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半ねこ令嬢一月記05



 約束の土曜日、午前が午後に移り変わるまであと5分という昼時、シルバーブリッジ街のヤン家のチャイム音が鳴った。
「准将、すみません、アッテンボロー少佐がおみえなんですが、いま少し手が離せないので出て頂けますか?」
 フライ返しを握ったエプロン姿のユリアンが、キッチンから顔だけ覗かせている。
 ヤンはこの家の主ではあったが、昼飯を作ってもらっている分際であることを充分わきまえていたので、亜麻色の髪の少年の言葉に素直に従った。ところで官舎のチャイムは随分と軽薄で気に入らない、そう考えながらヤンは客を迎え入れるために玄関を開いた。
「やあ、いらっしゃい、アッテンボロー」
「こんにちは、先輩」
 馴染みの後輩が、いつもどおりの明るい笑顔を浮かべて立っている。右腕には、なにやら大きな紙袋とワインを携えていた。
 アッテンボローは機先を制するよう、ヤンにラッピングされた酒瓶を差し出した。
「これ、土産です。マグダホ775年ものの赤」
「そりゃ随分と奮発したな」
 ヤンはこの時点で、すでに後輩が随分と厄介なことを自分に持ち込む気なのだという確信を抱きはじめていた。アッテンボローの土産は、安くない代物だ。後輩が良い酒を自分に貢ぐのは、迷惑料をかねているのだとヤンは既に経験から知っている。
「…どんな厄介事を持ち込む気だい、アッテンボロー。話してた女の子もいないけれど、まさか、その…」
「ええ、まあ玄関先で何ですから中で話しませんか?」
「あ、ああ」
 ヤンは、アッテンボローの腕の中の物体から視線を外すことができなかった。
「アッテンボロー、その、お前さんが抱えてるのは…」
「訳ありなんですよ。賢い奴で悪さはしませんから。な、 ?」
「にゃーお」
 後輩の紙袋とは逆の腕に納まっているのは、どこからどうみても猫だった。黒い毛並みの美しい、大きさから見ると恐らくは成猫ではなさそうな子猫だ。子猫はヤンと視線を合わせると、ぺこりと頭を下げた。お辞儀をしたようにも見え、ヤンは素直に感嘆する。
「随分とよく躾けてるみたいじゃないか」
「種も仕掛けもあるんですよね、これが。それより、良い匂いだ。朝飯を食い損ねたから、腹が減ってるんです」
 猫は頭上で交わされる会話に耳をそばだて、二人を見上げている。鼻先が動いたのは、アッテンボローの言葉に反応したのか、それとも扉の奥からデミグラスソースが香ったからだろうか。
 ヤンはアッテンボローの要求を受け入れ、人一人と猫一匹を招き入れた。
 受け取ったワインを突き返す気にも、そして後輩の『お願い』を聞く前から断ろうという気にもならなかったからだ。ヤンの好奇心は、なかなかにきかん坊で、面白そうな謎と見ると触って見ずにはいられない質なのだった。
 ダイニングルームへ二人が足を向けると、ヤン家の料理人が忙しく立ち働いていた。
「あ、いらっしゃいませ、アッテンボロー少佐」
「よ、ユリアン。お邪魔するよ」
「あれ? もう一人お客様がいらっしゃるはずでは? 四人分、用意したんですけど」
 青いチェックのテーブルクロスがかかったテーブルには、確かに四つ席が用意されていて、グラスやカトラリーが既に客を待ちわびている。
 ヤンからは来客は二人と聞いていたユリアンは、アッテンボローの背後に人影がないことを確認して、首を傾げた。
「四人目は猫だったようだぞ、ユリアン」
「そうなんですか?」
 ヤンの嘆息混じりの声に、サラダを運びつつユリアンはアッテンボローをみやった。先程は気付かなかったが、ヤン家の顔なじみである少佐の足下に、小さな黒猫がまとわりついているのが見える。何かを気にするように、しきりにズボンの裾を叩いているようだった。そうかと思えば、ごろりと転がって拍手するように前足を打ち合わせている。
「はいはい、ちょっと待てよ。まずは説明が必要だろ?」
「にゃ! にゃ!」
 まるで人間に言い聞かせるように猫の相手をするアッテンボローに、ヤンとユリアンは怪訝な表情を向け合った。
 アッテンボローはこのように積極的に動物に優しく振る舞う男だっただろうか。猫嫌いという話は聞かなかったが、逆に無類の猫好きという話も耳にしたことはない。
「わかってる、すぐに元に戻してやるから。俺も早く飯を食いたいしな」
「アッテンボロー?」
 ヤンの訝しげな呼び掛けに気付き、アッテンボローはばつが悪そうに口元を歪めた。
