BACK NEXT TOP





(ああ…夢か…)
 遠ざかる優しい名残を意識は追いかける。
 あの日はそれまで他に経験のないくらい良い一日だった、そう思うと同時に、急速に目覚めていく感覚はひどく最低な気分を彼女にもたらした。
 もう二度とあの日のような機会はないだろうと、彼女は知っていた。
 自ら彼らの手を振り払ってしまったから。

 だが夢が夢であったこと以上に最低だったのは、頭を叩くような頭痛と、爽快とは言い難い重苦しい体の調子だった。神経が不快感になぶられる。その刺激が、彼女を眠りという平穏から乱暴に引きずり出すようだった。それに、なんだかひどく肌寒い。どこからか吹き込む冷たい風が、すうすうと肌を直に撫でていく。まだまどろみに身を任せていたかったが、すぐ傍に佇む人の気配に、寝起きの気だるさは失せていった。眠ることは好きだが、人のいる場所で無防備なままいるのは好きじゃない。
 誰だかわからないがどこかへ行ってくれないかと思ったが、自分が起きるのを待っているのか気配は傍から離れていってはくれない。

 そして声が聞こえた。
 それは、聞覚えのない男の声だった。
「イブ」
 なぜその名を、見知らぬ誰かが呼ぶのだろう?
 彼女は訝しみつつ、その誰かを確認したくて瞼を押し上げた。
 途端に知覚した光が、目に突き刺さるようだった。起きたばかりだからか、目も耳もひどく敏感になっていて、普段は気にならないような些細なことが、まるで重大情報みたいに身体に認識されているようだった。
 光に慣らすように数回まばたきして視界がはっきりすると、誰かが自分を見下ろしていることに気付く。
 あいにく顔は影になっていて見えなかった。
「………誰」
 浮かんだ疑問を投げかける。
 だが、声を出そうとして、喉がひどくつかえていると彼女は知った。
 うまく喋ることができない。違和感のある喉をおさえようと右手を動かそうとすれば、まるで長く動かしていなかったように関節がぎしぎしと悲鳴を上げた。びっくりして頭を起こそうとすれば、鉛でも載せられているかのように頭が重く、ほとんど持ち上げることができなかった。腕や頭だけでなく、体中がなんだか綿に包まれているような覚束ない感覚しかない。神経は入ってくる外部情報ばかりを受け取って、彼女が体を動かそうとする意識を全く伝えてはくれないようだった。
 見下ろしている男には、あちこちを動かそうともがいている様子はひどく滑稽に見えただろう。
 幾つもの疑問が突然わきあがってくる。

  自分は一体どうしてしまったんだろう。

 いや、自分はいつ眠った?

 眠る前は何をしていた?

 ここはどこだろう。

 
 こちらを見下ろす男が、突然喋った。
「セツナ」
「?」
 言われた音の連なりの意味がわからない。
戸惑いに揺れた瞳に気付いたよう、男は言葉を補うように言い直す。
「刹那・F・セイエイ。俺の名だ。お前は、『E』…いや、イブか?」

 イブ。

 それは確かに彼女を示す名称だった。
 ごくごく限られた人だけが、彼女をそう呼んだ。
 ゆえに彼女は、ほんの僅かばかり安心した。
 少なくとも、彼女が普段そう呼ばれていた範囲内に、自分はいるのだと。その名を見下ろしている男に伝えた彼女の親しい誰かがいたのだと。
 そう考えると、体の動かない不安もあいまって、彼女の名を知っている相手だったというだけで、セツナという男に対する疑念が減るから不思議だ。
 声がうまく出せなかった彼女は、多大な努力を払って、問いかけに応えるよう小さく頷いた。
「動けないのか?」
 これにも首を縦に小さく動かすと、わかった、と呟いた男は屈みこみ、彼女の身体に手をかけた。
(…あれ…)
 肩から伝わる感触に、違和感。
(なんか…なんだか…とってもおかしい気がする…)
 鈍い痛みを抱えた頭で、ぐるぐると必死に考える。
(まさか…まさか…)
 だが動かすことのできない体で横たわっている状態では、真上の天井ばかりしか見えない。
 セツナと名乗った男は、肩に置いた手に力を込め、彼女の背に腕を回して上半身を抱き起こした。

