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07


 顔をひきつらせたヤンとユリアンから確実に半分は憐れみの混じった視線を向けられているアッテンボローに対し、は幾分の申し訳なさを感じずにはいられなかった。
(明らかにおかしくなったと思われてる…ごめんよ、アッテンボロー)
 猫姿のは内心で謝罪し、いつかこのご恩は十倍くらいで返そうと密かに決心した。だが同時に、あの似非神ジジイに幾つかの呪詛を捧げておく。悪口が聞こえたなら今すぐ飛び出してこいと悪態を吐いたが、誠に遺憾ながらオーディンは先日のごとく現れることはなかった。登場してくれれば、今度こそは一発殴ろうとは既に不動の確固たる信念を持っているのだ。
 アッテンボローは健気にも余裕の笑みを繕って、携行した紙袋の中から大判のタオルを取りだした。用意した紙袋の中には、大きさの異なる服が二揃え入れられている。どちらの歳頃にが変身するのか、その法則性はいまだ不明だった。
(それにしても、また裸ショーか)
 の気分は、やや暗澹とせざるをえない。文明的人間として恥を知るとしては、可能であればヤンとユリアンのいない場所で人間の姿になりたいのだが、それだとヤンが信用しないだろうとアッテンボローに説得され、本日もまた嫁入り前のボディを晒すことになった。一応の対策は講じたが、対策といってもいたって単純なもので、予めに布を被せた上で変身するというものだ。適当な場所に猫姿のを置いてタオルを被せて変身させれば、チラリズムの演出された裸の美女ならぬ少女の出来上がりとなるはず、という何の捻りもないアイディアがアッテンボローとの議論の末、採用された。
 むろん、そのような諸般の事情はヤンとユリアンの知るところではない。ユリアンはタオルを持ち出した理由を図りかねたようで、アッテンボローに疑問を投げかけた。
「変身にタオルが必要なんですか?」
「変身そのものには必要ないが、青少年の健全な育成と保護のための大人の配慮というやつさ。あれを見ても、色んな意味で目の毒にしかならないからな。むしろ精神的なダメージが……っと」
(失礼な!)
 はパンチをくり出したが、可愛らしい前脚による打撃は微々たるものだ。後で覚えていろと人知れず報復を決心しつつ、は先程から熱烈な視線を送ってくるヤンに多大な居心地の悪さを味わっていた。目がヤバイのである。
「あれ、というのは?」
 アッテンボローに摘み上げられ移動させられるを、顎に手を当てじっと観察しているヤンが問う。は目を合わせぬよう、アッテンボローの懐に顔を埋め、尻尾を精一杯折りたたんだ。また変に手を出されてはかなわない。
「非科学的な存在なくせに変なところで整合性がとれてると関心するんですが、こいつ、変身した直後は裸なんですよ。人間には毛皮はないから、確かにつじつまは合うんですが…」
「なるほど」
「裸なんですか」
 何を想像したのか、ユリアンがもじもじと俯いてしまった。多感なお年頃という奴だろう。
「そうなんだ。だからユリアン少年のためにも、そしてこいつのためにも、タオルが必要となるというわけさ。どこか別の場所で変身させて連れてきても、入れ替わりの方法がああだこうだと先輩なら頭を捻りそうなんで、手間を省くために目の前で変身してもらうことにします。というわけで、変身を確認した後は、あまり凝視しないでやって下さい。特に先輩」
「わかったよ」
(本当かな)
 ヤンは即答したが、相変わらずアッテンボローに抱えられたの背をつついたり、はみ出た尻尾を引っ張ったりと弄ることに余念がない。としては、変身後にこの魔術師がトリック(とヤンは疑ってかかるだろう)に対する好奇心に負けないでいられるか、心配ばかりが募る。
 とはいえ、ヤン・ウェンリーという人物に対して自身も興味津々であったので、ちょっかいを出してくるヤンには人間に戻った後に色々と文句を言って苛めてやろうと決めた。ヤンに弄ばれて傷ついた、嫁に行けないと泣き真似をしてみせたら、魔術師ヤンはどんな表情をしてくれるだろうか。
 奇妙な実験を検証する一団は再び場所を居間に移し、不思議な変身の瞬間を迎えることにした。書斎にはを置いて変身させる手頃な台がなかったので、居間のソファをステージにすることに相成ったのだった。
「さて、それじゃ、やりますよ」
 タオルを被った黒猫の前で、アッテンボローは厳かに宣言した。後輩の横顔は普段どおりのように見えるが、ヤンはやはりまだアッテンボローの言い分を信じ切れず、眉根を寄せていた。猫が人間になるなど、こんな魔法みたいなことが今の時代にありうるのかと考えると、ヤンの常識は強い否定を返してくるのだ。
