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01


 うららかな陽気が射し込む統治府の廊下を、一人の官僚が闊歩していた。彼はある扉の前で立ち止まり、半ば部屋の主の不在を知りながら、礼儀として第一執務室の扉を三度叩いた。先程、彼は一台の公用車が統治府から出て行くところを見たのである。
 返答はない。もう三度叩いたところで、執務室の隣の部屋から統治府首席補佐官のマインホフが顔を出した。軽く片手を挙げて挨拶をし、彼は署名待ちの書類の束で肩を叩きつつ問いかけた。
「若い方の領主殿はどちらへ? 確認した予定では、今は在室時刻のはずだが」
「先刻、魚がなんとかと仰いながら飛び出してゆかれました。本日は港の方へ急遽視察です」
 手招かれて補佐官の部屋へと入り、置かれたソファに彼はどかりと腰掛けた。マインホフは次席補佐官の若い者に茶の用意を頼みながら、向かいの席に座った。
「ああ、南のあたりに作った養殖場の件ですか。しかし、あれは既に視察する必要もないほど順調な運営をしているのではなかったか…」
「今年のマグロの味を見て欲しいと連絡がありまして」
 彼はマインホフと視線を合わせて苦笑し合った。
「それならば、貴卿が止められなかったのも仕方がないのでしょうな」
「夏は旬のものが多いから、とは老卿のお言葉ですな」
 既に統治府に席を得て数年経つ二人は、このような出来事が決して珍しくもないと身をもって知っていた。
「執務は山のようにあるのだから、連日の外出はなるべく避けて頂きたいというのが本心ではあります。しかし、あの方もまだ若い。机に座って長く過ごすのも気詰まりだろうと思うと、お止めするのも心苦しいものです」
 マインホフは役職ゆえに領主のスケジュールを常に把握しているが、その予定は多忙と表現して差し支えないものだった。
 うら若き領主は、オーディンとフェザーンを頻繁に行き来しつつ、領内でも政務に采配を揮っている。
 しかし、高貴なる義務を背負う立場にあるとはいえ、いまだ二十歳にも達しない年頃の少女が執務室に籠もっているを見るにつけ、多少の息抜きも必要であるとマインホフは思うのだった。
 目元を下げたマインホフの表情の含む色は、慈しみと言い表せなくもなかった。頭の切れる能吏と噂されていた同僚が、どことなく領主を補佐するというより子守のごとく面倒を見ているという風に見えるのは、このような時である。
「貴卿がそのように甘やかすから、あれが好きに飛び出して行くのではないかと俺には思われるのですが」
 彼は少しの非難の色を込めて、年下の首席補佐官に言った。
 運ばれてきたティーカップには、マインホフ気に入りの緑茶が満たされている。彼は緑茶よりコーヒーの方を好むのだが、同僚の好みには文句を言わず子爵領の特産物に口をつけた。
「それは貴卿には言われたくないものです、家庭教師殿。実務の処理能力が優れているのは良いものですが、あの方にも相応の経験を積んで頂かねばならぬのに、貴卿などが全て滞りなく済ませては考えて頂く間もないでしょう。それを甘やかしと言わずとして、何と言うのかと私には感じられるのです」
「元家庭教師から言わせて貰えば、あれも実務もこなす能力はありますよ。面倒だからと近頃は我々に全面委任しているだけでしょう。それなりの人材を揃える手間は自分自身でかけたのですし。とはいえ、確かにまだまだ学んでもらわねばならぬことが数限りなくあるのも事実です。新事業が上手くいっていると言っても、今後継続的に滞りなく続けていける保証はどこにもないことであるし、先が思いやられる」
 彼は顎先の無精髭を撫で、ここ数年のうちに出来の良すぎる生徒が領内で行った施策の数々を思い起こした。惑星開拓事業の一環としての農業と漁業の促進と食品加工事業の開始、教育制度や社会福祉制度の整備、人手不足をにらんだ移民受け入れと、一口で表せば数行で終わるが実行には厖大な労力をかけた政策である。それら殆ど全てが、幼い領主の鶴の一声から始まったものだった。実質的には領主の後見人であるコンラッド・フォン・卿の後押しと助力もあって始まり、幾つかの困難を越えた今、子爵領の歳入増加と世帯平均所得の上昇などの事実が領地運営の成功を物語っているといえるだろう。簡単に言えば、子爵領は帝国貴族領の中でも特に豊かになりつつあるのだった。無論、領内には有人惑星が一つ、人口も帝都オーディンに比べるべくもないのだから、小規模かつ局地的な豊かさでしかないと言えばそれまでではあった。それに今後、豊かさをもたらした事業を領内以外の地へも拡大できるのか、はたまた百年後も同様に良好な財政状況でいられるのかはシルヴァーベルヒにも判らなかった。
