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半ねこ令嬢一月記06



  がヤン家を訪問するにあたって、猫姿で挑んだのには勿論わけがある。
 普通、猫が人間に化ける(いや、正確には人間が猫に化けている、というべきかもしれない)など、誰が信じるというのだろう? 
 さすがのヤンでも我が目で変身の瞬間を見なければ信じがたいだろうと、アッテンボローが主張し、 も同様に考えた。
 それならば、猫姿のままの を伴ってその場で事実を証明しようという結論に至るのも、すぐだった。ついでに、自分以外の人間が の変身のトリガーとなるのかという実験も行ってしまおうと、さきほどユリアンを被験者に仕立てた訳だが、結果は頭の片隅にあった予感の通り、上手くいかなかった。
(これでアッテンボローの家から追い出されることは万に一つも無くなったんだろうけど、喜んで良いのか、悲しんでいいのか……)
  の心境は複雑だった。人間変身の命綱が現在のところ一人しかいないことは憂鬱だが、その相手がアッテンボローというのだから、嬉しくないわけがないと断言できる。
 逆に落胆も甚だしいであろうアッテンボローを、 は猫の右前足をもって慰めた。元気だせよ、という念を込めてみる。
 しばらくして気を取り直したらしき の飼い主兼保護者は、次なる予定の行動に出た。仮にアッテンボロー以外では変身できないことがわかったら、とりあえずヤンとユリアンに が半猫人間であるということを説明する、という予定である。
 事態の流れを把握できていないヤンとユリアンは、黒猫を持ち上げるアッテンボローの一挙手一投足を慎重に観察していた。
 今日のアッテンボローは変だ。そう二人は疑念を抱いていたが、その疑念は続いた会話で確信のレベルまで跳ね上がった。
「あー、すみません、実はお話というのはこの猫のことなんですが」
「その猫が、どうかしたのかい?」
 ヤンは、後輩の腕の中でじっとしている猫の瞳を覗き込む。やはり何度見ても、何の変哲もない猫にしか見えなかった。アッテンボローの鉄灰色の瞳へ視線を移すと、そこには苦悩の色が見え隠れしていた。何か悩みがあるのだろうか、だから猫に語りかけて重い心を癒しているのだろうか、そのような考えがヤンの脳裏に去来する。
 士官学校時代から交友を続ける先輩と後輩は、真摯な目をして互いに見つめ合った。事実、双方が真摯に現在の状況に何かしらの憂慮を抱いていた。互いに全くかみ合わぬままに。
 アッテンボローはひとつ深呼吸をした後、小さく気合いを入れて宣言した。
「今から俺は、頭のおかしいことを言います」
「アッテンボロー!」
 ヤンは殆ど悲鳴に近い声音で叫んだ。それほどに、後輩の発言に衝撃を受けたのである。ヤンの隣でユリアンも絶句している。陽気さもなく、いつになく真顔で何を言い出すのかと思えば、自ら精神的混乱に陥っている旨を認識しているようなことを言うのだ。
「ど、ど、どうしたんだい、アッテンボロー。何か、そんなに大変なこともあったのかい? その猫が、猫が、まさか!」
 まさか、何なのだろう。まだ何も説明していないのに、何かを悟ったように顔を青ざめさせるヤンは、改めていうのも何だが随分と想像力豊かな人間なのである。そのアイディアの泉の豊富なことは、これまでの神速というべき昇進速度に伴う逸話の数々や、ヤンの書斎を埋め尽くす書物の森を見れば実感できる。
 そのヤンの想像の庭を覗き見したくなったアッテンボローだったが、黒猫姿の に指先に軽く噛みつかれて意識を改めた。 がこちらを睨んでいる。
 そうだった、彼には重大な使命がある。頭がおかしいと思われてしまうような、魔法のような出来事――けれども事実――を説明せねばならないのだ。
「ヤン先輩! 今からちゃんと説明しますから、話を聞いて下さいよ!」
「あ、ああ。しかし、その、おかしいことを言うというのは…」
「事実、おかしいんです。科学では説明のつかないことなんです。俺もできれば信じたくないんですが…」
 猫が明らかに機嫌を損ねた様子で唸る声を、ヤンの隣で事の推移を見守るユリアンは聞いた。一体、僕の作ったハンバーグはどうすればいいんだろう、いい加減、冷めてしまう。そう気を揉みながらではあったが。
 アッテンボローは場を改めるように咳払いをして、ひどく真面目な顔と口調で冗談を吐いた。少なくとも、そのようにヤンは認識した。
「実は、この猫は人間なんです」
 沈黙が、ヤン家の居間に一瞬満ちた。アッテンボローはヤンの反応を待っていたし、そのヤンは目を点にしていた。ユリアンはと言えば、アッテンボローの新たな一面を垣間見た気分だった。結構、世の中を斜に構えてみるようなタイプだと思っていたが、案外に夢見る魔法が出てくる小説なんかも読むのかも知れない。そのように、つい最近、言葉を喋る黒猫が出てくる立体テレビドラマを見たユリアンは感じたのである。