「アッテンボロー、本当に悪ふざけじゃないのかい?」
「俺がこんな手の込んだ悪ふざけをすると思いますか?」
 しないとは言い切れないとヤンは思うのだが、後輩の目が真剣そのものだったのでそれ以上の反論を控え口を噤んだ。ともかく、アッテンボローの言う『変身』が実際に起こるのかを確認すれば、ヤンの口にしようとする言葉は無用に違いない。仮にこれが冗談で済めば、手土産の名酒を独り占めすればいい。そしてこれが冗談で済まないのならば、そのときもまた酒を飲んで笑ってしまえばいいのだ…たぶん。
 かくして、ヤンとユリアンの正面で儀式は執行された。
 それは拍子抜けするほど、簡単に済んでしまった。時間にして一分もかからなかっただろう。
 屈み込んだアッテンボローは猫を可愛がる人間がよくするような軽いキスを、タオルから頭だけを覗かせたという名の猫に施した。すると、途端に猫が目映く光った。発光するような機能はついてなさそうだったと思いつつヤンが強いフラッシュに一瞬目を瞑り、そして再び開いた時には、ソファの上に黒髪の少女が既に存在していたのである。タオルはようやく彼女の胴体を覆っているだけで、その面積に収まりきらぬ手脚が四方から飛び出している。子供の年齢と体の大きさの相関関係はよくわからないが、ヤンにはその少女がユリアンよりも幾つか年下のように思えた。
 伏した顔を上げた少女は軽く頭を振った後、目を見開いて説明しがたい現象に固まるヤンを見据え、タオルを引き寄せながら恨めしい声音で言う。
「…そんなにまじまじと見ないでくれって、アッテンボロー提督も言ったじゃないですか、ヤン提督。ユリアン君は、ちゃーんと目を瞑ってくれてるのに」
「あ、ああ、失礼」
 ヤンは急いで視線を外したが、それだけでは居ても立ってもいられず体ごと回して黒髪の少女に背を向けた。心臓と脳が体内でひっくり返りそうだったが、目を閉じて反転したせいで、実際に転びかけてソファに変な体勢で突っ伏してしまった。しかしヤンは、頑なにじっとしてクッションの隙間に埋もれていた。
「大丈夫ですか、ヤン提督」
 衣擦れの音に混じって呑気な少女の声が聞こえるが、返答する余裕がヤンにはなかった。
 本物なのだろうか。本当に猫が人間に入れ替わったというのか。信じがたい。
(けれど、目の前でああして変化したのを見たんだ。猫とあの子供を入れ替える時間などなかった!)
 ヤンの思考は何度も同じところを巡ったが、結局はひとつの結論に辿り着くしかなかった。ここはヤンの家で、少女が隠れる空間も隙も存在しなかった。仮にヤンとユリアンの気付かぬ所に少女が潜んでいたとしても、たった一瞬の閃光だけでタオルの下に潜り込めるなどというのは、それこそ魔法だ。
 つまり、どちらに転んでも物理法則では説明できない現象がヤンの目の前で起こった事になる。そして一方の現象に関しては、少なくともアッテンボローによってあらかじめ明示されていて、人間の瞬間移動よりは信頼性が高いとみなすことが――果てしなく信じがたいが――可能だった。
「服を着ましたよ」
「…何か大きな物音がしたと思ったら、なんて格好をしてるんです、先輩。履き物があんな所まで飛んでいってますよ」
 肩を叩かれ、ヤンは恐る恐る目を開けて首を巡らせた。アッテンボローが彼を覗き込んでいて、呆れたような、けれどもどこか面白がるような表情を浮かべている。
「ね、本当だったでしょう? 俺は頭がおかしくなったんじゃなくて、本当に不思議な出来事ってやつが、この世にあるってこと、信じてもらえました?」
 ヤンはアッテンボローの助けをかりて、よろよろと立ち上がった。ユリアンはヤンの履き物の片割れを拾いに行っている。片目を瞑ってみせた後輩の背後では、自分と同じ黒髪黒目の少女が赤い花柄のワンピースを着て仁王立ちしていた。
 呆然と突っ立ったままのヤンの前で、その少女は、愛らしい微笑みを浮かべて軽く膝を折って優雅な挨拶をしてみせた。そして、鈴の音のごとき声で、こう言ったのだ。
「改めてはじめまして。と申します。先程はあんな獣姿で失礼しました。望んでああいう姿になっているわけではないことは、ご理解下さいますよね? ところで、ひとつ申し上げたいことがあるんです、ヤン提督。わたし、ヤン提督に破廉恥な真似をされて、お嫁に行けません。だって私は尻尾を掴まれたり、腹を揉まれたりと、あーんなことやこーんなことをされたんですもん。だからヤン提督、けじめとして私をお嫁にして下さい。しますよね?」
 黒猫から人間へと姿を変えた少女の単純明快なプロポーズに、ヤンは唖然としつつも自らの行状を思い出して真っ青になった。


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