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  往復書簡04  



 辺境領の子爵令嬢と他愛のない文通を始めてから数ヶ月、何度か六五十光年の距離を手書きの書簡が往復した。内容は経済や社会に関する難しい話をすることもあれば、日々の他愛ない出来事、たとえば近頃は料理に凝っている(そのようなことを公言する貴族令嬢を、ユリウスは他に見たことがない)ことや、彼女の祖父君であるコンラッド・フォン・卿の教育熱心な様子、そして家族の愛の深さが伺えるエピソードが多少の愚痴混じりに記されていることもあった。いずれにせよユリウスは微笑ましい気持ちになったし、からの手紙を読むことを一度たりとも苦痛と思ったことがなかった。
 だがユリウスが子爵家令嬢とのやり取りに満足する一方で、そのような彼を嘲笑する者もあった。
提督の名はわたくしも存じておりますけれど、所詮はその勲功も過去の話、今や子爵家など単なる辺境貴族にすぎませんことよ。時風に乗っている訳でもなく、伝統の裏打ちもない成り上がりの家の娘にどんな価値があるというのかしら。そのような娘と連絡を取り合うなど…貴方は本当にお目が高くていらっしゃるのね」
 継母のアドルフィーネは、夕食の席であからさまに彼を強く皮肉った。社交界の華と呼ばれた美貌は相変わらずで優雅な笑みを浮かべてはいたが、仮面の裏側は嘲りの形をしているとユリウスは知っている。
 どこからとの交流を聞きつけたのだろうかと考えたが、この屋敷や彼が普段暮らしているオーディン中心地区に近い別宅に仕える使用人は数多くいて、誰が手紙の件を漏らしたのかを突き止めるのは難しかった。
「下賤な腹から生まれた貴方が、オーディンの高貴な娘達に見向きもされないのは、義理とはいえ母たる私は理解しておりましてよ。とはいえ、田舎娘と気が合うのは結構ですけれど一応はヴィーゼを名乗る者なのですから、お付き合いなさる相手は選んで下さいな。でないと、わたくしたちの格まで疑われてしまいますわ、ねえ、ルーカス」
 アドルフィーネが視線を流した先には、弟のルーカスがいる。彼とは違って継母と血の繋がりがあり、ユリウスにとっては異母兄弟にあたる五つ年下の少年だった。
 いまだ十歳に満たぬ幼い弟は、ユリウスとアドルフィーネの間に漂う険悪な空気を知ってか知らずか、無邪気に微笑んで言った。
「母上。ですが兄上が手紙を交わしている方は、ブラウンシュヴァイク公爵家のエリザベート様をお救いになって、それからは仲良くしているのだと僕は聞きましたよ。だから、とても凄い方なのではないですか、兄上?」
 アドルフィーネは言葉に詰まり、ユリウスは苦笑した。彼は継母のことを好ましく思える日が来ないと確信していたが、この天真爛漫な義理の弟は無碍にできなかった。きっと『下賤な生まれの兄』に関する様々な陰口をアドルフィーネから吹き込まれているに違いないのに、ルーカスはユリウスを疎む素振りもなく、顔を合わせればそれなりに友好的に話すこともあった。
「凄いという表現が適切かはわからないけれど、彼女はとても聡明な人だよ。政治や経済のこともよくご存知だ。きっとルーカスよりもね」
「僕も沢山勉強しています。僕よりも、その方は色々と知っているのですか? フロイラインなのに?」
 弟にのことを語って聞かせたい気持ちはあったが、アドルフィーネの歪んだ形相を横目に入れると言葉は全て喉の奥に詰まり、胃が重くなった。アドルフィーネは彼の言葉尻を捕らえて、ただ彼をおとしめるためだけに黒髪の少女を謗るに違いないのだ。そう思うと、に関するどのような言葉も口にすることは躊躇われた。
 だからユリウスはルーカスに対して頷くだけに留め、それ以上の答をせずに済むよう金縁の模様で飾られた皿の上の前菜をフォークに突き刺し、口に運んだ。沈黙を保つ彼を無視するかのように継母がルーカスに話題を振り、以降はユリウスが食卓の会話に加わることはなかった。ルーカスは何度か榛色の瞳をこちらへ向けたが、ユリウスはあえて気付かぬ振りをした。
 ヴィーゼ家の料理長の腕は悪くないはずだったが、ユリウスにはどの皿も味気なく感じられる。は料理が好きだと手紙に書いていたが、ユリウスにとっての食事は常に苦痛と隣り合わせで、家族との会食ともなれば微少ならざる緊張を伴うものだった。だから彼は食べることが好きではなかったし、可能な限り食事の回数を減らしていた。栄養など、一日に必要とされるカロリー相応の薬剤を摂取すればよいのだ。
