!」
 裕福な商家の次男坊であるゾーンが、胸に手をあて熱弁を振るっている。周囲は呆れ顔で口々に揶揄しつつ、色恋の話には興味が尽きぬようでゾーンに注目した。
「今度こそ真実、運命に違いないと俺は確信している。ああ、フロイライン・マウアー。あの輝かしき青の瞳。光のように目映い金の髪。色づいた唇は花弁のようで、俺はダンスをしながら目を離せなかった」
「不純な視線を送っていたのでは、お相手の印象は良くならないぞ」
「いいや、ゾーンは巧言の使い手だから、案外に女性の好む言葉を吹き込んで、相手もその気になっていたかもしれんぞ」
 ゾーンは大仰に頷いて、遠く宙に想いを馳せるがごとく夢見心地の声音で呟く。
「その通りだ。俺たちの間には、確かな絆が生まれていたんだ…」
「やれやれ。卿は年中そのように夢を見られて、幸せなことだろうよ。それに比べて、おい、ミュッケンベルガー、さっきから口を噤んでなにやら難しいことを考えているようだが、卿には目当ての女性などおらんのか。ゾーンの話は聞き飽きた」
 糧食管理担当者の横領をいかにすべきか悩んでいたディートハルトは、呼び掛けに意識を目前のテーブルに戻した。いつの間にやら、友人達が好餌を前にした猟犬の目つきで話題を提供しろと強請っている。
 ディートハルトは、至極おちついた口調でいつもの台詞を繰り返した。このような話の流れは、一度ならずあったことだ。
「俺は、特に目当ての女性はいない」
「この数年間ずっと卿はそう言うが、いつだったか見合いをしたフロイライン・ビュルテンベルグはどうなった? その前のギーセン伯爵家の娘は? 薔薇もかくやの美貌と人づてに聞いたが」
「…特に何も。顔も思い出せん」
 友人達は、ディートハルトの変わらぬ表情に肩を竦め、溜息をつき、諦めたように首を振った。その中でゾーンはまるで秘密話を打ち明けるかのように身を乗り出し、一同の頭を手振りで集めて、彼だけが握っていた情報を開陳した。
「先日のことだが、俺はこの朴念仁にどんな女が好みか訊ねたんだ。見合いが家と家の交渉事とはいえ、多少は本人の好みが融通されるものだろう? この男の要望を母君や祖父君が知らぬから、こうも上手くいかぬのかと思ってな」
「それで、ミュッケンベルガーは何と言ったのだ」
 ディートハルトは、今すぐここから立ち去るべきであると判断した。狩られるのを震えて待つのは、性に合わない。だが腰を浮かしかけた彼の肩を、逃さぬとばかりにゾーンが腕をかけ押し止めた。
「このディートハルト・フォン・ミュッケンベルガーは言った。家族には要望を伝えたと。政治や経済が語れる娘が良いと言っておいたんだと!」
 四対の目がディートハルトを捕らえ、一瞬の間を置いて笑い声が弾けた。
「そのようなことを条件にするなど、聞いたことがない!」
「いかん、笑いが止まらん。いや、気を悪くするな。あまりにも卿らしい言い草だと思って」
 明らかに笑いを堪える顔で取り繕われても、ディートハルトは憮然とするしかない。彼としては、面倒な任務を少しでも減らそうという苦肉の策だった。女性との会話につきものの配慮と裏読みに辟易し、多少は本音も混じっているとはいえ、本気でそのような女性しか相手にしないと言ったつもりはない。
「どうやらミュッケンベルガーの目にかなうフロイラインが現れるのは、まだまだ先のことになりそうだな」
 友人達は親しみを込めて、彼の至らぬ点とやらを指導してくれた。笑顔と言葉が足りぬ、そもそもやる気が欠けている、女性好みの話題を仕入れておけという助言を、ディートハルトは実践可能かどうかは別にして一応は脳裏にメモしておいた。
 話は尽きそうになかったが、ディートハルトは不味いながらも中身を全て飲み干したティーカップを置いて立ち上がった。寮の食事に関する疑惑を一刻も早く祖父へ伝えねばという思考が、彼を急かしていた。
 からかわれる間にしばし考えたが、糧食横領の件は自力での解決は困難という結論に至っていた。部下の過失は上官の失点でもあり、うまくやらなければ不正は校長に揉み消されてしまうだろう。更に証拠を集めるにしても、寮生活を送りながらでは限度がある。生活時間は規律によってその大部分が縛られているのだ。告げ口というのは気分が悪いが己に捜査権限や手段があるわけでもなく、単なる疑惑の端緒を掴んだだけでも良しとして、後は憲兵の捜査に任せるべきだった。
「なんだ、敵前逃亡か、ミュッケンベルガー」
 ゾーンに言われ、ディートハルトは家に連絡をという事情を説明するのも言い訳がましく聞こえるだろうと、一言だけ残して友人の悪意なき挑発から逃れた。
「戦略的撤退だ」
 不得手な話題を避けたいという思惑があったことは、否定できない事実だった。

 


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