 嘘だ。

 認めたくなくて、できれば意識を失いたいと彼女は思った。
(素っ裸だなんて!)
 先ほどから寒いと感じていたのも無理はない。衣服を身につけていない状況では、体温は外気に熱を奪われてしまう。その上、重力に従って耳許に伝い落ちた滴に、水浴びでもしたかのように髪がぐっしょり濡れていることにも気付いた。髪といわず、よくよく意識してみれば、少し動いた背中に触れた身体の下も、液体に浸っていたようだった。
 イブの頭の中は混乱状態だった。
 目覚めるとどこかもわからない場所で濡れた身体は動かず、声もよく出せず、おまけに裸で、こちらの名前は知っていたものの彼女にとっては全く知らない男がすぐ側にいる。これで冷静でいられる人間がいれば見てみたいものだ。
さらに、続くセツナの言葉が、混乱に拍車をかけた。
「お前を回収する」
(回収!?)
 単語に驚いてセツナと名乗った男の顔を見やる。声から若いとは思っていたが、その横顔や骨格はまだ幼さを残した少年のものだったのだ。黒髪に赤褐色の瞳で、肌の色はやや暗い色。
 予想もできない出来事の連続に呆けている間に、セツナと名乗る男…少年の右手が動き、イブの両腕は少年の首に縋りつくような状態にさせられた。傍から見れば抱き合っているようにも見えただろう。
 そのまま彼の右手が膝裏に伸ばされ、抗うこともできず少年に抱えあげられそうになっていたところ、彼女の心の叫びが聞こえたかのように新たな人物が登場し、セツナの手が一時停止することになった。


* * *

「刹那ぁ! あれだけで通信切るな…って、何してるんだ、お前」
「ふむ、こりゃ予想外な状況だな」
 聞きなれた声に刹那が顔だけ振り向くと、ロックオンとイアンが扉の前で、どこか呆然とした表情をして立っていた。二人の視線は、刹那の腕の中に注がれている。
「『E』がみつかったんじゃなかったのか? どこだよ」
 気を取り直そうとするように一度頭を振って近付いてきたロックオンは、刹那へ、正確には刹那が抱えている女へ視線を固定したまま離そうとしない。
 突如として現れた第三者なのだから、訝しむのも無理はないと、刹那は思った。
 腕の中の女は小さく身じろぎをして、顔を伏せるよう刹那の胸元に顔をうずめる。
 その様子に、ロックオンとイアンは顔を見合わせた。
 自分たちと離れていた30分程度の間に、一体この女性と刹那の間にどのような出会いがあったというのだろうか。
 よくよく見ればその女はまだ随分と若く、少女のようにも見えた。おそらく、刹那のように子供と大人の狭間の年頃のなのだろう。加えて彼女は服をまとっていない状態、つまりは素裸だった。
「彼女はどうしたんだ」
 当然の疑問をロックオンは口にする。
 刹那は胸元に収まったイブの名を持つ女を一旦確認するよう目をやり、ロックオンへと顔を向けて淡々と報告した。その声は任務の報告をするときのように、何の感情も乗っていない。そして声の告げる内容もまた簡潔を極めていた。
「おそらく、この女が『E』だ」
「はあ!?」
「おいおい、そりゃ本当か?」
 びっくり仰天、という声を上げたイアンとロックオンは、先程よりもさらに刹那の抱える女を凝視した。
 刹那の体に隠れてよく見えないが、漆黒の髪をした若い少女の様子は、そこらにいる普通の少女と何の変わりないようにみえる。
 それなのに彼女が、ヴェーダが回収を指示した対象『E』だというのか?
「お前、それ、どういうことか…」
 説明しろ、とロックオンが言い終わる前に、刹那は彼女を持ち上げると、赤い絨毯を踏みしめて扉へ向かって歩いていく。
 途中、ロックオンとイアンの側を通り過ぎるが、立ち止まることはなかった。
「待てよ!」
「ハロがデータを吸い上げている。俺は『E』を回収して、先に帰還する」
 制止の声に扉の前で立ち止まった刹那は言い置いて、それきり振り返りもせず歩みを速めて去っていってしまった。