「しまったな。これじゃ、俺がイカレた奴みたいじゃないか」
「一人暮らしが寂しくて、猫を飼うことにしたのかい? 猫に話し掛けるのは別に悪い事じゃないと思うんだが、お前さんがそうしてると正直どうも変な感じが…いや、誤解しないで欲しい、決して責めてるわけじゃないんだ。動物を愛することは人間として真っ当なことだよ。ただ、なんというか今までそんな猫好きの素振りもなかったから、少しびっくりしてるだけなんだ」
「誤解しないで欲しいのはこっちですよ、ヤン先輩」
 豊かな想像力が変な方向へ走ったコメントには、不満以外のなにものでもないアッテンボローである。黒猫を睨み付ける視線に恨めしさが籠もるのも、仕方がないというものだろう。
「ともかく、さっさと誤解を解くためにも、先輩にちょっとお願いしたいことがあるんですよ。あ、ユリアン坊やでも構わないんですが」
「なんだい?」
 アッテンボローは腰を屈め、猫の体をひょいと抱え上げた。
「こいつの口元に、ひとつキスを」
「は?」
 ヤンの口が、ぽかんと開いた。
 目の前には、黒猫のつぶらな瞳がある。ごくごく普通の、ありふれた猫の顔があり、耳はぴんとたって、鼻先には髭が三本伸びている。
「にゃー」
 一声鳴いた猫の口元と、アッテンボローの顔を、ヤンの視線が三度往復した。
「猫に、キス?」
「簡単なことですよ。こう、ぶちゅっと」
 ヤンの脳内では、めくるめく思考が繰り広げられている。
 木曜日にこの後輩は、約束をとりつけるにあたって何と言っていただろうか。10歳の女の子と同居することになった、だから紹介したいという話ではなかったか。というのに、蓋を開けてみればアッテンボローが連れてきたのは黒い子猫だ。彼は、まるで言葉が通じるかのように猫に話し掛け、そして今、その猫にキスをしろとヤンに迫っている。
(…わ、わからない。さっぱりわからない!)
 いくらヤンでも、この状態で事の真相を知りうるはずもなかった。その前に、ヤンにはアッテンボローの意図さえ全く予想できていない。
 やや上半身を後ろにそらしたヤンを尻目に、アッテンボローは思い直したように一人呟いた。
「うーん、しかし普段からお世話になっている先輩で実験するのも心苦しいな。ここはユリアン少年に挑戦してもらうか。それでも構わないだろ?」
「にゃ!」
「どうかなさいました?」
 ヤンとアッテンボローが会話する間にキッチンに戻り、一人分のハンバーグをどうしようかと思いつつ食事の支度を続けていたユリアンは、名を呼ばれてひょっこりと顔を出した。すると、ずいと目の前に差し出されたものがあった。
「ユリアン、この猫かわいいだろ?」
 問われたユリアンは、アッテンボローの掌に乗っている猫を至近距離から眺めることになった。確かに、小さな生き物はすべからく愛らしいものである。否定する理由もないので、亜麻色髪の少年は微笑んで頷く。
「ええ、可愛らしいですね。アッテンボロー少佐、この猫を飼うことになさったんですか?」
「うん、まあそういうことなんだ。どうだ、ちょっと抱いてみないか」
 料理の載った皿を運ばなければならないから後で、と言う前にアッテンボローはユリアンに猫を手渡してきた。
「顔を近づけてよーく見てくれ。この猫の目の奥を…」
 なんとなく圧力を感じて、促されるままにユリアンは猫に顔を近づける。猫としては珍しくない金色の虹彩の中心の瞳孔は黒で、何の変哲もないように見えるが、アッテンボローは一体なにを見せたいのだろう。
 思っていると、猫が背伸びをしてぺろっとユリアンの唇を舐めた。二度は舌先で、三度目は口ごとぶつかってくるようだった。
「くすぐったい」
 じゃれつかれて悪い気分もせず、ユリアンは頬を緩める。右手の親指で猫の喉元をさすると、気持ちよさげなゴロゴロとした唸り声を猫が上げる。
「変化無し、か…」
 なぜかアッテンボローは、どこか落胆したように肩を落とした。
 ヤンは今日は異例なことばかりだと、謎めいた言動の多い後輩を観察している。
 ユリアンの手の中にいる猫が身じろぎする。降ろして欲しいのだと理解したらしきユリアンは、腰を屈めて黒猫を床に解放した。
 すると、猫が小さな四肢をとことこ動かして向かった先は、アッテンボローである。
「にゃーお」
 その猫の声がとても人間くさく、アッテンボローを慰める声のようにも聞こえたヤンだった。



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