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 セツナと仲間らしき二人の話を聞きながら、彼女は動かない体の中で唯一正常に作動しているように思える脳を必死に回しながら、状況把握に努めていた。
 会話を聞いていると、自分を指して『E』と言っていることはわかる。
 だがその他のことについて、例えば自分がなぜあんな所にいて、身体も動かないのか、といったことは何ひとつはっきりしない。さらにセツナは何者で、なぜ自分を回収するというのか。今からどこへ向かうのか。
 とりあえずセツナと名乗る少年が、今のところ自分に危害を加える様子を見せていないことだけが救いだ。
 とはいえ正体不明なことに変わりはないので、信頼できるほどの好意は抱きようがなかったが。
 顔を伏せてセツナの胸元にもたれかかったままだったので、抱えられた彼女にはセツナがどこをどう歩いたかも分からなかったが、彼は目的地に着いたのか、立ち止まって彼女の名を呼んだ。

「イブ」
 
 胸が痛んだ。
 なぜ彼は、その名で私を呼ぶのだろう?
 他に誰か私の知っている人間はいないのだろうか?

 考えながら、先程に比べて少しは滑らかに動いてくれるようになった体を意識する。顔を上げ、視線を向けると、近い距離で見る少年の眉根は寄せられ、視線はあさっての方向だ。裸の自分をあまり見ないようにしているのがわかって、彼女のセツナに対する評価は良くなった。
「少し待て」
 短い言葉と共に壁に背をもたせかけるようにして下ろされ、言うなりセツナは不思議な形の恐らく機械に向かって歩いていく。人型を模しているのだろう、跪いて胸の前に掌を上に向けて固定された機械は、幼い頃みた何かの映画に出てきたロボットみたいだった。そして、夢のような機械を熱く語っていた友人たちを思い出す。
 ひとつの思いつきを、彼女は即座に否定した。
(まさかね…)
 巨大なロボットは青と緑の2機あって、セツナは青い方の足元へ向かい、巻き上げられるワイヤーを使って機械の胸元の掌へと上がっていった。
 身体が動かないため、視界の上へと消えてしまったセツナが何をしているのかはよくわからない。
 それきり視界に動くものはなく、溜息をついて目を閉じる。
 ここには見覚えのあるものがひどく少ない。
 ただ場所に見覚えがないというだけではなく、何か色々な「普通」が違っているように彼女には思えた。
 それは通ってきた通路に備えられた灯の色合いであったり、セツナの服装であったり、そして青いロボットの形をして、彼女に違和感を抱かせている。
 一人きりにされて、どれぐらい時間が経ったのだろう。
 背に伝わる金属の冷たさに身震いする。
 まだ重くだるさを残したままの腕をどうにか持ち上げ、自分自身を守るよう抱き締めた。
 
 心細かった。

 服を着ていないことも、自分が見知らぬ場所にいることも、全てが非日常であることに、彼女は怖くなった。
 足音が響いて近付いてくる。何かがばさりと身体にかけられた。

「イブ」
 
 ああ、また。
 
 セツナの声に彼女が目を開くと、毛布が身体を覆っていた。
 そして再び、問答無用で抱えあげられる。
(温かい…)
 彼女が縋れるものは、今はイブという名と、その名を呼ぶセツナしかいないように彼女には思われた。


* * *

 ガンダムエクシアへ辿りつくまでの間、イブという名の女は一言も発さなかった。疲れたようにぐったりと刹那の胸に寄りかかり目を瞑ったまま、人形のように微動だにしない。だが白い素肌は、非常用サバイバルキットを漁って取り出した毛布に埋もれて、今は見えなくなっていた。
 沈黙は苦にならないが、あれこれ喋りかけられたり、自分自身が何かを喋ったりすることは刹那にとっては苦手な部類だ。それに人と間近に接触することさえ久しぶりで、居心地が良いとは到底いえない状況だったため、彼女が沈黙を守っている状態は刹那にとって都合がよかった。
 エクシアの足元に垂らされたワイヤーを掴んで上へと引き上げられる時に至って、イブは浮遊感にようやく目を開けて緩慢な動きで頭を巡らせ、刹那の愛機であるエクシアを目をとめた。
「あなたは…これのパイロット?」
 コックピット前に足場として置かれたエクシアの右掌の上で、イブは2度目の声を発した。さきほど聞いた1度目の問いかけよりはややはっきりと、けれどもまだ頼りない声音だった。

