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  往復書簡06  


 時は駆け足で過ぎ去り、暦は既に八月も終わりに近付きつつあった。
 子爵領の首府が置かれた惑星ブラウの北緯三十五度、東経百三十九度地帯では、盛りを少し過ぎるが一年の中ではもっとも暖かな陽気の頃だ。いうなれば夏という季節なのだが、ここでは最も暑い時期でも気温が二十五度前後である上に湿度も低いので、陽射しが熱くとも緑葉の茂る木陰では過ごしやすかった。加えて、夏と言ってもブラウ星の地軸の傾きは地球のそれより幾分小さく、年間を通しての気候変動もさほど大きくはない。の感覚だと夏が涼しい地方は冬が厳しい印象があるが、読み漁った郷土史関連の資料によると、当地の冬は雪が降ることは稀で寒さも緩いという。
 待合室の天窓越しに空を見上げると、記憶にある故郷の夏空より幾分薄い青が広がっている。宇宙港付近の現在の天候は晴れ、気温は二十六度、地上から高度十メートルでは東から風速四ノットの静穏な風が吹いており、上空の惑星大気は安定しているとヘルツ大尉が丁寧に報告してくれた。さらに、フェザーンから子爵領へ至る航路でも恒星風やフレアの影響はなく、の待ち人であるユリウス・フォン・ヴィーゼを乗せた船団からは、予定時刻通り到着という連絡を受けていた。順風満帆(という表現は宇宙歴にあっては些か古風かもしれない)の航行で、ユリウスはもう暫くすればと同じ大地を踏むことになるだろう。
 それは心から嬉しいが、はヴィーゼ伯爵家の友人を迎えるのを目前にして今更ながら自らの言動を省み、大きく溜息をついたり唸ったりしていた。
 令嬢のお付きとして同行した乳母のゼルマは、お嬢様の挙動不審をてっきり手紙の君が待ち遠しいからだと信じていたが、真相は遠く隔たった地点にあった。
(あー、顔を合わせるのが恥ずかしい)
 ユリウスを子爵領へ迎えることはもちろん楽しみだったが、今のは十歳を越えた貴族の男女が、家族が在宅中に互いの家を行き来する意味というものを知って頭を抱えていたのである。
 帝国貴族が作法や伝統様式を重んじることは理解していたが、にとっては男女交際のしきたりなど全く念頭にない事項だった。銀河帝国の貴族令嬢という立場では、十代前半で婚約および結婚という人生の分岐点もあり得ると知識は得ていたものの、全く異なる環境で育まれたの価値観は、にわか令嬢生活で容易に上書きされるものではない。には現在の自分が幸か不幸か十歳という油断があったし、帝国貴族のお付き合いの手順など誰も教えてくれなかったのだ。
(なんかおかしいと思ってたけど、まさか家に誘うのが親公認の恋人になりませんかって意味合いだったとは…)
 娘の『友人』来訪に張り切る子爵家の両親の様子に首を傾げつつも、が言葉の定義が食い違っているのではという確信を得るまでは、それなりの時を要した。というのも、フェザーンと子爵領を繋ぐ定期的な通信は相変わらず日常会話に終始していたし、計り知れない未知の作用で銀河帝国の子爵令嬢生活を強いられたは気晴らしとばかりに勉強と和食復活作業に日々明け暮れ、ユリウスに関するカールとヨハンナの盛り上がりも、夕食の席で準備の進捗を耳にするくらいだったのだ。ある時には半日がかりで新たな夏服(繊細なレースと波打つ布地の面積にはヨハンナの愛と夢の大きさが比例する)の仕立てに付き合わされたが、これはにとっては日常に分類される出来事だった。
 さらにが無知から墓穴を掘った自覚がない様子を、周囲は聡明な令嬢の幼さを垣間見たと微笑ましく見守っていたらしく、ことさらにヴィーゼ伯爵家の話題を令嬢に向けて揶揄することもなく、つまりはは貴族恋愛のイロハを学ぶこともなく平穏な辺境子爵領での日常を満喫していたのだった。
 だが事態の不覚を悟るきっかけは、なんの劇的な演出もなくヨハンナからもたらされることになった。
 ユリウスが子爵家を訪れる日が一週間後に迫った頃だったように思う。なぜかよりも目に見えて日に日に期待を膨らませているらしき若き子爵夫人は、当日の娘の装いのポイントを、関心薄な表情を隠すのに多大な努力を払っているに語ってくれていた。
「カール様は青が良いと仰るけれど夏の青空の下で二人並んで語らうなら、わたくしはやはり可愛らしく明るい赤や、優しい薄赤が良いと思いますの。庭の緑の間に立つ姿はきっと花のように見えますわ」
 ヨハンナの脳内で繰り広げられる夢世界が垣間見える発言に肯定も否定もせず、は大人しく着せ替え人形役に従事していた。としては苦行のコルセットさえなければ、デザインや色は何でも良い。その辺りは数ヶ月に及ぶ華麗なる貴族生活で、諦めの境地に最も早く至った部分だ。
 ドレスに合わせる日傘や靴、髪飾りを並べるゼルマは普段の令嬢の衣装選びを担っていることもあり、ヨハンナと話を弾ませている。
「お嬢様は飾りの少ない服をお好みのご様子ですが、奥様の仰る通りですわ」
「なんにせよ、めでたい席なのですから華やかな装いがよろしいに違いありませんもの。お義父様は控え目にと仰るけれど、あまり地味で辺境の子爵家と侮られるのはが不憫ですわ。ああ、ゼルマ、真ん中の白のブラウスを下に着せましょう。袖のレースが赤に映えるはずですわ」
(めでたい席?)
