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ねんねこ令嬢一日記03




(うーん、そこそこ、きれい?)
 ユリアンがトラバース法でヤンの被保護者となる前のヤン家の惨状に比べれば、アッテンボローは独身男性としては片づけている方だろうか。しかしさすが元ジャーナリスト志望というところだろう、書籍の類が一角に積み上げられている。おそらくその横の本棚に収まりきらなかった分だろう。
 そうして左右を見渡しながら、猫になったのだから猫ジャンプはできるだろうかと唐突に思いつき、置かれたソファに向かって跳躍してみることにした。
(おお―! 華麗なジャンプ!)
 しなやかな動きでソファに飛び乗った は、今度はテーブルに飛び移った。
(お、いいもの発見)
 立体テレビのリモコンである。帝国とは趣の違った番組が見れるだろうと、電源のスイッチを入れた。
 画面の中では女性レポーターが政治関連の記事を読み上げているようだった。
「…お前賢いな、スイッチ入れてニュース見る猫なんてそうそういないぞ」
「にゃーお」
(中身、人間ですから)
 侘しい一人住まいに突然響いた人の声に驚き振り返ったアッテンボローが見たのは、ソファセットの上でニュースをじっと見つめる黒猫の背中だった。
 随分と長い間、書類と睨めっこしていたことに気付いて立ち上がり、ひとつ伸びをする。
「あーあ、疲れたな…でもまだ作成する書類あるしな…」
 眠気覚ましのコーヒーを入れ、一休みのつもりで消すついでだからとテレビでも見ようとソファに腰かけた。
(お疲れ様ですねー)
 疲れた様子のアッテンボローを同情しながら右足で彼の腿を慰めるようにぽんぽんと叩くと、自宅残業続きのアッテンボローは笑って を抱き上げる。
「お前、本当に人の言葉がわかるみたいだな」
「にゃー」
(わかるよ)
 しっかりと首を縦に振って声を出す。
「いやはや、よく仕込まれてるもんだ」
 まさか猫が言葉を理解するなど思ってもみないアッテンボローは、あまりにタイミング良い返事と相槌を打つ猫に相好を崩しつつ、膝上に丸まった猫を乗せてコーヒーを啜った。
「にゃー!」
(本当なんだから! わかってるんだから!)
 いくつかのニュース項目が流れた後、彼は猫をどけ、右手で肩をとんとん叩いて立ち上がった。
「さて、続き続き、と…」
  は書斎へと向かうアッテンボローに追い縋り、その足元でぴょんぴょん飛び跳ねた。
(どうしたら信じてくれるのよー)
「遊ぶのはまた明日な。今日はこれがあるんだよ、畜生、給料二倍にしろっての」
 言いつつアッテンボローはPCのワードプロセッサを立ち上げた。
 そこでぴんと閃いた である。
(これなら!)
 椅子を経由して仕事机へと飛び乗った は、アッテンボローの手の横に陣取り、ソフトウェアが起動するのをじりじりと待った。
「俺、今から仕事なんだけど…」
 そう言って机から降ろされても、 はめげずに再度ジャンプしてキーボード脇で不動の態勢を崩さなかった。
「なんなんだ? これが面白いのか?」
 諦めて溜息をついたアッテンボローを横目に、表示された白いテキスト画面に、 はキーボードを押し込んで文章を打ち込んでいった。
「おいおいおい…これはお前の玩具じゃない…ぞ?」
 アッテンボローは髪と同じ鉄灰色の瞳を見開かずにはいられなかった。
「私は人間です、名前は です…?」
 机の上で一つ一つキーを押し続ける猫を、彼は凝視した。
「まじか?」
「にゃ!」
(まじです!)
 俺、ハードワークに頭がおかしくなったかも、そう思ったアッテンボローだったが、画面上には更に文章が続いていた。
『起きたら猫になっていました。助けて下さい』
「いや、助けてって言われても…」
 色々な状況に対応できる柔軟な思考と行動力を兼ね備えた青年は、しかし猫となった人間を助ける方法を思いつくことはできなかった。
「いやいや、もしかしたらこれは俺の夢なのかも…試しに…俺が今日食べた夕飯はなんだった?」
 こちらをじっと見つめて耳を傾けていた猫は、すぐさま画面へ向き直って答えを表示させた。
『ハンバーグとサラダセットの弁当』
「俺は帰ってくるとき何を着ていた?」
『同盟軍制服』
「…本当に、人間なんだな」
『本当』
 そうしてしばしアッテンボローは頭に手を当て、黙考していた。
 彼の驚異的な回転能力を誇る頭脳が現状を整理し、どう考えてもこれは現実だと認識したとき、アッテンボローは悟ったように落ち着いた表情で、猫の姿の に真面目に語りかけた。
、っていったよな」
「にゃ!」
(そうです)
「どうすりゃ人間に戻れるんだ?」
 これには声ではなく、文章で告げた だった。
 その方法は朝から考えているのだが、まったくもってどうすればいいのかわからなかったので、こう答えた。
『わからない。まさかキスとかね』
「なんだ、そんなので戻れるのか? 試してみるか」
 冗談で打ち込んだのだが、アッテンボローは信じてしまったようで、 を両手で抱きあげると顔の前に連れてくる。
「にゃー!にゃー!」
(ちょ、ちょっと冗談だから! って通じない!)
 そばかすの浮いた顔が近づいてくる。
(え、嘘、ちょっと、いや、嬉しいみたいな? いや複雑―!!)
 そうして鼻先ごと猫の口に触れた柔らかな感触が離れていったところで、 は体を駆け抜ける衝撃を感じた。
(ま、まさかそんな、ご都合主義的展開が許されて!?)



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