驚くまいと決めていたが、やはり何もなかったはずの空間、しかも自分の書斎に突如知らない尖り帽子を被った老人が現れれば、誰でも驚かずにはいられないだろうと、アッテンボローは乾いた笑いを浮かべて思った。
も同じように、これはないだろ…と、誰に対するでもなく突っ込んだ。
ハッキリ言って、老人の格好は危ない集団の一員のようだった。こう、乙女を生贄に捧げて黒ミサ始めて世界の終末が来たと騒ぐ類の集団だ。
老人は魔法使いが被るような三角帽子に、これまたローブのようにたっぷり布を取った黒いワンピース状の服を身に付けている。片手にはうねる蛇が絡まりついたような杖を持っていた。顔つきはというと年老いていることはわかる深い皺が刻まれ、片目はクック船長のような眼帯を付けていた。
「……で、どちら様? 帝国から飛んできたお前のお父さん?」
「違う!」
アッテンボローの呆れかえった声を、
は即座に否定した。
の父は、もっと普通の無難でありきたりなサラリーマン以外の何者でもなかったからだ。時空を越えて現れることなど出来る訳がないほど、普通の人だったはずである。
「…わしはオーディンである」
一瞬、部屋の空気が凍った。
(帝国で信仰されてる神様だったよね…)
猫になった、同盟にいた、アッテンボローに拾われた、人間に戻った、そして神様が登場した。
(ありえないわー)
事態を理解しようとも収拾しようとする気も失せた
は、ただ怪しげなオーディンと名乗る老人を眺めていた。
三人の間に漂うどこか気まずい沈黙を打ち破ったのは、アッテンボローのどこか憮然とした声だった。
「……そのオーディン様が、何の御用で?」
はそのとき、アッテンボローの底力を思い知った。
なんという適応力の高さ。
いまだ
の頭は混乱で一杯だというのに、将来有望な青年士官は腕組みして、ふてぶてしい表情でオーディンと名乗る老人を見やっている。
別にアッテンボローは老人の言うことを素直に信じたわけではなかった。だが、神様というものがこの男にとっては、気に食わない対象だった。自らが正しいと主張し、崇め奉れといい、常に上から目線の神。反骨精神でできているような彼にとって、それは反抗せずにいられない相手なのだ。
「用があるのはぬしではなく、そこの女だ」
「女? 確かに女だが…」
その表現に違和感を覚えたアッテンボローは視線を移し、ぶかぶかなシャツの裾を握りしめて立つ少女を確認する。年の頃は、女の子というに相応しい外見である。
「のう、
、そなた一度このように違う場所へ違う身体となって飛ばされただろう?」
「……なんであんたがそれを知ってる?」
アッテンボローがぎょっとするほど、それは少女に不似合いな低くどすの利いた声だった。
少女の気迫も素知らぬ顔で口の端を上げた老人は、はて、ととぼけた台詞を吐いた。
「わしが飛ばしたからだ」
「諸悪の根源はお前かー!!」
思わず
は叫んで飛びかかった。
訳の分からぬ生活環境に放り込まれていらぬ苦労をさせられた恨み、ここで晴らさいでおくべきか。
だがオーディンがふいっと杖を振ると、不思議なことに
の身体は固まったまま動かなくなる。
「そなたは意外に乱暴者だの」
「何これ!? 動かない!? ちょっと、一発殴らせてよ!」
「まあまあ、ともかく、このようにそなたが猫になってここにやってきたのも、その時のことが原因なのだよ」
強引に話を進めるオーディンに突っ込んだのは、いきり立つ
ではなくアッテンボローだった。
どうやら二人は親子などではなく、因縁の相手らしいことは決して穏やかとは言えないやりとりで理解しているアッテンボローである。
「原因ってのは?」
「…不幸な手違いだ」
今の間は何だ、と
は問い質したい気に駆られた。だが問いを発する前にオーディンが語った内容に、その気もどこかへ吹っ飛んでしまう。
「とはいえこのような状況は、わしもあまり本意ではない。そなたを元の場所へ戻すよう取り計らうが、少々ややこしい術を施さねばならぬから、おおよそ人間の時間で一ヶ月はかかるだろう」
「その元の場所って…」
懐かしい味噌! 納豆の国! わが故郷!
もしかしたらもしかするかもと
が抱いた希望は、だが一瞬の後にあえなく打ち砕かれた。
「そなたがさっきまでいた場所だよ。
子爵家だったか?」
その言葉に反応したのは、同盟軍の青年士官たるアッテンボローだった。
「お前、貴族だったのか!?」
「…ええ、まあ、とっても不本意ながら。なりたくてなった訳じゃないの。そこんとこ、覚えておいて」
やさぐれた口調で云い捨てた
は、ひとつの可能性に気付いて顔を上げる。
「あっちはどうなってるの!? 私がいなくなったって知れたら、あの両親がどうなるか…」
頭の中で繰り広げられるめくるめく大騒動。あの両親ならば、我が子がいないと知れたら惑星中を金や労力に糸目をつけず探しまわって、挙句の果てには私兵団まで動員して
子爵領から飛び立つ全ての艦船を洗いざらいとっ捕まえて調べそうである。そうなれば交通網は寸断、輸出入もストップ、星系全体には大損害と恐ろしい想定が浮かんでしまったのだが、
の懸念は幸いにしてオーディンによって否定された。
「そこは気にせずともよい。調整して、お前が戻る時をあちらからいなくなる直前にしておこう。こちらで一ヶ月過ごしたとて、あちらでは一秒も経っておらぬはずだ」
胸を撫で下ろした
である。
(よかった…いや、全く今の状況はよくないけど…うーん)
だが安堵よりもやはり納得できない事柄が入り混じり、ひどく複雑な心中となってしまった。
の心中などお構いなしに、オーディンの話は続く。
「ともかく一月はここにおれ。そうそう、そなたらはもう試したようじゃが、そなたと、そ奴が口づけを交わせば大体5時間ほどかの、人間の姿でいられるはずだ」
そ奴と指名されたアッテンボローは、はっと気付いた。
「待て待て! 一ヶ月もこいつがここに居座るっていうのか!?」
「うむ」
「何でうちなんだ!?」
もっともな疑問を、アッテンボローは神と名乗る老人へとぶつけた。
「それは巡り合わせというものかな。これはわしが選んだのではなく、こやつが選んだことなのでな、よくわからぬよ」
食ってかかる青年の右手をすいと後ろへ引いて避けたオーディンは、用は済んだとばかりに煌めき始めた。
「ま、待て!」
「ちょ、ちょっと!」
とアッテンボロー、二人の叫び声が重なる。
「わしが人前に姿を現すことなど殆どないのだ。感謝するがよい」
気の抜けるような台詞を残して、老人の姿はあらわれたときと同様、何もない空間に溶けるよう消えて行った。
気付けば、
の身体は自由に動くようになっていた。
心の赴くままに拳を振り上げた
は、意味がないと知りつつ、誰もいなくなった空間に向かって言葉を投げつけられずにはいられなかった。
「誰が感謝するか! くそったれオーディン!」
が叫んだ声は、やはり空しく書斎の空気を震わせただけだった。