 沈黙を打ち破ったのは、その話題の中心となった猫であった。片足を手を挙げるように伸ばし、必死に何かを主張するよう鳴き声を上げているのだった。想像力を働かせるなら、本当なんです、信じて下さい、そう語ろうとしているように見えなくもないとヤンは思う。
「信じてもらえないだろうとは、俺も思ってます。だから、よければ証拠を見て、俺が言ったことが本当に頭のイカレた妄想なのか確かめて下さい」
 そう言って、アッテンボローはヤンにコンピュータのワードプロセッサの使用を求めた。曰く、まずはこの猫が人間の言語を理解していることを証明してみせる、という。
 そうしてヤン達は居場所を書斎に移し、実験を開始した。
「さ、とにかく何か質問をしてみてください。この猫は人間だから、言葉を理解するんです」
「本当かい? アッテンボロー」
 ユリアンとヤンは、まじまじと黒猫を疑惑混じりの視線で見つめた。誰でもそうだと思うが、常識を覆すようなことを言われればにわかには信じがたいものだ。いくらアッテンボローがこのように無益な嘘をつく必要がないとは理解していても、それでは猫が人間であるという荒唐無稽な発言を事実かと問われれば、首肯するのは難しかった。
 頭ごなしに嘘と決めつけることもできず、さりとて信じることもあたわずという状況下では、やはりアッテンボローの言う証明を実際に見ないことには何も言えないと、ヤンは考えていた。
 黒猫は背筋をぴんと伸ばし、おすまし顔でキーボードの前に陣取っている。
「それじゃあ、僕から質問してみますね。今、ヤン准将が着ている服はどんなもの?」
 猫は黒い瞳でヤンを一瞥すると、コンピュータのキーボードに向き直り、小さな肉球のついた脚を動かして素早く文字列をモニターに表示させた。
「クリーム色のニットに黒いスラックス、アンダーは水色のシャツ。当たりだ」
 すました様子の子猫は、顔をその毛むくじゃらの前脚でひと撫でし、次の質問は何だと言わんばかりに三人へ視線を向けた。
 アッテンボローに視線で促されたヤンだったが、ユリアンに倣って質問したりせず、デスクの上でこちらを見上げている子猫へと手を伸ばした。
「先輩!?」
 ふにゃっとした小さな体を持ち上げ、生物らしい体温と感触を確かめる。ヤンはアッテンボローが連れてきた猫が、よくできた猫を模した玩具なのではないかと疑ったのである。
「うーん、この質感と温度は本当に生きている猫だね」
 喉元をぐりぐりと撫で、ぴんと立った耳を折ったりともてあそび、腹の毛皮を摘んだ挙げ句に、ヤンは尻尾を持ち上げてその下を覗き込もうとまでした。
「ふぎゃー!!」
「あ、怒った」
(そりゃ怒るわ!)
  は身に迫った危機に全身の背を逆立てて威嚇の声を上げ、もがいてヤンの手から逃れた。
 探求心が強い印象はあったし、ヤンの性格はなんとなく(あっちの世界で見て)知っていたが、生体検査をされるのは御免だった。
「ヤン先輩、こいつこれでも人間なんです…しかも女の子なんで、あまり弄らないでください」
「ああ、ごめんごめん。本当にユリアンの言葉がわかっているみたいだったから、良くできたプログラムを搭載した人形じゃないかと思って」
 一応は保護者として に対して責任を感じるアッテンボローの渋面に対し、ヤンはあまり済まないと思ってはいないとおぼしき声で謝罪して見せた。
  は高速でキーボードを操って文字を打ち、さらにはそれを太字に変換して、自身の要求を強く主張した。
『私はこれでも人間です。この姿は猫だけれど。ともかく、これで私が言葉を理解出来ることはわかったでしょ? 早く人間に戻してよね!』
「素晴らしい。他人の声に対して回答するのではなくて、自発的な発言ができるなんて」
「本当に、なんだか夢を見ているみたいです」
 ヤンとユリアンは感心しつつ頷いているが、無論アッテンボローと としては、そのような感心などして貰いたくない。そんなことは、人間の にとっては当たり前のことなのだ。
「簡単に信じて貰えるとは思ってなかったが、まあこいつが実際に変身するのを見れば、二人とも信用せざるをえないでしょう」
「どうやって、変身するんだい?」
 好奇心をいたく刺激されたらしいイゼルローンの英雄ことヤン・ウェンリーに輝く瞳を向けられて、 は微妙な気分になった。さきほどヤンは を人形か何かではないかと疑ったと発言したが、それこそ彼の を見る目は、まるで玩具を見つけた子供のような具合だったからだ。
 アッテンボローは、事がいかに重大であるかを強調するためだろう、真面目顔に重々しい声でヤンに告げる。
「…キスです」
 ヤンとユリアンは、黒猫とアッテンボローの顔をきっかり三度ほど往復して見比べた。
 そして、笑うべきか、青年提督の精神が見逃さざるべき変調をきたしていると判断すべきか迷ったような間が開いたのち、乾いた笑いを漏らしたのだった。



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