「なるほど、貴卿は自らの生徒の行く末が気になりますか。数十年来の俊英と名高かったブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒ殿が、オーディンへの栄転を蹴って辺境へ留まり続けている鍵は、その辺にあるのでしょうかね?」
「それは貴卿も同じではないですか、首席補佐官殿。先日、国務省から戻っても良いという辞令を受けたそうではないですか。受諾したなら今頃は旅立ちの支度をしているはずでしょう?」
「私はこの地の緑茶が好きで、離れがたいのです」
 ティーカップを傾けるマインホフの発言は冗談交じりだったが、彼がシルヴァーベルヒと同じく何かしらの愛着を子爵領に抱いているのは間違いないのだった。銀河帝国では前例乏しい奇抜な政策は、シルヴァーベルヒやマインホフといった有能な官吏に積極的な労働意欲を生じさせるには十分であった。貴族の腐敗に貢献するのではなく、より多数の臣民に恩恵を与え、また斬新ともいえる新たな道を切り開く良さや楽しみが、そこには存在していた。そのように思う統治府の役人は二人だけではないようで、左遷のごとく中央から飛ばされてきた幾人かは、彼ら同様に辺境に骨を埋める覚悟で政務に励んでいるし、自らの存在意義をこの地で見出すことは多かったのである。平民か下級貴族の出身で文官となった者は、どこかで今の貴族の特権の振るい方や平民の不幸には不満を持っているものであるし、その状況を改善しうる機会を歓迎しこそすれ、忌むことはなかった。
 シルヴァーベルヒは下級とは言えない貴族の出ではあるが、無能が蔓延り合理的かつ有効な施策や案が全く通らない貴族政治には辟易していたので、実験的な取り組みも実利があれば採用する気風は居心地が良かったし、そこで自身の才能を証明することも可能だと野心家の彼は考えていた。マインホフはシルヴァーベルヒよりは他者への貢献に幸福を見出すタイプで、シルヴァーベルヒ同様に自己の能力を最大限発揮できる環境を喜びつつ、領主を補佐していた。
 二人がしばしの間、近々開墾予定の土地にどのような農業用水路を建設するかという話を交わしていると、荒々しい足音が徐々に近付き隣の部屋の扉が開く音がした。
「やけに早いが、お戻りでしょうかな?」
「いいえ、戻られたら大体はこちらへ顔を出されて、誰か来なかったかと訊ねられるのが常でありますし、この足音は…」
 マインホフが名を挙げる前に、今度は首席補佐官の執務室の扉がノックもなく開かれた。
「子爵閣下は、どちらへ行かれた!?」
 怒気に顔を赤くしたカール・ブラッケの登場に、シルヴァーベルヒとマインホフは驚き立ち上がる。何か大事があったのだろうか。
「そのように声を荒げて、どうなさったのです」
 常に冷静さを保つマインホフの声に、カール・ブラッケは地団駄を踏み拳を握りしめ叫んだ。
「俺の知らぬ所で、あの小娘がオーディンへの異動を受諾したというのだ! 同意もなく、勝手にだ!」
 あまりの剣幕に、マインホフは鼓膜の保護のためにも背を反らしてカール・ブラッケとの距離を保った。シルヴァーベルヒは露骨に掌で耳を塞ぐ真似をするが、カール・ブラッケの勢いは留まるところを知らなかった。
「口うるさい爺をこれ幸いと追い出すつもりか、こうなったら俺はとことん統治府に居座ってやる! だが、とにかく俺はいますぐ一言文句を言わねば気が済まぬのだ。マインホフ、あれはどこへ行ったのだ」
 マインホフは激高するカール・ブラッケが上品とは言い難い発言をしていることを認識していたが、指摘する勇気は出なかった。それよりも建設的な会話を交わすべく、ブラッケの疑問に答えることにした。
「閣下は港の方へ行かれました。お戻りはそう遅くはならぬと仰っておいででしたが…通信機に連絡は入れてみたのですか」
「生憎、不通でな。護衛の方も同様だ。恣意的に通信を受けぬようにしているとしか思えぬではないか!」
