淡い光が猫を包み込んだ。
一瞬、その光が強く明滅し、思わずアッテンボローは瞳を閉じる。
まさかそんな不可思議な事が人類が宇宙に進出して何百年も経った時代に起こるものかと半信半疑であったが、猫にキスするくらいなら失うものは何もないと実行してみたのだが、こんなことになるとは。
ずっしりとした重みが腕にかかり、アッテンボローは思わずその物体を取り落としそうになった。
目を開いてみる。
「えーっと…」
二の句が継げないとはこのことだ、そう頭の片隅の冷静な部分が囁いた。
猫が居たはずの空間には、まだ幼いと形容できるような少女が現れていたのだ。
「あ…あー!? やだ! なんで裸なの!?」
じたばた騒ぎだした少女に、茫然自失から回復したアッテンボローは慌てて眼を閉じた。
「すまん、いや、お前女の子だったんだな」
(年の頃は十歳くらいか?)
「降ろして! シャツ脱いで! それ頂戴!」
もちろん言われるがままにアッテンボローは少女をそっと床へ降ろし、自らの寝巻用の白シャツを脱いで手渡した。
(うーん、本格的に俺やばくないか。ありえないだろ、こんなこと)
思わず自らの精神を疑ってしまったのだが、先ほどまで抱えていた少女は確かに人間の感触を彼に伝えていたし、自分がそれほど軟な精神をしているとはいまいち思えないアッテンボローだった。それにこれが自分自身の想像だとして、彼はそれは頑なに信じたくないと思った。猫が人間に変身するとして、己の妄想であれば幼い少女の姿形を取らせることはないはずだ。彼は独身主義者であったが女が嫌いなわけではなく、好みのタイプはちゃんと成年に達している普通の女性だった。決してロリコンの気はない。
「もういいよ」
許可の言葉にアッテンボローが瞼を上げると、やはり夢ではなく黒髪の少女がそこに存在していた。
思わず手を伸ばし、その髪に触れる。しっかりと現実の感触があった。
「本物、だよな? 本当に猫から人間に…?」
上から下まで眺めまわす。幼い少女が大人のシャツを着ているものだから、なんだか妖しい趣きがある。
同様のことを思ったのだろう、少女が眉根を寄せて怒ったように言った。
「おかげさまで戻れましたよ!でも裸で戻るなんて! …これも借りたはいいけど、犯罪チック! 他に何かないの!?」
「他って言われてもな…さすがに独身男の家に女の子用の服があったら色々やばいだろ」
真面目に突っ込んでしまったアッテンボローである。
「それにしても…
、だったよな?」
「うん。
だけど…あなたの名前は?」
(なーんてね、知ってるけどね、伊達と酔狂のアッテンボロー提督!)
上半身裸でちょっと目の毒、とは思ったが、よくよく考えれば先ほど風呂で上半身と言わず色々とみたわけだし、タオル一丁で乾かしてもらったし、そう考えるとどうでもよくなってしまった。
だがやはり寒かったのだろう、椅子にかけてあったカーディガンを掴み、そのままアッテンボローは着込みながら言った。
「あ、ああ、俺はダスティ・アッテンボロー」
答えた彼は何度確かめても信じ切れない、そう顔にでかでかと書いてあると
は思った。
「何でまた猫なんかに?」
「不可抗力です」
は自分でもわからないことを他人に説明できることがないと、早々に説明努力を放棄した。
「そもそも起きたら今までいた場所と違うし、猫になってるし、寒いし、カラスにも襲われたし…」
「…ともかくわからんが猫になってこの辺で目が覚めて、俺の家の前で行き倒れたってこと?」
「う…その通りです…そうだ、助けてくれてありがとう」
思い出し、
はぺこりと小さな頭を下げた。
アッテンボローは諦めたような溜息をつき、額に手をあてている。
「俺が拾ったのは猫だったんだけどな…。で、お前、家どこなの? 家族が捜してるんじゃないのか?」
ぎくっ!
(これは…どうやって説明すればいいのか? このままずっとこっちにいることになったり…?)
「そ、それは…その、あの、たぶんここから遠いと思うんだよね…」
「ハイネセンじゃないってことか? 他星系だと俺は時間なくて送ってやれないからな…」
言って鉄灰色の髪をがしがしと掻き混ぜるアッテンボローに、
はしどろもどろに答えるしかなかった。
「う、うん、他星系っていうか…」
別次元です、と言いたい誘惑を
は堪えた。
(いや、ここでは帝国にも家があるけど、どう言ったものかな…同盟だし…同盟…)
こんなことでなければ嬉しくて仕方がないはずなのにと、
は色々と悔しかった。
何しろ目の前にいるのはダスティ・アッテンボローなのだ。伊達と酔狂の男なのだ。
いっそここまで来たらヤンとユリアンにも会って帰りたい、そのような不埒な考えが浮かぶ。
しかし猫になって飛ばされるというのは、さしもの自分でも理解の許容範囲を越えていて、楽しむことより不安の方が勝ってしまっていた。
心底困ったような表情で唸る少女を、アッテンボローは帰れなくて寂しいという意味にとったようだった。
「そんなに心配すんなよ。とにかく親の名前と家の場所さえわかれば、俺がお前を家まで届けてやるよ」
彼には様々な伝手があり、有能な管理官の先輩や、頼るのは癪であるが情報を沢山握る記者の父だっている。そう思っての言葉だったが、アッテンボローは少女の言葉に自らの発言を前言撤回しなくてはならないようだった。
「うん…その…なんというか…私の家、ハイネセンじゃなくてね」
(地球の日本って言いたいけど、ここは帰れる可能性のある方にかけるべきか…)
「ああ」
「とても言い難いんだけど」
「ああ」
何が言い難いのだろうかと、アッテンボローは内心首を傾げる。
「実は」
「実は?」
「帝国領にあるんだよね」
「はあ、帝国領にね。って帝国かよ!?」
度肝を抜かれたアッテンボローは思わず叫んだ。
「ってことは、お前は帝国の人間? のわりに、帝国語じゃないんだな、お前?」
家に帰りたくないから嘘をついているのではないかという疑惑の目で見られ、
は慌てて言い募る。
「嘘じゃないから! そもそも猫から人間になったの見たでしょ!? 帝国から同盟へ飛んでくることぐらい、何だって言うのよ!?」
「いや、そう言われると…うーん」
アッテンボローは考え込んでしまった。
「私だって困ってるんだから! こんなわかんない場所で猫になんてさせられて! 神様のバカ野郎! オーディンのくそったれ!」
「おいおいおい」
自暴自棄になった
は、大声で叫んでストレスを発散させることにした。
当たる相手がいないから、とりあえず帝国で信仰されているオーディンに対して罵詈雑言をぶつけた。
「くたばれオーディン!」
なかなか気風の良い少女だと、なんだか感心してしまったアッテンボローだったが、彼のすぐ側の空間が急に光り出す。
二人は驚いて光源を見つめたが、そちらの方向にはただ何もない空間があるだけのはずだった。
「なんだなんだ? 次は何が出るんだ?」
非現実的な事があまりに連続して起こることに、アッテンボローはすでに悟りを開いていた。
何が出ても驚かないでいてやろう。
反抗心旺盛な青年士官は、しかしやはり驚愕せずにはいられなかった。