 は頭を捻ったものの、帝国貴族でも指折りの財閥ヴィーゼ伯爵家の人間がやってくるというのは辺境貴族にとってはめでたい事柄かもしれないとも思う。
 怪訝なの表情をどう取ったものか、ヨハンナは娘の両肩に手を置いて鏡越しに視線を合わせる。
「未来のの夫君になるかもしれない方に改めてお会いするのですから、恥ずかしくない用意をしたいと思うのが母として当然というものでしょう? 初めてのご招待というのは、やはり特別なんですもの。美しく装うのも後々の良い思い出になりますわよ。ホログラムにも残しておく手配を致しましょうね」
 同意を求めるよう微笑みかけられたとしては、聞き捨てならない一言に冷や汗を流すしかなかった。
「お、お母様。その、なぜユリウス様が我が家に来るから未来の夫という話になるのでしょうか?」
 嫌な予感を抱えて姿見に映るヨハンナの顔を伺うと、彼女は僅かに驚いたように目を瞠り、次には沈痛な表情で首を振り言った。
「ええ、もちろんお付き合いしたからといって必ずしも結婚に至るというものではないけれど、今はそんなことは気にしてはいけませんわ。ヴィーゼ伯爵家にも色々と事情がおありかもしれないけれど、愛し合う二人の前ではどのような困難も問題とならないんですもの。ああ、先のことが心配なのね、。お母様にはわかります」
 そしてヨハンナは何かに思い馳せるよう目を瞑り、大きく頷き娘の頭を胸元にかき抱いた。
「お屋敷にお招きして貴女のユリウス様をわたくしたちに紹介して下さるんでしょう? 略式とはいえ一応はお付き合いする相手のお披露目なんですもの。二人の仲が末永く続けば良いとお母様は思っておりますし、そのためにわたくしはの力になれればと心に決めておりますからね」
 その時のはヨハンナの柔らかな胸に埋もれながら、これまでの違和感の数々を組合せて到達した真相に卒倒しそうだった。屋敷に招くこと即ちお披露目、つまり、私たちお付き合いしてます宣言と、ヨハンナは言っているのだ。
(十歳と十四歳だと一緒にお外で遊んでらっしゃいって年頃でもないけど、さすがにこれは想定外だわ)
 常識も知らぬ年下の女の子に家に招待されて、ユリウスも苦慮しただろう。優しい少年だから無碍に断ることもできず、さりとて無意識に大胆なことを言っている相手に自ら『そういうこと』かと問い返すのも憚られるに違いなく、ユリウスはきっと子爵家に来ると答える以外になかったのだ。
 それまで世界も常識も異なるからと据え置いていた問題に取り組むことを、は多大なる反省と共に決断せねばならなかった。
(ああ…もうちょっと帝国貴族の習わしを勉強しなきゃ、口説かれても気付かないだろうし、知らない間に喧嘩売ったりしそう)
 今後も銀河帝国において暮らす必要に迫られた時には、知識こそが身を守る術にもなるだろう。気は進まないが貴族の一般的な振る舞いを知り、ついでに帝国貴族典範にも手を伸ばしておくに越したことはない。
 そんなが一週間後のユリウス来訪に備えて間に合わせの貴族の手本として採用したのは、母ヨハンナが収集した貴族小説の類だった。手っ取り早く貴族の日常会話や習慣がわかるかと思い、はここ数日で三冊読んだ。特定の分野でのみ大変参考になる台詞や情景描写が詰まっている本に、脳味噌が沸騰して溶けそうだった。知識の糧とはなったが、実践できるかと問われれば色々なものを捨てねばならない気がする。
「ヴィーゼ伯爵家の船団が、あと十分ほどで到着致します」
 が舌を噛みそうな小説内の台詞を脳内で再生していると、宇宙港の管制官が報告を携えてきた。
 頷いて礼を言ったは、令嬢を美しく見せることに余念がないゼルマに黒髪を束ねるリボンを結びなおして貰い、それから五分後に部屋を出た。待合室の扉を開け、宇宙港という場所柄には不似合いな絨毯が敷かれた通路を進み、さらにもう一度ドアをくぐれば屋外の広いベランダへと出る。が居るのは宇宙港の三階、灯台型の建物から放射状に四方に伸びされた部分で、その一画は宇宙船の乗降に利用するボーディングブリッジへと繋がっていた。宇宙港の一部は子爵家専用スペースで、これも領主一家としての特権のひとつである。とはいえ辺境貴族領の宇宙港など、オーディンの軍港や中央宇宙港には比べるべくもない小さな規模で、整地された広い駐機スペースに宇宙船を繋留し人が乗降する設備がようやく確保されているだけの、名ばかりの宇宙港だったりするのはご愛敬だ。私兵団艦隊用には相応の宇宙港施設が存在するが、そちらは民間用と区分されていた。