 メインディッシュのフィレ肉が殆ど残されたまま彼の前から下げられた頃、食堂に執事が入ってきて一礼し、家長たる父の帰宅を告げた。ユリウスは苦痛に満たされたテーブルに膝の掛け布を外して置き、席を立った。わざわざ彼が望まぬ食事を継母たちと過ごしたのは、屋敷に帰った以上は避けられぬ儀式だった。だがユリウスは父に会いに戻ったのであって、食後のコーヒーまで付き合う義理はない。
「今日はお屋敷に泊まって行かれますか、兄上。明日は学校もお休みではないですか」
 挨拶もなく背を向けたユリウスに、ルーカスの甘え声が追い縋った。兄に何度か勉学をみてもらったことは、弟にとっては大層楽しい一時だったらしい。それはユリウスも同じで、程ではないが向上心も強く賢明な弟の疑問に答え、助けになることは小さな満足さえあった。
 しかし、彼は振り向くこともなく冷ややかに答える。
「いいや、明日も友人と約束があるから、父上と話をしたら帰る予定だよ」
 アドルフィーネの怨嗟の籠もった視線を避けるよう足早に進み、従僕の開く扉をくぐってユリウスは食堂を後にした。背後で閉まりかけた扉の隙間から、母子の声が漏れ聞こえる。
「あのような者に媚びることなどないのです。兄などと口にするのも憚られるような者ですのよ。親しげな素振りなどなさる必要はありません、ルーカス。それよりも、明日は母と一緒に観劇に参る予定でしょう? 途中で話題の菓子店に寄るのはどうかしら、とても美味しい焼き菓子なんですって、ご存知?」
「わあ、それは食べると不思議な感じのするクッキーですよね。食べてみたいとずっと思っていたのです!」
 彼が築いた分厚い壁は、耳に入る会話を雑音として処理した。
 ユリウスは歩調を緩めず、父の書斎へと向かう。執事の憐憫混じりの顔など視野に入れず、ただ毅然と顎を上げて口元には笑みを絶やさず、ヴィーゼ家の嫡男として隙を見せぬように廊下に敷かれた絨毯を踏みしめる。それが賤しいと蔑まれることに慣れた彼の在り方だった。
(母がどうであれ、僕が嫡男であることに変わりはない)
 さらに他家の御曹司に見劣りせぬ優秀さと健康を兼ね備えている彼は、ヴィーゼ伯爵家にとって有用な存在であるに違いなかった。だからこそ、父は彼を嫡子と位置付けているのだろう。
 彼の母は、身分の低い生まれだった。父が若かりし頃に最初に迎えた妻で、後妻の継母に言わせれば顔だけの女という母は、それなりに見栄えする造作を持つアドルフィーネよりも更に美しい容貌の人だったとユリウスは教えられた。近頃は乳母にも懐かしむような眼差しで、こう言われたものだ。
「お坊ちゃまは年を経るごとに、母君の面影が強くおなりです。髪の色は旦那様の色ですが、明るい緑の瞳とお顔立ちは本当に鏡を見るようで…」
 母と顔立ちが似たからといって、ユリウスに喜びは訪れない。彼にとって母という単語は、ただ生物学的な繋がりを持つ人といった意味合いにしか値しない。母は息子の出産直後にヴァルハラへ迎えられたため、残された彼が触れることのできたのは立体映像の母のみであった。幼い頃はそれなりに慕情を抱きもしたが、幻の母は彼に何も与えてくれなかった。唯一与えられたものがあるとすれば、それは彼自身の関知せぬところで作られた肉体と生命だけだった。
 銀河帝国でも指折りの財閥たる伯爵家では、母を失ったとはいえ不自由のない生活が保証されていた。ユリウスは望めば何でも与えられたが、本当に欲したものは一度たりとも手に入らなかった。
「旦那様、ユリウス様がお見えです」
 息子の到来を執事が伝え、扉の開閉の役目を終えると、書斎にはヴィーゼ伯爵家の父子が残った。
 重厚な色合いに艶めく机の向こう、部屋の最奥の窓辺に父ハインリヒの背が佇んでいる。
「お帰りなさいませ、父上」
 軽く一礼して挨拶するがハインリヒは息子を振り返らず、心持ち顔の角度を変え、横目に頷くだけだった。当然のごとく微笑んでなどおらず、無表情のままだ。
 ユリウスが屋敷に戻るのは、その必要に迫られた時に限られる。出席せざるをえない伯爵家主催の宴や祭礼事、普段行う文書の往復では間に合わぬ急を要する事案がある場合と、呼出を受ける時にしか伯爵家の敷居を跨いでいなかった。
 父のハインリヒは何時からかユリウスと面を合わせることを拒み、こうして同室の空気を吸うことさえ実に数ヶ月ぶりの希有な事だった。財閥を支える執務に余念が無く、オーディンとフェザーンを多忙に往来していることも理由ではあるが、執事や使用人任せの連絡しか寄越さぬ父の有様をみれば悟らざるをえぬこともある。それにユリウスは今や屋敷から体よく厄介払いされ、別宅に住んでいる。同じ屋敷にいて気が休まらぬのは父子ともに変わらぬ心情であろうと、ユリウスはその旨が記された書面を見てすぐに屋敷を出て、既に二年の歳月が流れていた。