 エクシアのガンダムマイスター、刹那・F・セイエイ。

 それが刹那の身分であり、現在の存在意義でもあった。
 しかし自分がエクシアのパイロットであるという事実は秘匿情報に類する。
 ここで答えていいものか一瞬迷ったが、これから彼女を抱えてガンダムを操縦してトレミーへ向かわねばならず、隠す余地はないという結論に至る。
「そうだ」
「そう…」
 刹那にはイブの質問の意図はわからなかった。それきり再び押し黙ったイブを、刹那は一度しっかりと抱え直す。
「動くな」
 イブの体を計器類にぶつけないよう、慎重に狭いコックピットへと入った。コックピットは基本的に単座で一人しか座ることが想定されていない。中は立ち上がれるほどの高さはなく、広さも両腕を伸ばせば一杯になってしまう程度だ。だが操縦席の後ろにはスペースがあり、そこにイブを座らせることも考えたが、死角となる背後によく知らぬ人間を置くということは刹那には耐えかねた。それならば手の届く範囲に置いて、何か不審な動きをしてもすぐにわかる状態の方が好ましいと、結局、刹那は操縦席に座った自らの上にイブを横抱きにして座らせることにした。
「周りのものには触るな」
 言い含めるように言うが、イブは上の空でコックピットのあちこちに視線をやっている。
 なぜ俺はこんなことをしているのだろうか、そう頭の片隅で思いながら小さく息を吐き、起動シークエンスを行う。パスを打ち込み、虹彩認証を受けると、低い唸りを上げてエクシアが目覚める気配。外部モニタ、計器類をチェックし、コックピットを閉じた。
 エクシアを立ち上がらせ、ベースのハッチの開放操作を行わせる。トレミーのような管制官がいないため、宇宙空間に飛び出すための手順は全て自分で行わなければならなかった。
 ハッチがゆっくりと開くと、その先にはまだ隔壁が存在している。踏み出して背後のハッチを閉じ、再び先程と同様の手順で目の前のハッチを開いた。大気を漏らさないための隔壁の多重構造は、宇宙建築物の基本である。
 そうしてようやく開いた3番目の扉の先、漆黒の闇と点々と輝く星の海にエクシアは飛び出した。

 刹那の膝に乗ったイブは、首をめぐらせて正面モニタをじっと見ていた。
「ね、今って西暦何年?」
 唐突な質問に、刹那の頭では情報が錯綜する。問いかけの意味はわかるが、その意図はわからない。ただ何かを諦めた表情で問いかける女に、大したことのないことだと手短に少年は答えた。
「西暦2306年」
「2306年…」
 刹那の言葉をなぞるよう繰り返した黒髪の女は、小さく、とても小さく微笑む。
「ひどいね」
 言葉の内容と表情が噛み合っていない。何がひどいのかもわからない。
 『E』とされる女の、何一つさえ刹那にはわからない。
 ただ熱を伝えてきている、その存在だけしかわからなかった。
 何がひどいのか、そう問い返すべきだろうか、そう思う。
 けれども問いかけを口にする前に、イブは再び口を開く。
「宇宙……か…」
 呟いた女の声が聞こえて、刹那はその横顔に視線を向け、やや驚いた。
 青い瞳がみつめる先は、刹那にとっては既に見慣れた変哲もない黒い世界だけだった。
 特別なものは何もない。
 だが、イブの頬には一筋、涙が伝い落ちていた。
 宇宙というのは、泣くほどの感動をもたらすものなのか、刹那にはわからなかった。
 ソレスタルビーイングの一員となって宇宙空間に上がり、初めてその広い空間を間近に感じた時にだって、刹那にはさほどの感慨はなかった。ただ、故郷の空がこの黒い空間だったとはとても思えない、そういう違和感を覚えたのだったろうか。
 引き上げた毛布に頬までうずまり、細い指先で涙を拭った女を、刹那はこのとき初めて「これ」は人間なのだと実感した。
 漆黒の絨毯に光る粒をばらまいたようなモニタを見やる瞳に浮かぶ色は、けして人形や作られた機械なんかが浮かべることの出来ない寂寞の色だった。
「…セツナ」
 名を呼んだ女の青い瞳が、刹那の姿を映していた。
「あなたの名前、でしょう?」
 正確にはコードネームであるが、ガンダムマイスターたる自分の名は刹那・F・セイエイで間違いなく、十数年前に授かった名を呼ぶものも、いまはいなかった。
「ああ」
「セツナは、今の世界が好き?」
 突拍子もないことばかり訊かれるものだと刹那は思った。
 問いに答えないで黙殺することもできた。だが刹那は、今の自分のあり方を問いかけられた気がして、素直に思ったことを口にする。
「好き…じゃない。だから変えたい、そう思っている」
 自らの過ちが繰り返されないような世界を、刹那は求めている。
 だからソレスタルビーイングにいる。
 なぜ、と彼女は訊いたりしなかった。
 そうしてまた、唐突に話題を変えて話し始める。
「私ね、 って云うの」
?」
「私の名前。もうイブって呼ばないで。その名前、呼ばれたくない…」
 それきり目を閉じたイブはトレミーにエクシアが着艦した後も目覚めることなく、運び込まれた医務室の回復ポッドに横たえられた。




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