 艦影を探して晴天を仰ぐと、すぐに四つの黒点を見つけることができた。黒い粒のようだった船は見る間に大きくなり、宇宙港の上空まで斜めに滑空してくると、一旦動きを止めた後に着陸態勢に入り、徐々に高度を下げ垂直に降りてきた。の知るジェット機やヘリコプターよりも意外に静かな着陸なのは、未知なる技術力が結集されているからだろう。そもそも宇宙船がどうやって大気圏内で浮いているのかも理解できないので、帝国歴四七七年における理科や物理の基本も、今後の勉強項目に加えておくべきだろうかとは思案した。
 ユリウスが乗っていると思しき旅客用宇宙船の周囲を取り巻くように、兵装を備えた護衛艦が地上までエスコートしているのはさすが財閥ヴィーゼ伯爵家というところだった。聞くところによると、それらは最新鋭艦という。
「ヴィーゼ伯爵家は重工業分野にも通じておりますし、自家で新造艦を運用しているのも当然かもしれません」
 とは、以前に乗った子爵家所有の戦艦アウィスとの違いに感嘆するに、ヘルツ大尉が漏らした感想だった。ちなみに戦艦アウィスはコンラッドが現役時に乗っていた艦を軍から払い下げてもらったもので、建造から既に二十年になろうかという古強者なのだ。
 第一スポットと定められた地表から数メートルの高さに、ヴィーゼ家の船艦は停止した。艦の中腹辺りの下部に位置する乗降口へ、宇宙港側から可動式のボーディングブリッジが伸ばされ接舷する。巨大な艦の乗降口は宇宙港の四階部分よりもやや高い位置にあるため、エスカレータのようなタラップがついていた。その階段の頂上にある乗降口のセラミック装甲が重い動きで開き、菜の花色の髪を持つ少年を中心とする一団が姿を現した。
 は数歩進み出て、手を挙げて振った。辺境子爵領での令嬢生活は閉鎖的で、日常的に顔を合わせる相手は限られている。自らしでかした醜態は恥ずかしいが、久々に楽しい話の出来る友人が来たのだから正直に嬉しいと思う。言ってしまったことは取り返しがつかないし、現にユリウスもこうして子爵領へ降り立ったのだ。後で無知を謝罪するしかないと、は開き直ることにした。
 笑顔で手を振り返してくれたユリウスは自動昇降するタラップを降りると足早に、けれど優雅に見える足取りでの目の前までやって来た。
「いらっしゃいませ、ユリウス様」
 は普段ヴィジホンで話している通りの気軽な声をかけたが、ユリウスは頷き微笑むと礼儀正しく胸に手を当て一礼し、挨拶の口上を述べた。
「お招きに預かり感謝致します、フロイライン・。久方ぶりに可憐なお姿をこうして拝見できて、万感の思いです」
 簡単に再会の挨拶を済ませる気で居たは、慌てて居住まいを正してスカートを摘んで応じ、行儀作法の授業で習い、かつヨハンナの小説で幾度も目にした文章のとおり自ら右手を差し出した。
「ご来訪を一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました。私もユリウス様にお会いできて嬉しく思います」
 ユリウスは出された手を屈みながら恭しく取り上げて、口元に近づけと視線を交わし、そして優しく手袋越しに唇を落とした後に放した。どこまでも完璧な王子様を務める少年だと、は内心で現在の状況に悶えていた。この伝統的挨拶の恥ずかしさに笑顔のまま耐えるのは、なかなか大変なのだ。気を抜くと、あまりの少女漫画的場面に奇声を発しそうである。
 顔を上げたユリウスの表情に、照れた様子など一切ない。欧米人が握手をし、日本人がお辞儀をするくらい一連の動作は紳士から淑女への挨拶では当然のことなのだ。
 挨拶のために必然的にはユリウスを真正面に立つことになったが、そこで今更ながら気付いたことがあった。
「ユリウス様、久しぶりにお会いしてすぐ申し上げるのも何ですが、少し顔色が青く見えます。体調が悪いのでは…」
 ヴィジホン越しに顔を合わせるのと実際に向かい合うのではやはり違うものであるし、普段のユリウスを知っているとは言い難い程しかはユリウスを知らない。だがは、ユリウスの顔色の悪さが一目で気になった。もともと色白ではあったが、今のユリウスは血の気が引いた貧血気味の青白い肌色をしている。
「そうでしょうか、長旅でいささか疲れが出たのかも知れませんが、貴女に会えた喜びでそのうち赤くなるのでは?」
 の心配を、ユリウスは笑って躱してしまった。
 何度も大丈夫かと訊ねるのも折角の再会に水を差すようであったし、追求されたくない素振りも見えてそれ以上の発言を控え、はユリウスを宇宙港の外に待たせた地上車へ案内し、カールやヨハンナたちの待つ子爵家へ移動することとなった。

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