 取り残されたロックオンとイアンは、足早に立ち去った刹那の背中を見送って、再び顔を見合わせる。
「彼女が『E』っつわれてもな…何がどうして…」
 二人はさっぱり訳のわからない状況に困惑しきりだった。
 約束の時間に戻ってこない上、連絡すら寄越さない刹那にこちらから通信してみれば、『E』がみつかったという。送られてきたポイントデータを辿って来てみれば、刹那がなぜか見知らぬ女と抱き合っている。さらには、その女が『E』だと刹那は言い、抱っこして行ってしまう。
 作戦行動中には起こりうる可能性を予測しつつ行動せねばならないと言われるが、これは全く想像すらできない可能性だった。
「兵器か何かだと思ってきた俺は無駄足だったってわけか。それにしてもこりゃ、どっちかっつーと俺じゃなくてモレノの領分だな」
 室内中央に鎮座している装置を検分して、イアンは頭をがしがしとかき混ぜた。
 医療用ポッドによく似た形状の装置は、おそらく刹那が抱えていた女性が納まっていたことは予想できた。そうであれば、技術者であるイアンよりは医療に従事するモレノの方がわかることが多いに違いない。
「何者なんだろうな、彼女は」
「さあな」
 二人の会話はそこで途切れた。情報がない状況で何が話せるというのだろう。
 装置の側でラインを繋ぎデータを収集しているハロを見て、ロックオンは溜息をついた。
 おそらく刹那以外にもっとも状況を知っているのは、この人工AI以外にいない。
 データの吸い上げが終わった後に記録を参照すれば、幾つかの疑問には答えがでるだろうか。
「とりあえず、ミス・スメラギに報告でもしておくか」
 諦めた声音でロックオンは手元の通信機を操作し、プトレマイオスの管制室へとつなぐ。
小さな立体画面に、スメラギの顔が映った。
「ロックオン、状況はどうなの? 『E』は回収できたのかしら?」
「ああ、まあなんつーか…『E』らしきものを回収した。いま刹那がそいつを抱えてそっちに戻るところだ」
「そうなの、それで『E』は何だったの?」
「……女だ」
 同時に通信を聞いていた管制室の面々の驚きの声が、スメラギの背後で聞こえた。スメラギは絶句している。ロックオンは力なく笑って、彼らの反応も当然のものだと思った。回収目標は兵装の類という先入観は見事にぶち壊され、それが女一人だったとは夢にも思わなかった。
「詳しいことはまだわからない。何しろ最初に見つけたのは刹那で、さっさと抱えて行っちまったからな。いまハロに女が入っていた医療用ポッドのような装置のデータを回収させているから、終了次第そちらに表示されるだろう」
 そこで、ロックオンはイアンに呼ばれて通信機から顔を上げた。
 イアンが指さす先に、装置のモニタに点滅する文章を見つける。
「あー、その女の名は、おそらくイブだ。イブの『E』ってことか? ヴェーダもいかれてるよ、まったく。女一人を回収するミッションを提示するなんて、何考えてんだか」
 思わず口にしてしまった愚痴めいた言葉に、同時に通信を聞いていたティエリアが割り込んだ。
「ロックオン・ストラトス。前も言ったが、ヴェーダは意味のないことは指示しない」
「そうは言われても、遠路はるばるやってきた目的が女一人ってーのは、些か理解しがたいぜ」
「……」
 ロックオンに対してティエリアはそれ以上、言葉を重ねることがなかった。
 ティエリアの脳内では、一つの予想が姿を描いていた。
 見つかった女というのは、もしかしたら己と似たような者ではないのだろうか?
 きけばポッドのような装置に入っていたという。それは、「あのこと」を意味するのではないか?
 そうであれば、ヴェーダが『E』を有益と判断したのも頷ける。
「彼女は恐らく…」
「ティエリア?」
「いや、何でもない。とりあえず帰艦してその女に話を聞いてからだ」
 それきりティエリアは通信を切ってしまった。
 何か知っているような口ぶりに、ロックオンもスメラギも腑に落ちなかったが、ティエリアとアレルヤはそのまま帰投、ロックオンとイアンが情報を回収した後、プトレマイオスで話し合おうということに落ち着き、通信を終わらせた。



BACK NEXT TOP