「ご用件は何でしたか」
 ユリウスは簡潔に問うた。一秒たりとも父と時間を共有したくない。
「フェザーン行きの件だ」
 父は軽く顎で机上の書類を示した。それを読めということだろう。呼び出しておきながら、口で説明するのも面倒ということだろうか。
 ユリウスは机の端に置かれた紙を手に取り、目を走らせた。七月からの夏期休暇にはフェザーン自治領で過ごせという指示は先月に受けており、手元の内容はフェザーン訪問の詳細な日程と、滞在期間中に面会予定の相手の名前が連ねられているだけだった。このような連絡で、わざわざ呼び立てる必要などなく、他に本題があることは明白だ。
 ユリウスは何ら感情を込めぬ声で、先程と同じ台詞を繰り返した。
「それで、ご用件は何でしたか」
「お前は、今年で十四歳だな」
「左様です」
 相変わらずハインリヒは肩越しに横顔を見せるだけで、平坦な口調に加えて答などわかりきった質問がユリウスを苛立たせた。だが、続けて告げられた内容に、彼は更に憤りを募らせることになった。
「来年からは、フェザーンの商科大学へ進め」
 それは命令であった。彼の意思を何ら尊重せぬ確定事項を伝達する機械的な発言に、ユリウスは奥歯を強く噛み締め、不動を崩さぬ背を睨みつけた。
 ユリウスの中にも進学の意思はあり、その行き先が父の言うものと同じであったことも認めよう。しかし自分の人生の方向をこの父に定められるのは、忸怩たるものがある。
(もしや…)
 穿ってみれば、彼を帝国の端へ追いやりオーディンの中心から更に遠ざけようという画策に思えなくもない。継母の作為が父に作用したのだろうか。アドルフィーネが実子のルーカスを次なる伯爵の座に据えようと謀略を巡らせていることは、傍から一目瞭然のヴィーゼ家の内実であった。
 父のハインリヒはユリウスにとっては耐え難い嫌悪をもたらす人物だったが、実務や政治感覚の優秀さは抜きんでている。商才もあり、祖父の代にやや傾いた財閥を立て直した辣腕家である。自らの足元の状況を認識せぬように無能でもなく、父は息子の思惑など見抜いていた。
 ユリウスが顔色を変えたのを窓越しに見たのか、ハインリヒは言葉を付け足した。
「勘違いするな。オーディンでの貴族間の腹の探り合いより、フェザーンの狐共のやり方を学ぶ方が有益だと私は言っているだけだ。オーディンには嫌でも今後は顔を出さねばならぬ。時間のある内にフェザーンで顔を売ってこいということだ。私は間違っているかね?」
 父の云う道理は的外れではないと、彼にも理解出来るだけの見識は備わっている。だからこそ、彼自身もフェザーンへ学問を修めに行くことを検討していたのだ。それに父の言が本音であれ嘘であれ、ユリウスに許された道など一つしかない。家長たる父に逆らうことは出来ない。
 ユリウスは無力な自分の有様に心を掻きむしりつつ、了解の旨を喉から絞り出した。
「わかりました。では、そのように」
 なるほど、口頭でなくばユリウスはアドルフィーネの陰謀を疑って納得できなかっただろう。文書や映像を偽造することなど造作もないが、面前で父本人から公言されれば、本心からかはともかく納得せねばならない。だから父は自分を呼びつけたのだ。そして用は済んだ。
「ご用件は以上ですか」
 微動だにせぬ父の応えを待たず、ユリウスは踵を返す。だが扉の把手を握ったところで、ハインリヒは言った。
「近頃、子爵領の娘とやり取りしているらしいな」
 ユリウスは父がそうしたように肩越しに振り返ることもなく、扉の木目を意味なく視線でなぞった。
「それが何か」
「遊びは程々にしておけ。お前には、帝国宰相のリヒテンラーデ一門の娘や、ブラウンシュヴァイク本家の娘との縁談も内々にではあるが持ち上がっている。妻の身分は相応に高い方が良い」
 それが貴方の本心か。身分の低い母は、一体何だったのだ。
 身分、身分、身分。それが何だというのだ。それが人格を否定する根拠になるのか。蔑まれる理由となりうるのか。
 ユリウスは込み上げた悔しさを拳を握って堪え、無言のまま荒く扉を押し開いて息苦しい密室から脱出した。父に対する軽蔑と失望だけが彼の胸に広がり、当分は顔どころでなく存在さえ自らの感覚で受容したくないと、一瞥さえくれる気にならなかった。
 だから彼は、彼の父がどのような表情で息子の背を眺めていたのか、一生知ることはなかった。
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