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時の砂楼02



 ジェシカが死んだ。
 ハイネセンから数百光年銀河を隔てたイゼルローン要塞で、ヤンは彼女の訃報を受けた。
 情報規制の目を潜り抜けた一報がもたらされたのは、事件の起こった六月二十二日から十日以上経った七月上旬のことである。
 軍事革命を叫ぶ救国軍事会議に対し、ジェシカ・エドワーズは戒厳令下のハイネセン・スタジアムで市民集会を決行した。彼女が掲げたスローガンは、「暴力による支配に反対し、平和と自由を取り戻す」というものであり、彼女は民主共和政治を謳う同盟議員として言論による反抗を試みたのだった。
 そして、ジェシカは軍事革命派の武力鎮圧――のちに「スタジアムの虐殺」と呼ばれる事件の中で、二万人の犠牲者とともに命を落としたという。
 ヤンが武力クーデターによって自由惑星同盟を掌握しようとする救国軍事会議に対抗し、イゼルローン要塞駐留艦隊の出撃編制を急がせている最中の出来事だった。
 イゼルローン艦隊――通称ヤン艦隊は、ヤンが予め宇宙艦隊司令長官アレクサンデル・ビュコック大将を通じて受け取っていたクーデター鎮圧を命じる指令書のもと、クーデター派に占拠された惑星シャンプールを解放、さらにドーリア星域会戦で救国軍事会議に参加した第十一艦隊を撃破し、次なる制圧目標を首都ハイネセンに定め、作戦準備を進めていたのである。
 ジェシカとヤンの交友関係を見知った幾人かは、ヤンに物問いたげな視線を送ってきたものの、彼はそれらをサングラスで遮った。
 個人的感情はともかく、軍事革命派による統制は早々に破綻の兆しが見え始めた現在、ヤンはともかくもクーデターを終結させて一刻も早く政府機能の回復を目指さなければならなかった。
 日々、圧倒的な切実さを伴う現実はヤンを追い詰め、戦いの準備へと駆り立てる。
 一体、自分以外の誰が、事を成せるのだ。
 そういった思考は傲りかもしれず、ヤンがおらずとも有能な部下達のうちの誰かが立ち上がるかもしれなかったが、ここイゼルローン要塞における最高責任者は要塞司令官ヤン・ウェンリー大将であり、自分自身が反クーデターの戦旗を振るのが適任であることを彼自身も認めていた。
 慌ただしく陣容を整え、明日にはイゼルローン要塞から出撃するという前夜、ヤンは長らく齧り付いていた執務机から逃れ酒場の片隅でグラスを傾けている。
 官舎へ戻れば同じ酒を飲めるが、酒杯を重ねるヤンを彼の養い子が気遣い含みの目で見るので、教育上の配慮と誰にともなく言い訳した結果だった。
 稀に訪れる薄暗い店の隅に座る彼を、誰もヤン・ウェンリーであると知らない――心得た人々が知らない振りをしているだけかもしれない――空間は、ヤンに静かな思考の時間を与えてくれた。
 グラスにたゆたう酒に、相変わらず冴えない自分の顔が、疲れとともに歪に浮かんでいる。
 情報を精査するたび、大規模な市民弾圧とジェシカ・エドワーズ議員の死は揺るぎなく事実として突きつけられた。そして彼は従来、父の場合も、友人の場合もそうであったように、彼女の死を受け入れた。
(思いもよらないことばかりだな、本当に)
 士官候補生時代、自分がエル・ファシルの英雄になることも、イゼルローン要塞で司令官の任に就いていることも考えたことがなかった。
 誰も彼もが死んでいく理の中で、ラップやジェシカがいなくなることなども、あの頃の自分は見ぬ振りをした。失う前に失う想像をして胸を痛めるほど、ヤンは感傷的な性分を持ち合わせていないのだった。だから結局、誰かの死はいつまでも自分にとって思いもよらない出来事なのかもしれない。
 ゆるい春の陽射しが降り注ぐ士官学校の中庭で、木陰で寝転び読書に勤しんでいたヤンに、微笑みかけたジェシカはもういない。
 事実を脳内で言語化すれば、理屈として納得はするものの、現実感はひどく覚束なかった。
 常に傍にいたわけでもなく、毎日言葉を交わしたわけでもなく、ジェシカが死んでもヤンの日常に支障はない。有能な艦隊指揮官や副官、幕僚達が軍務を滞りなく処理し、イゼルローン要塞は中央制御室のコンピュータ群が大気や水の循環を管理し、官舎へ戻れば出来すぎた養い子が腕を振るってのご馳走を用意してくれる。
(君がいなくなっても)
 一杯目を飲み干し、二杯目の半ばまで酒を進めると、軽い酩酊感がヤンを包み込んでいった。身体に充満するアルコールは心地よく、ヤンの感覚を曖昧にしていく。
 琥珀色の酒には丸い氷が漂い、ゆっくり表面積を液体へと変貌させていく。氷に儚く反射する薄明かりは、まるで星のようだった。きらきらと溶け落ちていく小さな光を、ヤンはただ見ている。
 誰にも、何も言われたくはない。時が過ぎていくことを意識するかしないか、その曖昧な感覚に身を浸せればこの時は充分だった。
 もしも何者かに、悲しいのか、と問われればヤンは眉尻を下げ、さあね、と答えたかもしれない。
 ジェシカが死に、自分に残されたものが何であったのか、意味を意識して探している自分の薄情さに、ヤンはジェシカの声を聞いて心の中で頷く。
『相変わらずね、ヤン・ウェンリー』
 そうだよ、君が死んでも涙も流さない、相変わらずな奴だ。
 君が、君たちがいなくなっても、自分の明日のことを考えているような奴だ。
(けれど、君が、もういないことが)
 いなくなった相手に、口にしないにしても、ヤンは相変わらず率直に語りかけることさえできない。
 最後に聞いた声音は傷ついたまま、二度と優しくヤンの耳に発せられることはない。そしてヤンはジェシカがいなくても進んでいく現実の中で、明日も、明後日も、彼自身が銀河から消え失せるまで生きていく。
 ヤンは記憶の砂粒を、そっと過去と名付ける箱へ仕舞い込む。再び取り出す時がいつになるのかは、彼にもわからない。
 氷が溶けて薄まった酒を再び口に含んだが、飲み干すことはせずヤンはグラスを置いた。
 イゼルローン要塞内時刻も午前零時に近い。出撃にあって司令官が寝坊や二日酔いでは恰好がつかない。
 懐からカードを取り出し、支払いを済ませて席を立った。
「お気をつけてどうぞ」
 店主の丁寧な声に目礼を返し、ヤンはバーを後にする。
 ひとり、彼は青白い人工灯に照らされた夜道を歩いて行く。


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