 感情を抑えるようにと手振りで示しながら、マインホフはブラッケには何らかの誤解が生じているのではないかと指摘する。
「まあまあ、閣下はいつも我々の理解を越えることをなさいますが、何事にも確かな理由がおありだったではないでしょうか。食道楽を極めるつもりかと思えば、確かな将来の展望があっての食糧生産計画でありましたし、採算が取れぬとあれほど懸念された加工糧食の件も、短期間で販売先を広げて利益を上げた方です。我々には見えぬ何かを見て、貴卿のオーディンへの異動を勝手に承諾なさったのではないでしょうか」
 宥めるマインホフに、ブラッケはむっつりと黙り込む。普段から顔を合わせれば言い争うことも少なくない相手だけに、ブラッケは悪意の存在を真っ先に信じたものの、言われてみると何らかの妥当な理由があっての判断であったかとも思えてきたのだった。
 そこで折良く口を開いたのは、嵐を静観していたシルヴァーベルヒだった。
「恐らくだが、俺には見当がつきますよ、ヘル・ブラッケ」
 カール・ブラッケは思想的な理由から貴族であることを表す姓と名の間のフォンを名乗らぬことを徹底していたので、シルヴァーベルヒは貴族に対する敬称を省いて話し掛けた。
「俺も先年、同じような辞令をもらって断ったのですが、その報告をした際に言われたのですよ。次には断らずオーディンへ戻れと」
「なぜだ。卿は俺と違って、あの娘に嫌われている節は見受けられぬのだが」
「別に嫌ってヘル・ブラッケの辞令を勝手に認可してしまったわけではないということです。些か説明の義務を怠っているとは思うが、悪気はないのでしょう。俺が以前に言われたのは、有能な人材を手放すのは惜しいが、広大な銀河帝国の一辺境でしかない子爵領だけでその能力を揮うのは、更に勿体ないということでした。この先、世は大きな変化を迎えるだろうから、その日のためにも中央で頑張ってくれと言うのです。そうすれば大きな輪を巡り巡って、結局は子爵領にも益があるのだと」
 険しかったブラッケの表情は、シルヴァーベルヒの話を聞くにつれ解けていった。いらいらと腕組みした二の腕を叩いていた指先も静まり、先程までの怒りが落ち着いたようだった。
 ブラッケは更に数秒の沈黙を経て、自らの尚早な判断と偏見を自覚しつつあった。
「つまり子爵領で行ったようなことを、オーディンでも俺にやれということか」
「今回の件は、それだけヘル・ブラッケの能力を評価している証左であると俺は思いますよ。気になるのなら、ご本人に改めて尋ねてみるのが良いのでしょうが」
 シルヴァーベルヒがそう締めくくれば、ブラッケは自身の勘違いと騒いだことを詫びた。
「ふむ、なかなかにあの娘にも深慮があると見える。とにかく、事実確認をしてから判断することにしよう。そうであるなら、俺もオーディンへ戻ることはやぶさかではないのだからな」
 騒動が鎮まりマインホフが胸を撫で下ろした所、統治府の高官三人が集う部屋の扉を叩く者が再びあった。部屋の主であるマインホフが入室を促すと、表れたのは青い顔をしたオスマイヤーであった。彼は地方警察制度の整備と領内の開拓事業の広範な補佐を行っている、内務省からの出向――もとい左遷組の一人である。
 室内の顔ぶれに一瞬入室を躊躇ったようなオスマイヤーだったが、マインホフに顔色の悪さを指摘されるとどこか諦めたような表情で、自身がオーディンへ戻る事になったことを三者に告げたのである。
「実は閣下が…」
 六月は銀河帝国においては年度末にあたり、異動の辞令が多く出される時期だった。
 同様の問題を抱えた幾人かがその後も首席補佐官の下を訪れ、シルヴァーベルヒは同様の説明を繰り返すことになったが、結局のところ彼らが納得するにはその判断を下した本人の口から真相が語られる必要があった。
「閣下、至急お戻り下さい。急な懸案事項が発生したのです。詳しくは折り返しのご連絡をお待ちしております」
 マインホフはしたためたメッセージを、もっとも重要度が高い記号を付して事の渦中の人物の通信機へと送信した。
 果たして数分後に執務室のヴィジホンの呼び出し音が鳴り響いたが、彼は通信機の前に立つことはなく、カール・ブラッケに場所を譲ることにした。後はオーディン神の導きあれ、という心持ちであった。


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